- ベストアンサー
日本のアイデンティティに外国のつながりはどのように受け止められているのか
- 外国につながりがあっても、日本のアイデンティティも重視してほしい
- 外国のアイデンティティと日本のアイデンティティを両立させるべき
- 外国のアイデンティティは表向きにせず、日本のアイデンティティに向き合うべき
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (3)
- WhatisLOVE
- ベストアンサー率34% (391/1147)
- p-chan1gou
- ベストアンサー率13% (3/23)
- ssssan
- ベストアンサー率18% (132/730)
関連するQ&A
- 日本が嫌いな人間の「正体」とは,日本人!?
日本人のアイデンティティを分かちあっている人々が,みずからのアイデンティティに「向きあう」ことはありますか? 参考までに: 「半分しか日本人じゃないけど,それでも,わたしは日本人。」 日本教育時代,わたしは,強く意識することはなかったけれども,「日本」というものが,わたしのなかに宿っていることを,知っていました。 台湾系日本人という,特殊なバックグラウンドをもっていることから,わたし自身は,家庭というバイカルチャーの空間と,日本社会(たとえば,日本教育などに代表される)という,モノカルチャーの空間を,行き来するための「術」というものを,身につけなければなりませんでした。わたしなりの,「ショセイジュツ」のようなものでもありました。 そして,幸運にも,アメリカで教育を受けるチャンスにめぐまれ,アメリカ時代を経て,みずからの台湾と,日本のアイデンティティを肯定的に受けとめることができました。日本教育時代,わたしは,正直なところ,みずからの日本のアイデンティティを歓迎したくなかった時期がありました。それは,日本が悪いとかではなく,日本社会の閉鎖性というものの影響もあったのですが,大きな問題としては,当時の日本教育が,いわゆる「管理教育的な空気」であったからです。こういった,「特殊な空気」によって,「日本を嫌いになる日本人」がつくられるのではないかと,そのようにおもったときもありました。 日本事情について論じるにあたっては,「日本が嫌いな日本人」という「面白い考え方」があります。日本社会には,いろいろな理由があって,「日本」が嫌いで,「日本」を貶めたい,そのようなものの見方をする日本人がいる,という主張です。そういった主張がされるたびに,なぜか,外国につながる人々や,外国出身者が,「スケープゴート」にされます。ひとりの台湾系日本人として,外国につながりをもつ日本人として,みずからの民族的出自を理由に,「スケープゴート」にされることは,許しがたいことです。 「日本が嫌いな日本人」という「面白い考え方」について考えるとき,わたしは,これまでの日本の社会制度や,日本社会における人間関係のあり方にこそ,「問題」なり「病巣」があると考えます。外国出身者とか,外国につながりをもつ人々のせいで,日本社会がおかしくなったのではなく,日本人の「心の構造」にこそ,「日本が貶められているという言説」にかんする「ヒント」があると,わたしはおもいます。 わたし自身は,「半分しか日本人」ではないけれども,日本は好きです。そして,「日本が嫌いな日本人」をみるたびに,不思議に思うことは,「みずからの首を絞めるのが大好きな日本人」という,「異常な姿」です。これについては,日本社会の「問題」とは,その原因というものが,「みずからの首を絞めるのが大好きな日本人」という,「日本人の問題」がその根幹にあると,わたしはおもいます。 ある著名な作家が,“「反日」日本人”,という「興味深い考え方」を紹介しましたが,このような「問題」については,外国がどうのこうの…,ではなく,「日本人が日本人(日本)と向きあっているか否か?」こそ,大きな「ヒント」であると,わたしはおもいます。 わたし自身は,「半分しか日本人」ではないけれども,このような,「ゆがんだ精神性」を日本人がもっていることについては,「とても残念なこと」です。
- 締切済み
- その他(社会問題・時事)
- ニッポンはマイノリティを「否定」、「黙殺」するのか
日本人は、日本社会のなかで生を営むマイノリティ集団―たとえば、在日コリアンや在日中国人などの、外国につながりをもつ人々、同和地区につながりをもつ人々、アイヌの人々、ハンセン病患者、エイズ患者、LGBT関係者、障碍者、被爆者、水俣病関係者など―の存在を、どのようなものとして受けとめられているのでしょうか? ・日本社会の構成員であり、彼ら、彼女らにたいする差別や偏見を許してはならない。 ・日本社会の構成員ではあるが、社会の「表舞台」には立ってほしくない存在である。 ・日本社会の構成員ではあるが、彼ら、彼女らのアイデンティティについては、認めたくない、あるいは、共感できない部分が存在する。 ・日本社会の構成員として認めたくない。できれば、彼ら、彼女らの存在は「否定」、あるいは、「黙殺」したい。 先日の、ある地方公共団体の市会議員による、日本社会における先住民族の存在を「否定」することを意図した発言が、現在も大きな議論をよんでいます。当人の真意は、社会福祉政策による恩恵を必要としている人々がかかえる諸問題を提起したかったことでした。しかしながら、当人の先住民族やマイノリティ集団にたいする基本的な知識、認識が著しく欠如していたことから、多くの人々は彼の発言を問題発言として受けとめ、「舌禍事件」へと発展しました。 社会福祉政策がかかえる諸問題について論じたいのであれば、わざわざ先住民族の「存在」について触れ、それを強調する必要はあったのでしょうか。先住民族が直面している問題をふくめて、日本社会においては、マイノリティ集団にたいする批判のなかには、日本社会の「構造」がマイノリティ集団に悪影響をもたらしたといった見方ではなく、マイノリティ集団みずからの「精神的な問題」であるという指摘が少なくありません。こういった問題が論じられるたびに、「個人の問題」―たとえば、差別や偏見の問題であれば、差別や偏見をする人々や、それを受けとめる人々の「心の問題」であることが強調されるように―であることが「強調」されます。 わたし自身、外国につながりをもつ立場で日本社会のなかで生を営んでいます。この市会議員の「問題発言」は、わたしにとっては、極めて衝撃的なものでした。彼自身のマイノリティ集団にたいする浅はかな知識、理解の程度のみならず、彼が世間に向けて発信した「メッセージ」の裏側で、彼自身の「真意」に、先住民族の存在を認めたくないという<強い考え>があることを読みとったとき、心の底から怒りがこみあげてきました。こういった存在を知るたびに、わたしは、わたしのような外国につながりをもつ人々は、日本の市民権を持っていても、決して日本社会では歓迎されない存在であることを悟るのです。
- ベストアンサー
- ニュース・時事問題
- 日本を語る「立場」,「資格」
日本社会のマジョリティである,いわゆる「純血の日本人とされる人々」にとって,日本を語る「立場」,「資格」にある人々とは,どのような人々を指すのでしょうか? ***** 学生時代,わたしは,ある日本人(いわゆる「純血の日本人とされる人」)から,「あなたのような人が,日本のことについて語るのはやめてほしい」ということを,言われました。わたし自身は,台湾系日本人です。外国に「つながり」をもつという立場で,日本に住み,日本教育を受けた経験があります。そのようなバックグラウンドをとおして,わたしなりの「日本人との経験」や「日本社会での経験」を主張したところ,この人からは,「みずからのイジメの体験などについて語ったり,日本社会についてネガティヴなことを主張するときがあったので,まるで反日的だ」と言われました。この人にとっては,わたし自身のようなバックグラウンドをもつ「準日本人とされる日本人」が,日本について語ることに,納得がいかなかったのでしょう。 外国の人々,あるいは,外国に「つながり」をもつ日本人が,日本のことについて語るにあたり,何かしらの「条件」があるのでしょうか? たとえば,みずからのネガティヴな経験を語ってはならない,などの「ルール」があるのでしょうか? わたしのような立場の「準日本人とされる日本人」は,日本について語るときには,「美談」をちりばめ,まるで「息を吐くようにして」,「ウソ」,「でっちあげ」をつくらねばならないのでしょうか? たとえば,外国に「つながり」をもつ立場の日本人は,みずからのイジメ体験を,「封印」しなければならないのでしょうか?
- 締切済み
- その他(社会問題・時事)
- 日本が<好き>であることの意味
日本が<好き>であるための「条件」とは、どのようなものが考えられますか? ・国民国家としての日本に「愛着」をもち、それを「支持」すること。 ・日本列島に存在する、さまざまな地域の文化を理解し、それらに慣れ親しむこと。 ・日本列島の自然や気候の多様性を理解し、それらに慣れ親しむこと。 わたし自身は台湾系日本人で、「愛日」という立場をとり、日本のアイデンティティを受けついでいることに、非常に大きな意義があると受けとめています。 日本は好きです。 日本人も好きです。 こういったことを、ほかの日本人に「伝える」ことは、意外かもしれませんが、容易なことではありません。外国に「つながり」をもつ立場であることから、ほかの日本人よりも、注意深くなる必要があります。 社会の右傾化と、排外主義の高まりから、外国に「つながり」をもつ人々への「不信感のまなざし」が、日本社会のさまざまな場面においてみられるようになった現在、外国に「つながり」をもつ日本人が日本社会に受けいれられるためには、どのような「方策」が効果的なのでしょうか?
- ベストアンサー
- その他(社会問題・時事)
- 純日本人にこだわる「理由」とは?
いまの日本社会において、社会の構成員であるための条件として、いわゆる純日本人であることを強調する人々がいますが、そのメリットには、どのようなものが挙げられますか? ここ最近になって、純日本人という言葉を使う日本人が増えてきました。両親ともに、日本生まれで、日本育ち、日本国籍であり、外国との「つながり」が一切ない(と自負、あるいは確信)ことが主な条件であるとされます。 ひとりの外国に「つながり」をもつ日本人として、純日本人という考え方や、それを強調する人々にたいしては、つねに疑問をもっています。わたし自身は、異質な存在ではありますが、日本語を母語とし、日本の歴史を学び、日本事情を深く理解し、日本社会にたいしては「特別な思い」をもっています。それは、わたし以外の、非常に多くの外国出身者や、外国に「つながり」をもつ人々にとっても、同じことです。 外国に「つながり」があることは事実ですが、日本のアイデンティティを受けついでいることも、事実です。日本のアイデンティティを受けついでいることが正当に評価されずに、異質であることを理由に、差別や偏見、イジメのターゲットにされるということは、あってはなりません。
- ベストアンサー
- その他(社会問題・時事)
- ニッポンに向きあう
日本人が、みずからのアイデンティティに向きあったとき、どのようなことを第一に考えますか? 外国に「つながり」をもつ日本人、いわゆる「カッコ付き」の日本人という立場から、わたしは常に、みずからのもつ、日本のアイデンティティに向きあうようにしています。外国に「つながり」をもったことから、さまざまな事情はあったのですが、日本社会の一員として、日本のアイデンティティに向きあうことは、「神聖な義務」のようなものであると、受けとめています。 また、みずからの日本のアイデンティティに向きあったとき、ネガティブな要素、指摘しなければならないこと、厳しく批判しなければならないことがあるものの、いわゆる「日本のよさ」、「日本の美しさ」を再確認するように、心がけています。
- 締切済み
- その他(社会)
- 美しい日本!?
異質な他者という立場で日本を論じるとき、いわゆる「日本賛美」に徹するべきなのでしょうか? ひとりの外国に「つながり」をもつ日本人という立場から、わたしはたびたび、日本社会のことについて論じるようになりました。 外国に「つながり」をもつ日本人という立場で日本社会のことを論じるときには、「特別な配慮」をすることを心がけていますが、とくに、日本批判については、細心の注意を払うようにしています。なぜならば、わたし自身は、いわゆる「半分だけ日本人」なので、そのような立場の人間が日本社会を論じ、批判することにたいして、「半分だけ日本人のくせに」、「(差別的、侮蔑的な言葉の使い方ではあるが)雑種のくせに」などと言って、反発する日本人が少なくないからです。
- 締切済み
- その他(社会問題・時事)
- マイノリティは脅威!?
・マイノリティは脅威であるという「根拠」はどこにありますか? 外国に「つながり」をもつ立場として、ここ最近の日本社会における排外主義の高まりに危機感をいだいています。 排外主義を標榜する市民団体のなかには、活動の第一の目的に、「純日本人」以外の日本人を日本社会から「排除」することを挙げている組織があります。こういった組織に属する人々は、日本社会においては少数派ではありますが、そういった人々の存在、組織の存在は、外国に「つながり」をもつ立場としては、非常に恐ろしいものです。 わたし自身は外国に「つながり」はもっているものの、日本の歴史や、日本の文化を学び、「知日」、「愛日」という立場をまもっています。日本社会にたいしては、やや批判的ではありますが、批判をする以上に、日本社会を深く理解している立場です。 外国に「つながり」をもつ人々をふくめた、マイノリティの人々は、いまの日本社会にとって「不都合な存在」なのでしょうか? すでに外国に「つながり」をもつ日本人の多くが、社会人となり、日本社会に「貢献」しています。彼ら彼女らは、日本社会の脅威なのでしょうか? いくら外国に「つながり」をもつ人々が<努力>をしたとしても、日本社会が外国に「つながり」をもつ人々にたいする<まなざし>を改めない限り、彼ら彼女らにたいする偏見や誤解は解けないだろうと思うときがあります。
- 締切済み
- その他(社会)
- 多様化した日本社会におけるコミュニケーションとは?
「多様化」した日本社会における,コミュニケーションの「あり方」 1990年代より,日本社会は急速な多様化の時代に突入しました。 労働力の確保として来日した外国出身者,日本人配偶者として来日した外国出身者,さらには,彼ら彼女らの子供たちである,外国につながる子供たち,また,難民として受けいれた人々など,日本社会にはさまざまな「バックグラウンド」をもつ人々がいます。 さらには,それまでに日本社会のなかにおいて可視化されなかった「多様性」についても,しだいに理解がされるようになりました。たとえば,同和地区出身者,同和地区につながりをもつ人々,アイヌ,沖縄出身者,沖縄につながりをもつ人々,障碍者,ホームレス,ハンセン病患者,エイズ患者,おたく,ニートなど,「内なる多様性」が再評価されるようになりました。 日本社会は「単一民族の社会」ではなく,「同質性の社会」でもなく,そして,「均質性の社会」ではありません。ひとりひとりが,「違っている」こと,さらには,「違っている」ひとりひとりが,「“WA”になって踊ること」のできる<社会>こそ,これからの日本社会において必要とされている,目指すべき社会像であると,わたしは考えます。 「多様化」した日本社会においては,そのコミュニケーションの「あり方」が,たびたび問われています。ひとりひとりの「多様性」が「尊重」されることの重要さが強調される一方で,日本社会における<多様性>とは,「上っ面だけの<多様性>であり,社会の構成員にたいしては,“同化が強制”される」ことも指摘されています。(たとえば,テッサ・モリス‐スズキらによる日本批判。) 皆さんにとって,「多様化」した日本社会における,コミュニケーションの「あり方」とは,どのようなものでしょうか? わたし自身は,ひとりの「外国につながる日本人」という立場から,「ホンネ」と「タテマエ」に頼らない<コミュニケーション>の「可能性」を問うことが,いまの日本社会にとって必要であると考えます。
- ベストアンサー
- その他(社会問題・時事)
- 「日本が好き」を伝えるために
「物は言い様」という言葉があります。わたし自身はマイノリティの立場ではありますが,日本のことが「大好き」です。 それにかんして,どのような「表現」(言葉の使い方なり,選び方)であれば,その「思い」が肯定的なもの,ポジティヴなものとして,他者によって受けとめられるのでしょうか? 参考までに: わたしは台湾系日本人です。長いあいだ日本社会のなかで生活をしていますが,日本社会という,「単一民族」とうたわれた社会において,みずからの「台湾のアイデンティティ」と,「日本のアイデンティティ」の双方と「対話」をしながら,生活をしてきました。 台湾系日本人という,「特殊な立場」ではありますが,わたし自身は,日本にたいしては「特別な思い」をもっています。その「特別な思い」を,日本社会におけるマジョリティである,いわゆる純日本人とされる人々に「伝える」ことが,ここ最近の排外主義的な社会風潮や,ヘイトスピーチの問題などがあったことから,「非常に難しい作業」であると,わたしは思うようになりました。 「日本がとても好きです! 日本人の味方です!」と主張したとしても,「親がガイジンの,“準日本人”という“身分”で,そんなはずはないだろう,口先だけで,“心は外国”なんだろ? 日本がどっかの国と戦争になったら,まっさきに日本から逃げるだろう?」,などと思われることが十分に考えられます。それが,たとえ,日系人という,日本人とおなじエスニシティを分かちあった人々の歴史に向きあってきた「わたし自身」であっても,「しょせんはどこの馬の骨だかわからないガイジンの子供,日本のことをわかろうともしないし,わかってもくれない,日本のことは純日本人にしかわからない!」,と「一蹴」されてしまうだろうと,わたしは考えています。 「半分しか日本人じゃないけれど,いわゆる純日本人よりも,日本のことが好き。」 このような言葉は,少々「攻撃的」なのかもしれません。では,「日本のことも,台湾のことも,色々と知っているけれど,序列がつけられるものではないけれども,わたしにとって日本はかけがえのない存在です」,と主張したところで,それが日本にたいする「特別な思い」として,いわゆる純日本人とされる人々は,それをポジティヴなものとして受けとめるのでしょうか? あるいは,「単なるリップサービス」として認識するのでしょうか?
- ベストアンサー
- ニュース・時事問題
お礼
一般的な、教育にかんする考え方を軸にする、あるいは中心的な論点にするのであれば、あなたが教育制度について指摘された点は、理解のできるものです。 わたしが指摘した「同化の強制」とは、わたしの外国につながるアイデンティティが「否定」され、一方的なかたちで「日本人」になることを強要された、ということになります。わたし自身は台湾系日本人で、日本教育時代においては、あまり台湾のことに触れたり、そのことについて語ることは、許されることではありませんでした。ひとりでも「異なる」人がいることによって、学級全体、あるいは、学校全体に悪い影響をもたらすという、管理教育的な考え方が、当たり前のものとされていました。 いま、わたし自身が後悔していることは、このような日本教育を受けたことです。これによって、日本事情を知ることになったのは、良いアウトカムではありますが、やはり、ホームスクーリングなどを親が選択してくれれば、と思うことはあります。それでも、アメリカの学校に通うことが出来たことについては、とても素晴らしいことであったと受けとめています。日本教育と、アメリカでの高等教育、それらを比較したとき、明らかに日本教育のほうが「劣って」いるからです。 日本人は、教育の点においては、もっと多様性を認めるべきです。それは、少しずつではありますが、実践できているようなので、今後に期待する、ということにしています。