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みんなちがって、みんないい

「みんなちがって、みんないい」 これが、ある著名な詩人の作品の一節であることは周知のことではありますが、いまの日本社会にとって、この言葉の「意味」とは、どのようなものでしょうか? マイノリティ集団にたいする「不寛容」が社会問題となりつつある、いまの日本社会。このような「不寛容」が横行することは、誰にとっても、許しがたいものです。さまざまな「事情」があって、不寛容の社会となった、いまの日本社会。これからの日本社会のための「ヒント」が、彼女の言葉のひとつひとつから浮かび上がってくることは、とても興味深いことです。

noname#189115
noname#189115

みんなの回答

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.8

> このような「不寛容」が横行することは、誰にとっても、許しがたいものです。 では、「不寛容」と言う個性は、排除するのですか? 寛容である質問者さんが、「不寛容は認めない!」のであれば・・・。 元来が不寛容な人間に寛容を求めることは、なおさら困難ですね。 個性は認めるべきですが、集団は・・ちょっと話しが違うでしょう。 「腕白」と言う個性には、尊重すべき点はありますが、その個性が不良グループに属した時点で、社会から支持されないマイノリティに堕する様なモノです。 そもそもマイノリティに寛容であった社会など、歴史上、存在しないと思います。 むしろ民主主義などの統治システムが発明されて、隋分、救済される様になってきています。 現状の日本社会の問題は、経済成長の鈍化と財政の悪化により、セーフティーネットに余力が無いことと、またそれに伴う社会構造の変化(少子高齢化や格差社会など)に対し、社会保障システムが老朽化し、耐用していないコトですよ。 現実的な問題に対し、個性を尊重して、どうこうなる話しでは無いです。 また「寛容」などは、絶対の正義でも無いですよ。 「働けない人」と言うマイノリティに対し、社会的に要求される寛容さは必要ですが。 現状の「働かない人」と言うマイノリティに対してまでも、実施している社会的な寛容さは、百害あって一利なしの「害悪」です。 逆に、不寛容が悪でもありません。 仕事を命じれば、「うつ病かも?」と言い出す部下に、寛容である必要は無いでしょう。 「寛容さの選択と集中」とか、「優しさと甘さの区別」などが要求されている時代です。

回答No.7

同感です。違っていることが分かっていて違うことをするのは挑戦です、違っていることが分からず違うことをするのは間違いだと思います。この一節は一定の常識のある人が云ったから意味があるのだと思います。

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

noname#185665
noname#185665
回答No.6

子沢山なお母様には いい感じの言葉ですね♪ 「みんなちがって みんないい」 そうゆう気持ちで育てられたら子どもは幸せでしょう。 ところで <マイノリティ集団にたいする「不寛容」が社会問題となりつつある、いまの日本社会。このような「不寛容」が横行することは、誰にとっても、許しがたいものです。さまざまな「事情」があって、 と 書かれれいますが 江戸時代ではいえば カトリック信者狩りに 強烈な部落差別に 士農工商の身分差別(職業、結婚、住居) むしろ  極端に不寛容だった日本社会が 少しづつですが 寛容になってきてると思うのですが、、、? どんなことでも 時間が要ります。 鎖国が長く 伝統を重んじる日本文化なので 少しづつ ほんとうに少しづつ 調整しつつ 寛容になっていくのではないでしょうか? 寛容と不寛容と 大きく 振り子のように 揺れつつ ゆったりと・・・ 「不寛容を許しがたい」と書かれてる貴方も 「少しづつ修正できればいいんじゃないか」と思う私も 「みんなちがって みんないい」 んです。 結局は 「許しがたい」と おっしゃられてる貴方こそ 「不寛容」という 矛盾になってしまう・・・・ 「みんなちがって みんないい」というのは 非常に難しい言葉ですね。

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • hunaskin
  • ベストアンサー率30% (1855/6063)
回答No.5

不寛容について質問された時にいきなり「お前が悪いからだ」みたいなことを言い出すのはあまり賢いひとではないでしょうね。 賢くないか、心当たりがあってバツの悪さをごまかすための罵倒かうらはらな自己投影か。 それはさておき >いまの日本社会にとって、この言葉の「意味」とは、どのようなものでしょうか? どんなに良い言葉でも、自分にとって都合の良い場合のみそれを認める、というのは不寛容そのものの表れだと思います。 詩というのは思想を伝えるものではなく気持ちの表現ですから、その言葉が有効かどうかは大した問題ではありません。 そのような心持ちでいたいという作者あるいは読者の表現ですから、このフレーズが人口に膾炙しているということは、このような心持ちの人間がある程度はいるということです。 ただし、先に書いたように場面によってはそういう心持ちをすっかり忘れることができるのも人間というものです。 社会にとっては「みんなちがって、みんないい」は目指すべき理想のひとつ 個人にとっては単なるお為ごかしに堕すことも有り得るおまじない

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

回答No.4

質問欄のすごい空白面積は何の意味かわからない。 だれでもみんな違っていいのは当然です。 外国周りの船員であった、明治31年12月生まれの父は浅草で、開戦時、あぁこの戦争は負けるんだよ。 っていってご近所さんに気違いだとされた。 そうしなければ特高に連れて行かれるからね。 月足らず出産でうまれてきた私は 母から変人奇人といわれてきた。ちち同様。 小学校に上がって、基準通りにできな私は特別に担任さんが世話してくれた。 でも先生も奇人変人っていう。 学年が変わり、違う先生はこういう性格はすきだよ。 でも君は奇人だ。奇人は普通の事が判らない。変人は普通のことを判って個性的に出来る人だ。 君はそういう言動をするしかないのだ。という。 でも日本の社会は皆こういう変人奇人を大事にしてくれてきた。 ずぅっとそうだ。 46年一つの大学に居た。図書館職員としての採用だが建設の幹部にも、総務課長にもされた。 変わり者も使ってくれたのだ。最期はまた図書館に戻って11年前に退職。 あんたの質問への解答を再掲して解答とします。 日本国内における、韓国人の中にはあまりに反日が強すぎる人が多い。 またこのサイトで数年前にいわれのない嫌がらせで追尾され続けました。 多くの方が管理者に通報してくれたのか、彼は追放されまた脱退したとの事です。 それまで近隣諸国の東洋やアジアの文化と民族にとても親しみと親近感をもっていました。 最近までそういう嫌がらせや排除的扱いが何の事か判りませんでした。 このサイトで私に嫌がらせを続けた彼は当時釈放された山口組の司忍の産経記者への談話と同じ事をいっていて、彼らが日本社会では裏に生活する人たちだと推量しました。 嫌韓などは正に彼らが白紙の私達をそう仕向けているのです。 私達はそういう反日の仕方を何とか、心理的にも克服したいと存じます。 しかし、反日って本当に馬鹿なことです。

  • hideka0404
  • ベストアンサー率16% (819/5105)
回答No.3

なんでもかんでも寛容すれば良い問題じゃない。 社会規範とはそういうものです。 混沌が良い社会ではありません。

  • jagd4
  • ベストアンサー率30% (70/233)
回答No.2

>これが、ある著名な詩人の作品の一節であることは周知のことではありますが、いまの日本社会にとって、この言葉の「意味」とは、どのようなものでしょうか? 回答:外国人と日本人の権利が違うのは当たり前ということです。 マイノリティ集団の日本に求める「特権」が社会問題となりつつある、いまの日本社会。このような「特権」が横行することは、日本人や他の外国人にとっても、許しがたいものです。さまざまな「裏事情」があって、被差別利権が横行する社会となった、いまの日本社会。これからの日本社会のための「ヒント」が、彼女の言葉のひとつひとつから浮かび上がってくることは、とても興味深いことです。

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