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- itimainokonoha
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- mimazoku_2
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>率直なご意見うかがいたい。 それはいいですが、『あなたが定義する科学』とは何ですか? あまりにも漠然としすぎているので、まずは定義を示してください。 でないと、ここの住人達も困ると思いますし、求める回答もバラバラになります。 また、議論をしたいなら、ヨソに行ってください。
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お礼
科学と自然科学をさします。 社会科学などの学問一般をさしません。 議論とは主張をぶつけ合うこと。 ここでは私の疑問をみなさまに聞いて。 解決の一助になれば。 あなた様のご意見賜って。 その限界にあなた様が気がつくことができれば。 では。私の科学の思い書かせていただきます。 科学は。その悪辣な結果を。知らずに。 方法的限界に気づかぬまま。 万能のようにふるまって。 人間社会の信頼を得ています。 しかし。 その狭きやり方は。 この全存在のいくばくかの表しかつかめずにいるのに。 あなたも。 知らないことはないというおごりにひたっています。 その悪辣な結果とは。 消去といういまわしきおごりです。 対象を狭くしかとらえられずに現前とした目の前のことを知ったまででその背後にある知りえないものを無いとし誤った帰結に陥ります。 しかし。 その限界は。 たいして意識されずに。 万能のようにされて。 多くのイデオロギーとして。 人間社会を迷わせているのです。 したがって。 その科学の認識は。 手探りで歩くような認識でしかないのに。 わずかに知りえたことであたかもすべてを知ったがごとくに有頂天になっているのです。 いましめるべきは。 その限られた。知ることのできない悲しい人間の目です。 真実は。 正直に。 あたかも。 その。 欲望とは無関係な。 まっすぐにして。 清らかな。 正しい。 者の。 近くにあるのです。 科学者が。 全宇宙を知る賢者ではなく。 真面目に祈り。 真面目に反省し。 真面目に感謝ささげ。 真面目にやさしさを忘れない。 信仰者が。 本当の真実を。 知るのです。 ああ。 ああ。 ああ。 なんという。 なんという。 なんという。 皮肉。 まさに。 信仰こそ。 真っ正直。 そして。 善を好む。 信仰厚き者が。 すべての真実を。 知りうる。 信仰の帰結なのです。 だから。 欲望にまかせた。 自然科学イデオロギーは。 真実とは実に遠くにあり。 おろかにも。 その方法の限界を知らずに。 その限界からくる影をあたかも。 自身のおごりからねじまげて。 すべてを知ったとする愚によって。 遠く遠くに迷い込んでしまい。 地獄の業火という悲惨なみじめな結末を来世で味わうことになるのです。 科学は。 捨て去るべき。 そうして。 信仰に入れ。 信仰こそ。 真実に至る。 唯一の方法だからです。
補足
お礼の補足として。 科学的認識は。 その限界を明らかにされて。 その方法的欠陥を素直に認めるべき。 そうして。 信仰という。 正しい。 人間のあり方に立たねばならない。 欲望にたよった。科学イデオロギーは。 ようやく。その幕を閉じて。 あらたに。 信仰という。 慎ましい。 そして。 確かな。 生を。 きずかねばなりません。 人間は。 素直に。 その本来の目的を知り。 信仰という。 正しい生き方をしなければ。 真実という。 全存在の基礎から。 遠く隔てられて。 よそよそしく。嫌われ。 突き放されます。 すべてが裏目に。 すべてがむなしく。 すべてがきたない。 悲しむべき人生。 しか送れません。 さあ。 科学認識の限界を知り。 科学という非常に限られた。 人間の目。 という。 狭き方法は。 後ろに後退させて。 前に。 信仰という。 真実の。 ありかたを。 行わなければなりません。 まさに。 科学という。 幻覚を。 こころで打ち破って。 正しい。 人間のあり方に立たねばならない。 時がきているのです。 科学とは。 過信。 科学とは。 欲望。 科学とは。 うぬぼれ。 科学とは。 肝心なことをくもらす。 科学とは。 人間のしなければならないことを。 忘れさせて。 その物質という。 手に取るような認識に全存在を閉じ込めてしまう非常に限られたやり方なのです。 その閉鎖性は。 真に知らなければならないことへの。 自己遮断なのです。 こころ気づけば。 そのような限界を知って。 信じ。 祈り。 感謝する。 そして。 真に人間の目的に向かって。 急ぐことを。 する時が来ましょう。 さあ。 信じなければ。 あなたは。 まったく迷っている。 厳然とした。 真実。 受け入れるしかない。