逆ゆとり教育ってどう思う?

このQ&Aのポイント
  • 受験戦争の過当競争による悪影響について考える
  • 海外との受験競争の違いとその影響について考える
  • 学ぶ機会の重要性とアイデンティティの問題について考える
回答を見る
  • ベストアンサー

逆ゆとり教育ってどう思う?

受験戦争は過当競争になってて、社会に与える悪影響の面が強いと思うんです。 海外では受験競争についての価値観もちと違うらしく、日本とは事情が違うみたいなんです。 恐らく成績良い者が先回りして学んでく環境が整ってるから、他人と比較して自分の才能の無さを痛感する機会、あきらめる機会が日本より多いからだと思うのですが・・・  日本は、協調して並列競争してる分、努力が実る様な気がしてがむしゃらに努力できる環境があるのが、ある意味良い部分だと思うのですが、そういう環境では飲み込みの悪い不器用な人間が勉強に努力しすぎる傾向があると思います。 努力しすぎる人に限って、勉強以外にアイデンテティがなかったり、いじめにあってコミュ力に障害があって勉強で挽回しようとしたり・・・ でも、そういう人は結局、世渡りベタであるが故に、努力してない人よりも社会で苦労を経験してしまうような・・・・ 最近、就活から挫折して自殺した人のTwitterを見ました。 貧乏ではないし、家族は誕生日にはプレゼントもくれる様な愛がある家庭ですが、結局、その人は人としての無力感に苛まれて生きてました。 楽がしたい、就職する事が全てないです。、勿論、そういう意識はその人にもありました。しかし、その事以上に、その人はこの世の楽しみ、生きるべき喜びに気付く事できなかった様に私には見えました。 死ぬまでは毎日、苦悩の叫びを100回以上、つぶやいてましたが、その時間が私には非常にもったいなかったったように思えたというか、 それで思ったのですが、学ぶ機会が、やはり重要なのではではないかと思いました。 生きてる喜びを学べたら理想なのですが、しかし、そういうのは思いつけませんでした。思いついたのは、対処療法的に授業の科目種類を増やしてくのが良いのではないか・・・という事です。 これはアイデンティティの問題で、科目が多ければ多いほど、得意分野を発見しやすいという事であり、そういう所から人としての自信を得られる機会が増えるのであれば、死を考える絶望機会よりも自分に希望を抱いて生きようとする機会も増えるんではなかろうかと。あんまり説得力がないと思いますが・・・ また、授業時間を増やす程、塾等で個人で勉強する機会が無くなり、学習格差も相対的に減ります。 結果的に受験競争に費やされる労量も減るのですが、これが世の中にプラスに働くと思うんです。 これもあまり根拠が無いのですが、会社が必要としてるのは結局、勉強する必要のあった不器用な人ではなく、勉強せずとも飲み込みの早い人であるからであり、そうある方が社会的にも合理的なのではなかろうかと。 受験競争が加熱してる国、例えば中国、日本に限って、気づけば人口の1割が欝化してるという現状がありますが、これが受験競争の歪が影で隠れてるんではなかろうかと。 また、私自身、「学校で、あれを学ばせてくれたら良かったのにー」と単純に思う事があります。 大人になった後に起こるであろう、さまざまな人としての失敗は、学校にて学ばせてくれていたら、避けられるものが多かったとも思うし、学べたら、それはそれで楽しいものと思うのです。 例えば中学の授業時間は一日6時間ですが、これを12時間以上の授業したら良いのではないかと思ったりしたりします。 遊びたいだろうし、親の手伝いとか、色々な問題で現実的ではないだろうとは思うのですが、社会にでたら一日14時間の残業労とか有りえる訳ですし、そういうのに受け入れられる様に、長時間授業で慣らしていくのは重要なんだと思います。 家に居ないのが当たり前の生活なら、もはや帰る家は必要ない訳で、いっそ、寮生活を義務付けるのも有りかなと思うし、そっちの方がある意味で虐待家庭の子供を助けられる訳だったりで、 長時間の集団生活でいじめ等の問題もはらんでるだろうけれど、だからこそ問題に対処、矯正できる機会に恵まれるだろうとか。 だらだら書きましたが、結局、私がしたい質問は、「私が気付いてない事柄は何か?」という事らしいです。 本来なら編集して判りやすい文章に纏めるべきでしたが、申し訳ない事に気力が無いので妥協させてください。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Streseman
  • ベストアンサー率24% (131/542)
回答No.4

>受験戦争は過当競争になってて、社会に与える悪影響の面が強いと思うんです。 影響に関しては、短期的・長期的に構造が違うだろう 総合的に勘案すれば、当人を通して波及する影響は、プラスよりはマイナス部分が多いだろう しかし、過当競争であることが問題ではなく、受験生自身の問題という現実もあろう。 >海外では受験競争についての価値観もちと違うらしく、日本とは事情が違うみたいなんです。 東アジア諸国は全般的に同じ。日本と韓国は似ている。インド・シンガポールも日本に近い。ただし大学の相対価値が日本と諸外国では大きく異なる >恐らく成績良い者が先回りして学んでく環境が整ってるから、他人と比較して自分の才能の無さを痛感する機会、あきらめる機会が日本より多いからだと思うのですが・・・ 含蓄のある文章だと思える 「学んでゆく環境が整っているから」という指摘は、教育評論においては要諦とも言えるだろう つまり、当人の能力以前の「学習環境」が重要という見解であろう。 その認識は正しいと思うので反駁はしないが、 その学習環境整備については、将来的には、全ての国民・住民が平等である状態が教育制度としては望ましいようには思う 予備校講師という立場で指摘させてもらうに、都市と地方での学習環境の較差は拡大している。 都市部では、成績の優秀な学生と悪い学生が二極化して奇妙な階層が出来つつあるように指摘される 一方、東北地方などの地方部では全員が総じて同じ成績水準であることから、都道府県別では地方の相対的優れている現実もある できれば、学習環境の較差是正のためにネット・タブレット端末などの電子教材普及に努力したいが、ビジネスとしては厳しい模様。 > 日本は、協調して並列競争してる分、努力が実る様な気がしてがむしゃらに努力できる環境があるのが、ある意味良い部分だと思うのですが、そういう環境では飲み込みの悪い不器用な人間が勉強に努力しすぎる傾向があると思います。 指摘は否定しない。”努力しすぎる”というのは、否定的なニアンスだろうが、努力過程は無為にはならないだろう。 「合理的ではない」という論説であれば、否定できないが、当人の意思で行われている以上は、是非論の余地はないように思う もっとも、”センスがない”という類の学生は存在する事実は否定しようがないが >努力しすぎる人に限って、勉強以外にアイデンテティがなかったり、いじめにあってコミュ力に障害があって勉強で挽回しようとしたり・・・ でも、そういう人は結局、世渡りベタであるが故に、努力してない人よりも社会で苦労を経験してしまうような・・・・ 一概には結果論は言えないだろう 世渡りが下手な人間は少なからず存在するのが必然である。 「パレート最適」という理論があるが、それで考えるのが最適な話とも言えるだろう >最近、就活から挫折して自殺した人のTwitterを見ました。 貧乏ではないし、家族は誕生日にはプレゼントもくれる様な愛がある家庭ですが、結局、その人は人としての無力感に苛まれて生きてました。 楽がしたい、就職する事が全てないです。、勿論、そういう意識はその人にもありました。しかし、その事以上に、その人はこの世の楽しみ、生きるべき喜びに気付く事できなかった様に私には見えました。 死ぬまでは毎日、苦悩の叫びを100回以上、つぶやいてましたが、その時間が私には非常にもったいなかったったように思えたというか、 それで思ったのですが、学ぶ機会が、やはり重要なのではではないかと思いました。 重要ではある。「学ぶ機会」を得るためには、様々な分野にアンテナを張る必要性があって、大変なことではある そういう意味では、学校のみならず、一歩外を出る教育にシフトした「ゆとり教育」の相対価値は高いだろう >生きてる喜びを学べたら理想なのですが、しかし、そういうのは思いつけませんでした。思いついたのは、対処療法的に授業の科目種類を増やしてくのが良いのではないか・・・という事です。 仕事論でも言えることだが ”マイナスなことは仕事に没頭することで忘れる”という行動原理は多い 学生と勉強にも同じ関係がありえるだろう。学ぶ環境を強いられている状況によって、マイナスを忘却する・・ということだが しかし、これは単なる現実逃避にすぎない。逃避して問題解決する事例ならば、有効だが 時間が解決しえない問題 に対しては、問題の先送りになる >これはアイデンティティの問題で、科目が多ければ多いほど、得意分野を発見しやすいという事であり、そういう所から人としての自信を得られる機会が増えるのであれば、死を考える絶望機会よりも自分に希望を抱いて生きようとする機会も増えるんではなかろうかと。あんまり説得力がないと思いますが・・・ 上記したようにゆとり教育は、学校外の「学ぶ機会」を創造し、多様化させる効果がある そのような視点がないと「ゆとり教育」の評価は出来ない >また、授業時間を増やす程、塾等で個人で勉強する機会が無くなり、学習格差も相対的に減ります。 結果的に受験競争に費やされる労量も減るのですが、これが世の中にプラスに働くと思うんです。 これもあまり根拠が無いのですが、会社が必要としてるのは結局、勉強する必要のあった不器用な人ではなく、勉強せずとも飲み込みの早い人であるからであり、そうある方が社会的にも合理的なのではなかろうかと。 方法論としてアリであろう では、一方で家庭生活の時間・部活時間などの関係性は軽視してよいだろうか? 受験競争に浪費される社会資源の再分配先は当人が決定することだが、受験勉強よりも望ましい社会資源の再分配が可能だろうか?正直分からない 当人の自由意思で「学ぶ機会」を選択できるようにするのが望ましいのであり、そのためには、”学校教育の限界がある”ことを大前提にする必要性がある >受験競争が加熱してる国、例えば中国、日本に限って、気づけば人口の1割が欝化してるという現状がありますが、これが受験競争の歪が影で隠れてるんではなかろうかと。 受験戦争というよりも、学歴戦争ではなく生来の社会較差による問題だろう。教育論の範疇とは思えない >また、私自身、「学校で、あれを学ばせてくれたら良かったのにー」と単純に思う事があります。 大人になった後に起こるであろう、さまざまな人としての失敗は、学校にて学ばせてくれていたら、避けられるものが多かったとも思うし、学べたら、それはそれで楽しいものと思うのです。 ”失敗でしか人は学べない”・失敗だけを学べば良い これは日本社会では否定されることが多い 特に政治思想として保守系の人々は、失敗経験を全否定することに躍起になる傾向がある 今後の失敗学の教育は期待できないが、当人が失敗から学べることは良いことであろう >例えば中学の授業時間は一日6時間ですが、これを12時間以上の授業したら良いのではないかと思ったりしたりします。 遊びたいだろうし、親の手伝いとか、色々な問題で現実的ではないだろうとは思うのですが、社会にでたら一日14時間の残業労とか有りえる訳ですし、そういうのに受け入れられる様に、長時間授業で慣らしていくのは重要なんだと思います。 法的に不可能というしかない 法改正で対応するにも、家庭生活との折り合いが問題になる。 学校教育は、教育の一旦に過ぎず、教育全般を担う存在ではないことを踏まえて考えて欲しい >家に居ないのが当たり前の生活なら、もはや帰る家は必要ない訳で、いっそ、寮生活を義務付けるのも有りかなと思うし、そっちの方がある意味で虐待家庭の子供を助けられる訳だったりで、 長時間の集団生活でいじめ等の問題もはらんでるだろうけれど、だからこそ問題に対処、矯正できる機会に恵まれるだろうとか。 見解は理解する しかし、単純すぎるようには思われる >だらだら書きましたが、結局、私がしたい質問は、「私が気付いてない事柄は何か?」という事らしいです。 本来なら編集して判りやすい文章に纏めるべきでしたが、申し訳ない事に気力が無いので妥協させてください。 ”気づいていないこと”が要諦なので、回答できない 仮に、それを当方が示唆したとして、血肉にならないものだろう 教育の要諦は「気づき」であることを質問者は皮膚感覚で理解しているようだが、その気づきに至る過程は様々であって、正解はない・・と言える

sakudrada31
質問者

補足

>影響に関しては、短期的・長期的に構造が違うだろう >総合的に勘案すれば、当人を通して波及する影響は、プラスよりはマイナス部分が多いだろう >しかし、過当競争であることが問題ではなく、受験生自身の問題という現実もあろう。  今更ですが私もその様に思います。  全体的な競争力が飛級の無い国においてのみ高いのであれば、飛級国と比較して成績水準がはるか上にあって当然の筈ですが、実際はそうでもない気がします。  背景に過当競争性があったとしても、それはあくまで一部の受験生において起きるもであり、それを相殺する位に勉強の努力をしない人が居るのかもしれません。 >都市部では、成績の優秀な学生と悪い学生が二極化して奇妙な階層が出来つつあるように指摘される >一方、東北地方などの地方部では全員が総じて同じ成績水準であることから、都道府県別では地方の相対的優れている現実もある  上記の一文がまさしくそれを証明しているのかもしれません。  実は私の通ってた高校では「勤勉な人」と「勉強は程々に遊んじゃう人」に2極化していました。  私学なので結構金が掛かるのですが、イケメン金持ちは放課後合コンざんまいであり、貧乏でイけてない人は、モテナイ劣等感からか勉強に逃げてしまうというか・・・  遊べる環境が手近かにあるかないかで、また金持ちが集まるかどうかが成績の2極化に関わるとしたら、都心部おいてのみそれが見受けられるのは納得です。    その格差是正においてタブレット端末の導入ですが、凄く良いと思います。  ビジネス的にどうかという視点には確かに疑問の余地はありますけれど、民間にやれない事こそ、国がやる価値があるのかもしれません。  話題がどんどんズレちゃいますが、ソフトバンクの光の道についてご存知でしょうか  ああいうの夢があって楽しそうなんですけど、

その他の回答 (5)

noname#217538
noname#217538
回答No.6

ゆとりは最後まで頑張って結果を出したあたりで感じるべき満足感です。 何も結果をだしていない子供の頃からゆとりをすすめる人は自分が成功できなかったので育てたくない意識が働いていると思っていましたね。 ところで東大をけなしている方がいますが、私は東大はすばらしいと思います。 アメリカがどういおうが英語でないだけの問題で低く見積もられている気がします。 アメリカが学力低下を言うのは笑えます。 東大の医学部やエンジニアの研究などすばらしいと思いますね。人間も質が高く真面目です。 でもほとんどがそこまで行かれない。それは親の意識、環境、経済、それと学校を学ぶ場所だと勘違いするからでしょうか。 体力、知力、財力、人間関係、すべてが一体となって総合戦力になるわけです。 私は英語圏で子供を育て、今は国立医学部に入っています。 日本の教育で間違いだと思うのは世の中は公平ではないと教えない事。公平であるはずがないでしょう。 お金を稼ぎたかったら勉強するように教えない事。 勝ち負けは確かに存在する意識である事を教えない。 人生には賞味期限がある事を教えない事、学生は学ぶ事が社会的に許された旬の時期である事を自覚させていない。 公立の先生が駄目ですね。山の登り方をひとつぐらいしか教えられない視野。 そのほうが楽だからでしょうか。だからみんな同じにしたがるのか。 その方法を教えられないなら潔く自分の能力を認めて、 生徒に勉強は家でする、学校は復習と交流の場にしなさいといえばいい。 それをできもしないのに権威をつけるかのようにいろいろ要求するから子供は疲れるのではないでしょうか。 ここでは高額私立にまかせっきりで、日本人学校の役員をやっているような母親の子はほとんど脱落しました。 自然淘汰。 あるいは頑張ってもせいぜいローかビジネス学部程度でしょう。サイエンスやエンジニアは競争が激しいです。 流れは簡単です。無駄を省き合理化をはかる。 まず稼ぎたい額を考えその職業を頭に描く、その職業に就くための学部を選ぶ。 その学部に入るための要求されている科目をl高校で選ぶ。それが選べるには中学校から理数がダントツである事。 それには勉強をずっとしてきた者だけが残ります。ゆとりはずっとやっているから心から休む時間が得られるだけです。 遅れている人達にゆとりがあると思うほうがおかしい。 若い世代に世界をもっと見てほしいです。 その上で他の国がどんなに批判をしようと、その国の実態を知れば大したことがない、生きる方法ですら見えてくるかもしれません。 しかし再度書きますが、学校は復習の場、交流の場です。 勉強は自ら先にする、これだけは息子と実施してよかったと思いますね。

  • reflector
  • ベストアンサー率7% (37/491)
回答No.5

>例えば中学の授業時間は一日6時間ですが、これを12時間以上の授業したら良いのではないかと思ったりしたりします。 苦痛になる時間を単に延ばしたから学力が伸びたではなく。 生徒が授業を楽しく受けられるのかが焦点なんです。 楽しく勉強するのと、苦痛で詰め込み教育を受けるのとでは、別次元です。 例えば、東京大学を卒業した者が社会で使い物にならないのと同じで、アメリカからの指摘では国際競争力が低下していると注文され、東京大学の対策は海外からの留学生を多く通って貰うと勝手に勘違いし馬鹿を産出している姿です。 こんなアフォな大学は、国立の枠でなくても良い、例えば私立に叩き落すとか。 小・中・高・大の教育者の考えを改め、学生が勉強していて楽しいと云うような学習カリキュラムを整えて貰いたい。

  • key00001
  • ベストアンサー率34% (2878/8340)
回答No.3

「逆ゆとり教育」は賛成です。 って言うか、勉強が出来ない子供のレベルに合わせる様な、ゆとり教育が逆ですから、逆で正解です。 ただ、「学校で、あれを学ばせてくれたら良かったのにー」などはどうかと。 それは本来、義務教育から先に、自分で探して学んでいくものですから。 なぜ自分で学ばなかったんですか? あるいは、なぜ今、学ばないんですか? 大きな本屋に行けば、学びたいことに関する書籍の1冊や2冊はあるでしょう。 判らない点があれば、それこそこんなQ&Aサイトなどもある便利な時代です。 学べない理由など、無いと思いますが。 そう言う自立的な考え方が、「気付いていない事柄」ではないですかね? あるいは、「学問は与えられるもの」と言う依存的な考え方が、義務教育の問題・弊害なのかも知れません。 それと学校は、基本、知識を得る機関であって、しつけ機関などではありません。 学校はそう言う役割も担いますが、社会性や適合性などは、自分で身に付けていくものであって、またしつけは、主に家庭において行うものですよ。 やはり、学校に過度に期待・依存し過ぎている様にも思います。 もう少し主体的にお考えになれば良いですよ。 そもそも「日本の教育がダメ!」などと思うなら、自主的・主体的に考えれば、自分が良いと思う海外の教育を受けても良いし。 別に日本の法律はソレを禁じていませんので。

sakudrada31
質問者

補足

学校に期待するとか子供に期待するとかもあるんですけど、それ以外のベースも重要なのかなと思うんです・ 大人な自分でも、知的好奇心を満足させる事柄ってあるでしょう?  学校では無機質な教科ばかりだけれど、みんなが、ちょっと興味がある分野を学べる時期に学んでしまえたら、それは単純に凄く良さそうな社会じゃないかなと。 私の主観的経験側ですが、本屋に行って自主的に学びたい事を学んでるだけでは、致命的な失敗を避ける様なフォローはできないと思うんです。 主観的な自由度があると妥協する事も自由になるから、本屋に普通に通う分では学べる機会がないというか、失敗してから学習に興味を持つ分野もあると思うんです。 失敗するまでは興味の湧かない分野である場合、学習段階で似た失敗を活用して応用して学んでいくのが重要になるのではないかと。 例えばギャンブルだと如何に儲からないかを検証したり、日常に潜むギャンブル性とか、世の中のギャンブル問題性とか、それについて如何に教育していくかという教育論段階の問題そのもを子供に投げかけたり。 あらゆる立場の人間の心理を想像する教育の過程で、結果的にいかに犯罪がいかにいけないかの道徳論教育もしやすいだろうし。 うまく説明できませんが、はっきりした答えが存在しない問題というのがあるでしょう?  AかBかCか、答えは多岐にあるけれど、それを仮説段階において、いかに証明できないのか困難性について学んだりして、あらゆる物事が如何に深くものであるかを気付いたり・・・ こういう事は本屋ではまず学べません。 インターネットなら可能ですが、折角、ふれあえる集団性ができあがった学校があるんだから、そっちでやったほう学校としての存在価値を惜しみなく使えるだろうかとか、コミュ力がUPするのではないかとか。断定はできませんが・・・ 余談ですが私は良く学習教材にアニメが導入できるかどうか考える事があります。。 アニメで学習をさせる訳では無く、娯楽性の強いアニメから派生して心理学を教育していく様な感じです。 授業の内容は、遊びみたいなものもあって良いと思うんです。 テレビゲームインターネット、漫画。アニメ。小説。いろんな分野を一通り強制する流れがあっても良いのではなかろうかと。 。 そういう遊びの視点から、心理学や道徳的なものを皆で考察したり、自ら物語を書いてみたり、仲間と感想を言い合ったり。 そういう視点から弁論、社会情勢を教えたり、。 ニート問題、少子化問題いろいろ、どうやって解決できるか、徹底に討論したり、社会では、努力をいくらしても結果がないと給料は貰えない現実とか。 生活保護予算は世界的に見たら、妥当かどうかとか国政レベルまで考えるみたいな・・・ いじめシュミレーションゲームしたりとか。例えゲームだと分かっていても、「嫌い」という言葉に傷ついたり、逆に傷つく人は居ないひとがいたり、笑っていたり泣いたり、個性の違いについても認知できる環境があるといいな~みたいな。 犯罪について刑事罰は妥当かどうかとか。 取り調べの可視化の必要性不必要性、あるいは留置所は都会と地方でどのように違うとか、そこでは人権があるのかないのかとか。 多様な問題性をネットをフル活用して、各自がテーマを調べてレポートにまとまるなどすれば、同時に色々なスキルが身につくとも思うんです。 人として知っておくべきことは、限りなく学ぶべきだと思うし、実際、学びたいと思うもんだと思うんです。楽しいし。 でも、学校では楽しい事については全く学べない。 大人になって好奇心があって積極的に調べようとした人にしか、学べない。 もし、今の授業体質で大人になるまでに死んでしまった人は損でしかありませんよね。 学ぶならせめて楽しい事から好奇心を持続させて学ぶ方が絶対合理的と思います。 色々と長々書いてしまいましたが、この感覚は恐らく人類共通点だと思うんです。 国家の財政以外の問題を除けば、肯定するしかない事情でもあると思うんです。 だから?? と問われてしまうと身も蓋も無いですが・・・・ ただ思うのは、世の中の経済的な意味で理屈が先走る社会と、感情論を優先させてくれる感じの社会とだったら、例え不景気でも感情論が先行してくれる社会なら、楽しく生きていけるんじゃないかなと。 でも、なんやかんやあれこれ考えても結局は不可能なんでしょうけどね。 最終的には親がしっかりするしかないでしょうね。

回答No.2

パンドラの箱ってご存知ですか? 開けてはいけない箱を開けてしまい、 中から「災い」が溢れ出し、世界中に拡散してしまった話です。 その時直に箱を閉めたのですが、殆どの「災い」は外に出てしまい、 箱の中には1つだけ残ったそうです。 それが未来を知る「予知能力」だそうです。 人間は未来を知る事が出来ないから、 今を大切に、一生懸命生きる事が出来るそうです。 近年、質問文にもあるような自殺志願者や自殺者の多くは、 「自分は生きてる価値がない」や「挫折して将来が見えない」等 の意見を良く聞きます。 これは、情報が錯乱しまくっている現代社会の「災い」だと私は思います。 インターネットを開けば、凄まじい量の情報が溢れ、 自分と似た境遇の人間の結末がそこには書かれていたりします。 また、こうした質問サイトで、答えを安易に求める事も同様です。 自分がこれからの人生の中で、見て、聞いて、体験して感じる事を、 インターネットの情報で経験した気になり、やる気をなくしていっているのだと思います。 これはまさしく、災いの「予知能力」と同じだと思います。 この先経験して得る情報を、ネットで知れてしまう訳ですから。 なので極論ですが、インターネットの情報量を まだ自己判断も出来ない子供達に晒す事を辞めるべきだと思います。 それこそ18歳未満はネット閲覧禁止にするくらいの事をしないと、 これから生まれてくる子供達は、どんどん勝手に知識をネットで得て、 そして、それをあたかも自分が経験したように感じ、 その果て無気力な感情しか持たなくなりそうで、恐怖を覚えます。

sakudrada31
質問者

補足

ネットであたかも自分が経験したように感じるというのは判る気がします。 それが原因で夢が一個潰れてしまう様な、それで興味が無くなってしまって選択肢が一個潰れる様な経験私もあります。 好奇心は猫をも殺すとかありますけど、でも人間ならば好奇心が尽きない限りは生きれるとも思うんですよね。 無気力になっても、好奇心さえ誘発できれば何とかなりそうな気がするというか・・・ その自殺した人のTwitterなのですが、病んでる感じの人達が互いに共感しフォローし合ってたのですが、最終的に一部の人が自殺を勧めていく話の流れになってました。 無気力にプラスして、その人に共感して死に希望を導く流れがあって・・・ 反面、ネットが人を救うパターンもあって、例えば人間関係に悩んだ子供が自殺を考えてて、何気なく自殺というキーワードでネットサーフィーンしてたら感動する小説に巡り会って、立ち直ったとか。 自殺声明文を書いて警察が自宅に駆け込んで来て救助した話とか。 ネットの良い面と悪い面を数量化できたら良いと思うんですが、それはきっと不可能なんでしょうね。 凶悪犯罪率に関しては少なくともネット発展とは変化はなさそうですが、自殺者は近年増加傾向にありますし、ネットの発展性もしかしたらあるかもしれません。 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2740.html 調べましたら、少子化中であるにも関わらず、10代の自殺数が一定水準ありました。 これはもうネットが関与してる疑いは濃厚ですが、それにしても50代の自殺者数の減り具合が凄いです。一体何があったのか非常に気になるところであります。

noname#188107
noname#188107
回答No.1

>「私が気付いてない事柄は何か?」 現実は厳しい。というところでしょうか。 大人になれば必然的に気付くから 別にあわてて気付く必要もありませんし。

sakudrada31
質問者

補足

確かにそうなんですけど、「現実は厳しい。」というのは現実の厳しさを知らずにトントンびょうしに勝ち組になった人は、負け組の視点に想像が及ばないのだと思うんです。 知らず知らずの内に発言した事柄は確実に悪い意味でのプレッシャーとなって負け組に与えてる気がするというか・・・ 勿論、良い意味でのプレッシャーもあるんでしょうけど、そういう諸事情についても、早めに学んでおけば対策方法も見つけやすいのではないかと。 これはあくまで私の推測に過ぎないのですが、人本来の学習の能力差自体はそれ程大差なく、集団生活の中においてのみ強烈に運の要素が働き、人本来の学習の能力差を乖離させていく様な・・・ その結果、教育を終わる段階において、例えば優秀組2割、ダメ組2割みたいな感じになって、その全体の努力総量には一切関係なく、統計上そうなる必然性があるみたいな・・・ 上手く説明しにくいんですけど、その仕組み自体を義務教育の時点で学んでおけば・・・どう良いか判らないけど、何か価値がありそうな気がするんです。

関連するQ&A

  • ゆとり教育

    ゆとり教育ってどういう経緯で取り入れられてるんでしょうか。 学力低下が著しく、問題をおこす少年少女が激増しているのも、そこに一因があると思うのです。 だいたい、戦後日本は教育レベル・勤勉さで経済成長を支えてきていたのであって、それで上手くやってきたわけですよね。なぜ、変える必要があったのでしょうか。 競争が良くないとの事ですが、社会は自由競争の上に成り立ってるのであって、今後、社会に適応できない人間を増やしていくばかりのように思えて、とても恐ろしい気がします。元に戻すべきではないですか。 できれば教育者の方のご意見を伺いたいのです。宜しくお願いします。

  • 「ゆとり」教育論

    今年の桜は咲き急いでいますが、今年施行の「ゆとり」教育は学問の遅咲きを願うものだと解釈してます。 「ゆとり」である以上学力は当然低下します。 これを愚民教育と評する人も多いですけど、そういう大人達の今の学力はどれほどあるのでしょうか。 大人になるとパッと忘れてしまうような知識で、受験競争をいつまでも続けている事の方が愚かな行為ではないでしょうか。 学問も料理や工芸の職人と同じく、30歳ぐらいで資格の取れる社会を構築するべきではないかと思います。 子供の頃から知識を詰め込んできた東大生より、アルバイトをしながら、人と対話しながら自主的に一日2時間ほどの学習を長く続けてきた人の方が、同じ知識量でも何か人間的な面で違いが生まれるように思います。 競争も大切ですが、それと同じぐらい「ゆったり」と時間を過ごすのは大人にも子供にも大切なものではないでしょうか。 人の知性は緊張の時生まれるものもあれば、緩和の時生まれるものもあるでしょう。 小学校の徒競争で、トップで走って来た生徒がゴール前立ち止まり後ろを振り返って、全員が手を繋いでゴールするという授業があります。 皆が一斉に批判するこの授業ですが、僕にはこれが羨ましいのです。 トップを走って来た生徒がゴール前立ち止まって後ろを振り返ります。 まるで大切な落し物を探すかのように。 お暇あらば、貴方の教育論「ゆったり」と聞かせて下さい。tiger-ryuji

  • ゆとり教育と詰め込み教育の具体的な違いと必要性

    1. 違いについて。 いわゆる「ゆとり教育」は、いわゆる「詰め込み教育」の詰め込む量を減らした以外にどのような点が変わったのでしょうか。 例えば理数系で以前より原理を詳しく教えるようになったとか。 総合学習を増やしたというのは聞いたことがあるような気がしたのですが体感的にはそんなに総合学習を沢山やった記憶がなんですよね。 私は「ゆとり世代」なので詰め込み教育がどんなだったかは実感が沸かないのですが、私の受けた「ゆとり教育」も量こそ少ないものの詰め込みに感じてしまいましたね。(特に中高教育) 2. 詰め込みの必要性 よく「型が無いと創造性も生まれないんだ。だから小学生の間は詰め込みが必要なんだ!」と主張して詰め込みを庇っている人がいますが、ゆとり世代の私からすると中高の方の詰め込みのほうがよほど詰め込んでいるように感じます。中高でなぜ詰め込みが必要なのかと言う理由をあまり聞かないので教えてください。 3. ゆとりの意味 ゆとりの醍醐味の一つは過剰な競争で学生が疲弊しないようにすることだと思いますが、現在のように大学間の格差(社会的地位や就職にも繋がる)が大きいと結局大学受験のところで大きな競争が起きて、それが薄く下に広がる感じで高校・中学校受験などでも競争が起きてしまうように感じるのです。また大学受験では詰め込み式の勉強が明らかに有利です。かなりの量を詰め込み式で勉強しないと一次試験すら通過できません。 大学受験競争は昔よりは小規模になったのでしょうか。人口減少は差し引いた評価を教えていただきたいです。また、大学受験の勉強方式や問題形式はゆとり世代と詰め込み世代でどのように変わったのでしょうか。

  • ゆとり教育と今後

    ゆとり教育について、やたらと叩かれているようですが、それ以前の詰め込み式の教育にも問題があったことは事実だと思います。 今だって欧米の人達から見たら、過酷な勉強に励む日本の子供たちは子供時代の楽しい時間や、学力よりももっと大切なことを知らない、かわいそうな存在だと思われるのではないでしょうか。私は日本人は仕事ばかりしていて人生を楽しんでいない。子供まで勉強ばかりで日本人は人生の楽しみ方を知らない。と、外国の友人にいわれると、今はそうでもないよ。日本でもヨガやアートが流行ったり、仕事や偏差値ばかりでなく、もっと精神的な豊かさが重視されているよ。と、答えます。 ですが、教育に関してはゆとり教育の反省点について、学力にばかりこだわる多くの日本人のあり方を思うと、日本人の意識は変わっていない?言われてもしょうがないか?と、自国を弁護しにくい所があります。 学力にこだわることに関して、私が抵抗を感じるのは、偏差値といった大人の決めた表面的な数値で子供が差別化されてしまうことに疑問を感じるからです。子供たちにとっては勉強のできるできないはその子の価値ではないはずです。ところが大人はそこにその子の価値をみるし、東大に入ったか否かということで大騒ぎするのです。 極端な例かもしれませんが、以前に親同士の競争の為に子供が殺された。という事件があったと思います。私には学力ばかりが重視される社会というのは、こうした事件と結び付いて歪んだ社会のように思えてしまうのですが、どうでしょう? 今はあまり聞きませんが、こういった事件はもうないのでしょうか?(私は長年海外に暮らしている為、お恥ずかしながら日本の状況に精通していません。) 学力が下がるかわりに、ゆとり教育は子供たちに個性を育むような有意義な時間の過ごし方を提供することは出来なかったのでしょうか? また、ゆとり教育が成功しなっかたのなら、今後、どうなっていくのでしょう? 皆さんのご意見をお聞かせ下さい。

  • ゆとり教育の評価について

    これはある程度定まった評価はあるのでしょうか? よくゆとり世代の大学生は漢字が書けないとか足し算引き算ができないとかテレビでやってますが、そもそもゆとり世代って少子化で子供が少ないから学力のない子が大学に入れてしまうだけじゃないの? マスコミのいう事だから疑ってかかったほうがいいんじゃないの? 例えば団塊ジュニアの上位10%とゆとり世代の上位10%の学力の差はどうなんでしょう? 団塊ジュニアが大学に入る受験戦争と言われたころ、予備校全盛でよく東大なんて受験テクニックで入れるだのなんだの言われましたが、東大受験を知っている人でそれに同意する人を見たことがありません。マスコミほどあてにならないものはありません。 現在は詰め込み回帰しているそうですが、結局ゆとりとか詰め込みとか言う問題だったのでしょうか? それこそ本当に差があるのか、差があるのなら何が原因なのか、NHKの社会問題解析AIにでも分析させてみたいものです。

  • もし、ゆとり教育や人間性重視の教育を進めると・・・

     今、日本ではゆとり教育や学力低下の問題が注目されていますが、例えば、学校の授業時間数、特に英語・数学・理科・社会・国語の授業時間を今の半分にしてしまったら、子供の成長や日本社会はどのような影響を受けるのでしょうか?  また、英数理社国の授業時間を大幅に減らす代わりに、江原啓之に代表されるスピリチュアルや宗教教育、道徳教育、武道・書道・華道や着物の着付け等の日本の伝統教育、漁業・農牧業実習、建築・工場内作業実習、裁縫・調理実習、実践心理学・人間関係学、子育てや福祉施設での介護実習、医療教育、恋愛・性教育、部活動時間の増加、刑務所見学、サバイバル訓練、ホームレス支援活動等のボランティア活動への参加、両親の家事や仕事の手伝いを生徒に進める、選挙に関する知識を養う授業・・・等の人間性を養う教育・実生活で役に立つ教育を多く取り入れたら子供の成長や日本社会にどのような影響をもたらすのでしょうか?  暇な人!どうか教えてください!     

  • ゆとり教育

    ゆとり教育にした為?授業を減らしたり?完全週休2日制にしたわ良いが学力低下と騒がれ、また元に戻すような案が出ているみたいですが、皆さんは、今のままの方が良いかもとに戻した方が良いかどちらだと思いますか? 私が、学生の時は土曜が隔週で休みのため土曜は2時間ずつの授業でしたが、好きな授業の時は凄く楽しみで嫌な授業の時は本当に苦痛でしたが、土曜は半日で学校が終わり次の日も休みという事でそれなりに楽しかったと思います。ですが、今は週休2日制の為そういう楽しみもなく勉強(補習)?があるからと学校に行っている子がいますが、それなら週休2日制にした意味はあるのかと考えたりします。また、授業についていけない学校の授業じゃ不十分で塾に通ったりしてる子が多い気がしますが、本当にゆとり教育は良かったのでしょうか? 何か授業時間を減らしたり増やしたりコロコロ変えていたら学生の子がかわいそうな気がしてならないのですが。 皆さんは、今の学校か皆さんが行かれていた時の学校どちらの方が良いですか?

  • 日本のゆとり教育

    しばらく中国に言ってましたが日本にきてみると学校の授業時間が少ないのとと進行が遅いのに驚きました。最も社会に出たときすべて学校で習ったことが役に立つわけではありませんし学歴が重視されるのは一部の官僚社会ですが、タダ休みが多くその間子供たちに何をさせるのか心配してます。

  • ゆとり教育について

    なんかまた、ゆとり教育を変えるみたいですが、意味があるのでしょうか。私は、そういうことをする前に、学歴社会自体を、なくした方がいいと思います。大分なくなったといっても、実際に幼稚園のお受験などがありますよね。本人がそうしたいというよりも、親がそうしたいだけみたいな。それに小学生の間は、塾などは行かさなくて、外で遊ばせる方が、大切だと思うんですよ。中学~高校は、本人が塾へ行きたいというなら、行かせたらいいと思いますが。高校まで与えられた管理教育で、大学へ行っていきなり、自由にしろっていわれても、何をどうしていいかわからなくて、やめる人が多いらしいんです。こんな状態でいいんでしょうか。あとパソコンって、そんなに必要ですか。パソコンがあるから、小学生の事件がおきたんでは、という人もいます。私も同感で、今の若い人たちだったら、授業にパソコンをとりいれなくても、いつのまにか、出来るようになっていますよ。それに親の金じゃなく、てめえの金でやるのが、スジだと思うんですが。皆さんは、どうお考えですか?

  • 脱ゆとり教育について

    今朝の新聞に出ています。06年度にも土曜、長期休業日の授業時間の見直し検討をお願いすると中山文相が述べたそうです。日本はいったいこの先どういう風に変わっていくのでしょうか? 私の意見としては、せっかく固まってきた週休5日制の時間割を今から6日制にするよりも、生徒さん個々の弱点補強のためのプラスアルファーの日にしていただければと思います。 例えば土曜日は学年単位でクラスに関係なく、算数がしたいなら1組で計算問題、国語がしたければ2組で漢字練習、理科の実験がいいなら3組に出席、4組ではグループで地域の地図作りとかいう風に。 自分で選んで出席する授業は普段とは別の自主性のある元気な授業になると思うのですが。特に、児童の苦手意識払拭に結び付けることはできないものだろうかと考えます。 みなさんはこの問題について他にどんなご意見をお持ちでしょうか?子供たちにとって最も良い方法は何なんでしょうね?