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小学校からの英語教育は必要?

TANUHACHIの回答

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.8

 補足ありがとうございました。 >確かに、小学校で英語を始めるからにはもう少しみっちり勉強すべきだとは思いますが、文法をガンガンというのはどうでしょう? 江戸時代の寺小屋の漢文みたいになりませんか? フランスだと、小学校からフランス語の文法をガンガン覚えます。ですから、中学からの英語も自国語に当てはめて考えやすいので呑み込みが早いです。でも、日本では中学で日本語の文法もろくにやらないのに、英語と日本語ではあまりに違いすぎるし、中学からの英文法だって空回りしているじゃありませんか。 ですから、皮肉なことに 日本語の文法に苦労して覚えた英文法の用語を持ち出す人も少なくありません。「仮定法」に限っては英語教師でさえ、論理的に説明できる人は少数です。  確かに漢文には基本ルールが幾つかあります。英語を含めての外国語たとえばドイツ語では「定動詞二位の原則」があります。定動詞は人称に応じて変化する動詞の形ですが、英語ならば動詞は主語のあとに記述されます。  これに対しドイツ語では必ずしもなければならないとの約束事はありません。 Ich lerne heute Deutsch.との文章があった場合に Heute lerne ich Deutsch.でもDeutsch lerne ich heute.でも許容されます。がしかし定動詞の位置そのものは厳然として語順の二番目に置かれます。これが通用しないケースは「定動詞の倒置」と「助動詞構文」が代表的な事例です。  Deutsch lerne ich heute.に対しLernen Sie Deutsch Heute?とした場合、はいそしていいえで答えることのできる「決定疑問文」ですので、英語ではDo you study German today?となりますがドイツ語では動詞と主語を入れ替えるだけで疑問文を構成することができます。疑問詞を伴う疑問文ならば Was lernen Sie heute?(What do you study language today?) Wo lernen Sie heute Detusch?(Where do you study Germany today?) となり、動詞の位置は二番目にあることは変わりません。    もう一つの事例ですがこれは助動詞のある構文の場合です。 Ich kann Deutsch sprechen.として「私はドイツ語を話すことができます」となります。この場合の動詞の位置は先程の事例と異なり、文末に置かれています。つまり助動詞が主語に続く二番目の位置にあり目的語をサンドウィッチのように間に挟み込む形になります。従って疑問文にする場合では Können Sie Deutsch sprechen?となります。  文法が必要なのは、知らない言葉を学ぶときです。ドイツ語を知らない人はドイツ語の文法を習う。古文を学ぶとき現代日本人は古文の文法を習う。これが自然です。ところが学校文法では、現代語の文法から教えようとする。しかも文章を読み書きする上で大事な点に絞って教えるのではなく、子供達に対し「文法学」を体系的に教えようとする。文節から始まり、品詞がどうのこうの活用形がどうのこうのといった具合です。ですからよほどそうした分野に興味や関心のある子供達を除いた殆どは退屈するかアレルギー反応を示してしまう。現代語は文法など習わなくとも読み書きはできる。芭蕉も西行も日本文法の教育など受けなかったのに立派な日本語を書き遺しています。  これが中学校段階で初めて英語と出逢ったなら、どの様な反応を見せるか。英語は文型に従って、また動詞の区分(be動詞とHave動詞)て文章構造がはっきりしていることに気付かされ、主語と動詞の距離の近さにある意味カルチュアショックを受けます。文章を最後まで読まずともそれが平叙文か否定文か疑問文かが判る。これに対し日本語の構文構造は最後まで読まなければ判らないとの明確な違いを示します。こうした点で学校文法は「日本語と日本語の文章をどう理解するか」との根本的な問題に対してのヒントを提示することができていない。肝腎なところを教えなくて重箱の隅をつつくような部分をマニアックに教える事にさほどの意味があるでしょうか。  前回お話しした「文法をガンガン教えるべき」との意味は、こうした旧来からの悪癖を打破するとの意味です。文章理解の手助けとしての文法の性質を教えることがとても大切であることはフランスでの事例からも理解できます。  レストランに行った時に「ご注文は何になさいますか」と聴かれ、「私はカレーにします」「私はハンバーグです」といった場合、この「します」「です」の中身が大切であり、それが活用形としての何形であるかなどは些末な問題になります。要は「私はカレーを注文します」「私はハンバーグを注文します」であって、形式的に「私は~である」として理解するだけならば私とカレーやハンバーグが同質の内容を指すとなり、精神科の治療を求めたほうがよろしいとの事になってしまいます。言語理解としての文法は一つの材料でありそれともう一つ常識との要素が連携して初めて言葉を恃む形になります。  僕が関与している大学のゼミにも外国籍の方が何人かいらっしゃいますが、彼らの方が日本の学生達よりも豊かな日本語を話していることも実感しています。一つのセンテンスを明確な文意で綴り話す。これが現代の日本人には困難な作業のようです。一つの文章で100文字を越える時にはその特性が明確になります。途中で何を言っているのか判らなくなる。助詞としての「は・が」の使い方がメチャクチャで文章が壊れているのが現実です。本当に「それでも大学生なの?」と疑ってしまうことも珍しくありません。  コミュニケーションがどうのこうの、ビジネス戦略としてどうのこうのという以前に「何を相手に伝えたいかをはっきりさせる」ことの方が大切であると考えます。  ご質問の趣旨から離れてしまい申し訳ありません。

yingtao7
質問者

お礼

Vielen Dank für Ihre Antwort. >しかも文章を読み書きする上で大事な点に絞って教えるのではなく、子供達に対し「文法学」を体系的に教えようとする。 そうですね。日本の英語教育は体系に教えることに固執しすぎている気がします。 でも、そんな日本式英文法にも若干の欠陥があります。 例えば 次の文です。 I'm looking after my mother. この文のafterはadverbial particleと呼ばれるものなんですが、日本式英文法では前置詞扱いだったり、副詞扱いだったりはっきりしない部分があります。 それでは、次の文です。 I'd like something to drink. この文ではlikeがconditional moodに置かれていますが、日本式英文法では「仮定法」と呼ぶこともありますが、この「仮定法」と言うのは subjunctive moodを指すこともあるし、 動詞の叙法よりも、非現実の仮定の構文そのものを指すことも多いです。 次はto不定詞です。 I don't know how to play the piano. この場合、howを名詞と見做し、to playはhowを修飾する形容詞的用法と解釈する人も多いですが、これも少し無理があります。

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