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松尾芭蕉と曽良

key00001の回答

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  • key00001
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回答No.1

> どう違いがあるのかさっぱり分かりません。 その感性の方が、まだ正解だと思います。 > 曽良の句のほうが明らかに素人である こんなコト、分かっちゃダメ! その論評こそが、全くの「素人」で的ハズレです。 そもそも個別に比較したり、良し悪しを論じる句ではありませんので。 平泉のくだりは、芭蕉の句と曽良の句がセットになって完成している紀行文なんだから。 二つの句を並べて楽しんで欲しいと言う芭蕉の思いが、全く判ってないです。 逆に言えば、曽良の句を「おくのほそ道」に書き残した、芭蕉のセンスへの冒涜ですね。 芭蕉が古戦場を、まず『大胆』に詠みあげます。 続いて曽良は「師匠!私はそこに兼房の姿も見えますよ!」と『繊細』に詠んでいるのです。 芭蕉の句のみでも、「おくのほそ道」の中で屈指と言われる名句です。 そこに曽良の句が加わることにより、芭蕉の句の奥行きとか迫力、立体感・現実感などが、更に増す感じがしませんか? また、何か芭蕉の気持ちも伝わってきませんか? 曽良に対し「おぉ!君にも見えたか!」と、弟子の才能を愛でて喜んだり、面白がったかも知れないし、「おっ!君も腕を上げたな!」と感嘆したのかも知れません。 並べて比べたら、そんな面白さは全く伝わってきませんね。 逆に並べて味わえば、面白さが尽きません。 第一、曽良が「素人」などと言う論評が的ハズレなんですよね・・。 実際、たとえば松島のくだりでは、芭蕉は自分の句では無く、曽良の句しか記してないんですよ。 俳聖と言われた芭蕉が、曽良を高く評価していたことが分かります。

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