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新約聖書の真実性 皆さんは何も思いませんか?

hhitujiの回答

  • hhituji
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回答No.7

聖書の記述がどこからどこまで真実なのかこんなところで聞かずに、一度ご自分で調べてみたらどうでしょう。 冗談だと思うかもしれません。が私は本気で言っています。 アカデミー賞を総なめした名作映画「ベン・ハー」の作者であるルー・ウォレスはアメリカ南北戦争当時将軍でした。 ある日、彼はキリスト教が嘘であることを証明するために、探求を始めました。 最初、彼は聖書のウソを暴こうと思い、その間違いや嘘を探し始めます。非常に簡単なことだと 思っていました。 が、この探求の中で、探しても探しても聖書の決定的な誤りの証拠は見つかりませんでした。 それどころか探せば探すほど、「冗談だろ!」と思うような聖書の真実性を示す証拠ばかりが積み重なって来たのです。 彼は、その、長い探求のなかでとうとうある一つの結論に達します。イエスキリストは受肉した神であり、聖書に書かれていることは奇跡に関してまですべて真実であるということです。彼はクリスチャンになりました。「ベン・ハー」はその時の経験からインスピレーションを得て作られた作品です。 このように、非常に知的な人間が、キリスト教や聖書の嘘を暴くために証拠探しを始め、かえってその結果信仰を得てクリスチャンになるという例は枚挙にいとまがありません。 その中には著名な政治家、新聞記者、科学者なども含まれます。 あなたも、結果はともかくぜひとも信頼できる学問的な方法でキリスト教が真実かどうかを見極めてほしいと思います。聖書の「あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら, わたしを見つけるだろう」という言葉を確かめてほしいと思います。 少しだけ奇跡に関することを書いておきましょう。 現在の学術的な聖書学という分野において、キリストが奇跡かどうかは別として何か「超自然的なこと」を行ったことはもうクリスチャン、非クリスチャン、反クリスチャンすべての良心的な研究者が認めています。現在は、その「種明かし」のほうに関心が移っています。 このスタンスは、学会など行かなくても「ナショナルジオグラフィック」などの欧米のテレビ番組を見てもはっきりと読み取れます。 いま主にその根拠となっているのは (1)キリストの死後福音書は数年以内に書かれ始めた可能性が高く、目撃者が多数生きている状態であり、物語やねつ造が発生する時間的ギャップがない。 (2)ユダヤ教の聖典タルムードなど、反キリスト教の勢力が書いた文書からもキリストが奇跡を起こしたことが示される文書が発見される。 (3)キリストの死後、12弟子のうち、11人が殉教を遂げている。また多くの初期のクリスチャンが信仰を守るために殉教を遂げている。人間、真実のためには命を投げ出すことができるが、嘘のために命を捨てることはできない。しかも、12人中11人もの人間、しかも厳格な一神教者のユダヤ教徒であった弟子たちがキリストが神だということを証明するために殉教するなど考えにくい。しかも、彼らはオーム真理教などと違い、貧しい人を助け、迫害されている人をかくまい、きわめて知的にも人格的にも優れた人間であったことがわかっている。このような人間たちが洗脳だけでここまで高確率で信仰のために命をかけるなどということは何か特別なことが起こったと考えざるを得ない。 などです。 ちなみに、(1)に関しては、よい比較例があります。イスラム教の聖典であるコーランですが、ここには実はマホメットの奇跡物語は何一つ出てきません。 彼の奇跡物語が書かれるようになるのは死後200年以上たってできた「ハーディス」(言行録)からです。 基本的に、古代の文書には奇跡物語は確かに多いのですが、かなり事実関係がいいかげんな、突拍子もない胡散臭い文書か、あるいはその人物の死後、生きている目撃者がいなくってから書かれたものに限られています。 新約聖書は古代文書として、超一級な事実関係に関する正確な資料です。このことはすべての考古学者が認めます。そのような文書において、目撃者がまだ生きているときに書かれたとしたら、そこに嘘が紛れ込んでいたら、その嘘を糾弾する文書が残るか、あるいは聖書として生き残れなかったかどちらかでしょう。が、どちらでもないのです。 あなたが、ぜひとも実り多い探求の旅に出ることを願っております。

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