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なぜ文章を難しく書く必要があるのか

hosidenshiの回答

回答No.11

頭の中にある思いや考えを人に伝えるための媒体として言語を捉えると、考えを「正確に」人に伝えることは実は非常に困難なことであることに気づくと思います。 ハンバーグの作り方であれば材料や分量、調理手順を詳細に書けばある程度伝わるでしょうが、5種類のハンバーグの味の違いを正確に人に伝えることは困難です。 このように、伝えたいと思う内容が複雑な概念、抽象的なものになるほど正しく人に伝えることは難しくなってゆくのです。 そこで、複雑な概念を出来るだけ正確に人に伝えるためには、多くの言葉を用いて繰り返し注意深く考えの輪郭を文章によって浮き彫りにしてゆかなければならないということになります。ですから正確さを期す必要のある論文は、内容がたとえ冗長となってもひとつの考えを繰り返し様々な角度から多くの言葉を費やして述べ、根拠を挙げ、例示によって補強するということが行われるのです。 多くの言葉を費やしてようやく浮き彫りとなった筆者の考え全体を俯瞰して、全体として言いたいこと(要旨)を読み取る能力を問う問題こそがご指摘の「ここはどのようなことをいっているのかわかりやすく答えよ。」の問題であって、これは解答者の回答を見れば筆者の述べたいことを正確に読み取れているかどうかを採点者は知ることができます。しかし、元の文章が初めからその解答のような簡潔な文のみで書かれていた場合、筆者の考えはむしろ誤った解釈をされてしまう可能性があるのです。 一方、別にそれほど多くの言葉を必要とするとも思えない単純な概念をやたらと難解な言葉で飾り立て権威のある文章に見せかけようとする傾向も多く見られることは確かです。こういった文章は言うまでもなく悪文ですが、実は悪文ほど問題作成者にとっては問題を作りやすい(やたらと難解な割に要旨は単純なので)ために、こういった文章は入試問題などには出題されやすいのかもしれませんね。

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