• ベストアンサー

〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?

em9845の回答

  • em9845
  • ベストアンサー率33% (2/6)
回答No.27

わたしは頭が悪く、皆さんみたいに上手な答えが書けないのですが、このページを読めば少しは、pokoperopoさんの疑問も晴れるのではないでしょうか?神学校を受験したいと言っている私の友達が、神学部の教授を訪ねた際にこのホームページの話をしたら、教授も絶賛したらしいです。わたしもバカなりに、今勉強中です。 http://www.church-in-kyoto.com/faith1+index.htm

pokoperopo
質問者

お礼

ご回答いただきありがとうございます。大変参考になりました。そうですね、私自身が堅苦しく捉えていたきらいもあります。もう一度よく考えてみますので、いろいろ教えていただければありがたく思います。

pokoperopo
質問者

補足

あなたはクリスチャンでいらっしゃるのですか?三位一体について、どのように教わりましたか?よろしければお答え願います。

関連するQ&A

  • 《三位一体なる神とは?》の決定版を問い求めたい

     たたき台をに ほかの方の質問への回答をあてます。  【Q:〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?】  http://okwave.jp/qa/q5008585.html  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5008585.html  ☆☆ (回答No.6) ~~~~~~~~~~~~~  いちど 教条のごとく述べてみます。    父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。  父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。  父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は そしてほかの権能も残らず 十全に子である権能に与えられた。(ただし この与える・授かるに 時間の隔たりはなかった)。  父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。  子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉(身体および精神)となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。(《人間であると同時に 神である存在》が――茶化して言えば 《現人神》なる存在が―― 地上に現われたまうた)。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。  第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神は これらの神のみ心を 人間の言葉で 告知したまうた。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。  ところが 子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。父も子も愛であるが 固有の意味では 人間にならなかった聖霊なる神が 愛であると捉えられる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ほかにも いくつかの回答とやり取りがありますので ここから出発するかたちとしました。  活発な問い求めになれればと思います。

  • キリスト教の「父と子と精霊」とは何でしょうか?

    キリスト教のお祈りで、「父と子と精霊の御名において」という文言があります。 これの意味を教えてください。 父=神、子=イエスでしょうか? それなら「神とイエス」といえばいいですよね。 これはキリスト教以前のユダヤ教に根ざしているのでしょうか。 また精霊はマリアと交わったので、イエスの父でしょうか? 三位一体などともいわれますが、その意味もよくわかりません。 よろしくお願いします。

  • クリスチャンにとっての「聖霊」

    三位一体の「父」「子」「聖霊」のうち、聖霊は非クリスチャンにとってイメージがつかみにくい存在です。 私は聖霊を描いた宗教画を見たことがありませんし、「聖霊さまに祈る」という表現も見たことがありません。 なぜ聖霊はあまり表に出てこないのか、また、クリスチャンにとって聖霊とはどのような存在なのか教えてください。

  • 三位一体論は そんなに不人気なんですか?

     《三位一体なる神は 無宗教である》と捉えその表題のもとに議論を展開することによって 人気の無さが 必ずしも根拠のある見方ではないであろうことを問います。あらためて問うものです。            *  三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権が分立して互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持っていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  三位一体論は 役に立ちませんか?

  • キリスト教の礼拝に関して

    キリスト教、特にカトリックにおいては、神へは「崇拝」、三位一体へは「礼拝」、聖人へは「崇敬」、聖母マリアには「超崇敬」を行うとされていますが、実際には、「崇拝」・「礼拝」・「崇敬」・「超崇敬」は、どのような点が異なるのでしょうか? 不通に祈っている時に、意識して分けているのでしょうか? また、三位一体へは、「礼拝」となっていますが、「父なる神」へは、崇拝をするべきであり、それが、「礼拝」となるのは、なぜなのでしょうか? 父なる神、子なるキリスト、そして聖霊が一体であるのですから、神への礼拝、キリストへの礼拝、聖霊へも礼拝でよいのではないのでしょうか? 三位一体への礼拝は、キリストと聖霊とは、同じものでよいのでしょうか? また、聖人への崇敬と、聖母マリアへの超崇敬とは、どのように異なるのでしょうか?

  • 『父と子と聖霊の御名において』

    キリスト教のミサの冒頭に詠われる、 『父と子と聖霊の御名において』という式文がありますよね。 あれって、外国語では何というのでしょうか? 英語では”In the name of the Father, the Son and the Holy spirit.” ラテン語では”In nomine patrie, et fili, et spiritu sancti.” となっていましたが、ドイツ語やその他の言語でのものが分かりません。 教えてください(ドイツ語を優先的に)。 また、上記の文に間違いがあれば、訂正をお願い致します。

  • キリスト教徒になる資格

    キリスト教徒になるための資格は何ですか? 本には、「イエスをキリスト(救世主)と信じること」って書いてあったんです。 僕は、キリスト教とかキリスト教徒をあこがれてるけど、信者じゃないので、ちょっと寂しい感じなんです。だから、まあ、教会に行ってみようかなと思ってるんです。でも、教会行ったら、たぶん、他人に威張ると思うんです。 「イエスは救世主だよ。イエス・キリストって名前違うよ。救世主イエスってことだよ。まあ、僕は、こういうこともきちんと理解して、教会に来てるんだけどね」とか、「聖書何冊持ってるの? 僕2冊だよ。まあ、少ないかもしれないけど、1冊の人よりはましだ。」とか、「キリスト教の本読んでる? きちんと大学教授の本を読んでるの?」とか、威張り散らすと思うんです。 威張るっていっても、みんなに威張るんじゃなくて、ちょっと仲良くというか、話したり出来るようになった人に、いろいろ威張るんです。 「三位一体って知ってるか? 教えて欲しい? うーん、教えてやろうか? よし。三位一体っていうのはな、父・子・聖霊が集まってていうかな、3個じゃなくて1つ。それがヤハウェ。分かったか?」とか、たぶん、他にも「イエスの職業何か知ってる? まあ、僕は、イエス様って言わないけどな、イエスの職業は、すばり、なんと、もう、僕は知ってるんだけど、な、な、な、な、なんと「大工」だ! 知ってた?」とか言うと思う。 僕は、あんまりキリスト教に関する知識は持ってないけど、その少ない知識を、自慢すると思うんです。 僕は、いつも、学校でも、会社でも、少数の、僕の話を聞いてくれる人に対しては、延々と、自慢したり威張ったりするんです。自慢の内容は、いろいろです。好きな芸能人のこととか、読んでる本のこととか。 こんな人がキリスト教会に来たら嫌ですか? みんなどんな性格でしょうか?

  • 三位一体なる神は 無宗教である。

     三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。  しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。  それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。  これを問います。  つまり まづ  ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。   ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~    ――ひとと社会の成り立ちについての図式――   光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)                ↓  ↓        ↓      ↓  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________               ↓      ↓      ↓     ↓  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。    子の父は 光源であり     父の子は その発耀であり     父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。  2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。  3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。  4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。:   父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に    子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に    聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に  それぞれ当てはまるというタトエです。  5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。  6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。  7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。  8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。  9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。  10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。  11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。  添削・批判を俟ちます。

  • 三位一体論の十分な聖書的根拠

    私はプロテスタント系求道者です。 三位一体論について観念的な理解はしています。 聖書的にもその萌芽が見られますが… 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、 あなたがた一同と共にあるように。」(IIコリント13:13)、 「キリストは、神の身分でありながら、 神と等しい者であることに固執しようと思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため、神はキリストを高く上げ、 あらゆる何まさる名をお与えになりました。」 (フィリピ 2:6-9) しかし、「三位一体」という言葉はなく、 ニカイア信条の中で父と子は「同質」(ギリシャ語:ホモウーシオス) であるという、聖書にない言葉が使われた、ことはご存知かと思います。 プロテスタントが標榜している「聖書のみ」の立場からは、とても苦しく、 三位一体を認めない宗派の信者が訪ねてきたとき、この点を突かれ、 私は答えに窮しました。 その宗教団体の教義では、「イエスは神ではなく『神の子』である」と。 私が次のように自説を展開しました。 「それでは、イエス・キリストは、神でもなく人間でもなく、 御使いのような中途半端な存在になる。 そのどんな業も、全て父に帰せられて、 イエスは父の補完的存在に成り下がってしまう。 キリスト教を標榜する限り、 イエス・キリストを神と同等に信仰しなければ、 旧約すなわちユダヤ教へ回帰してしまう。」 しかし、「聖書にそう書いていないですから。 私たちはそう(イエスは『神の子』であると)信じていますから。」 と開き直られました。 そんな宗教団体は、明らかにおかしい論理も展開しているので、 無視するのが賢明だと思いますが、何か釈然としません。 説明が長くなりましたが、 聖書を根拠にして三位一体論を展開できませんか? 私は、口語訳、新共同訳、Greek New Testament、BHS、LXXを持っていて、 時間が掛かりますがギリシャ語もヘブライ語も読めます。 しかし、神学校を上がったわけでもないので、神学には全く明るくないです。 お勧めの神学書があれば、ご紹介して頂きたいのですが。

  • 基督様が男性なのはドエム的な印象の回避でですか

    三位一体論において 「聖霊」「父」「子」という3つ(位格)のうち、「父」「子(基督様)」が男性だとすると、 これはどういうことなのでしょう‥‥ もし女性であれば、磔刑に性的なニュアンスが出てしまうので回避された、ということなのですか、 それとも当時の男性優位思想の反映、 というようなことがあるのでしょうか、 皆さんは、なぜ基督様は男性で、男性の磔刑の絵が描かれてきたと御思いですか、 又、唯一絶対の筈の神様は、片方の性“父”なのですか、 宜しく御回答願います(素人ですし、 よく分かりません)‥‥?  (※ 前回、回答がつかなかったようで‥‥  自己削除の上でのカテゴリ変更)??? お願い致します