• ベストアンサー

周りの人間が幼稚に見える くだらなく思える 見下してしまう 

3330-343の回答

  • 3330-343
  • ベストアンサー率22% (7/31)
回答No.1

僕はまだ中学三年生ですが、あなたと同じことを、ほとんど毎日考えた時期がありました。 周りの人間ほとんどが、人のことを馬鹿だと思い込んでいるように見えて、なんでこいつらはこんなにくだらないんだ、と苛立ちさえ感じます。 と同時に、どこか客観的で冷めている自分に、嫌悪感も感じていました。 他人が非常に生意気に見えます。けれど同じように、向こうをこちらを幼稚だと思っているのかもしれません。 人を見下す人間の存在に気づくことで、同じように自分も、その人を見下してしまっているのです。 要は、あなたの思っていることは決して間違いではなく、むしろそんな気持ちを抱くことで無意識に自己を維持しようとしているのではないかと思います。 たとえ他人が幼稚に見えたとしても、それはあくまでお互い様なので、そこで相手も自分もせめずに、みんな同じことを思っているのかなあ、と考えておけばいいんです。 と、小僧が何やら語りましたが、ちょっとしたアドバイスにでもなれば幸いです。

noname#77750
質問者

お礼

自分に嫌悪感を感じてしまいますよね。 ご回答ありがとうございました。

関連するQ&A

  • カルマの法則について

    スピリチュアルな考え方でカルマの法則ってありますよね? 自分がまいた種は自分が刈り取らないといけないといった、 でも、人間に聖人君子はいないですよ。生まれてから死ぬまで未熟な未完成な存在です。 善き事を思い、善き行いをすれば、プラスのカルマとなって自分に返ってきて 逆ならばマイナスのカルマとなって返ってくる。 人間は未熟な存在で魂の成長のために生まれてきたと一方ではいいます。未熟であることを認めていながら、未熟な心、言動を否定しているようにも思います。どんな人も未熟ですこしずつ成長していってるんじゃないですか? 未熟な自分の言動がすべて自分に返ってくるのですか? 乱文、申し訳ありません。 御意見よろしくお願いいたします。

  • 偽善者と善者って・・・

    偽善と善の違いを教えてください。 利己主義の何が悪いんですか? どう考えたって マザーテレサもオードリヘップバーンも 笑顔や相手の幸せを感じる事によって得られる 自分の幸せのためにやってた行動だと思うんです。 この人は本当の善者という人を見た事がありますか? いたら教えてください。 有名人でも隣人の話しでも良いです。 私は利己主義で 自己中心的な生き方を誇りをもってしてると思います。 私が邪魔なら人を殺しても良いし  社会のためなんて生きようとも思いません

  • 高慢な人間は、己がえらく思われていまいと感ずるがゆえに、

    高慢な人間は、己がえらく思われていまいと感ずるがゆえに、 その人に向かって非常な敬意をいだく。それほどまでに人間の高慢は高まる この意味って 自分をえらい思ってくれる人に非常な敬意いだくほど 人間の傲慢は高まるっていういみですか?

  • 弱い人間

    私は最近職場の人間関係に悩まされていることもあって、とても後ろ向きになっていると思います。 一旦、嫌なことがあるとすぐ落ち込む性格です。 しかし、そういうことがなければ結構プラス思考なんですが。。。 人間っていくらプラス思考でも、落ち込んでるときにはマイナス思考になりがちなものだと思います。 先日、ある人に悩みを打ち明けたら、そんなことを気にしているなんてまだまだ子供だっていうようなことを言われました。優しい口調で私を思いやりつつ言ってくれたと思います。 しかし、私は色々考えてしまいました。自分では私はとても弱い人間だと思います。ちょっとしたことに落ち込まない人は大人であると同時に強い人でもあると思います。 人間って年を取るにつれて色々経験して強くなっていけるものなんでしょうか?私は今26歳です。 もちろん自分がもう一人前の大人だなんて言いませんが、ある程度社会人でもあるし、学生とは違うという意味で大人であると認められたいと思っています。 前置きが長いんですが、26歳にもなって人間関係で弱音を吐いたり、仕事も手につかないくらい落ち込んでいるなんてまだまだ子供なんでしょうか? 大人=精神力の強い人というイメージは確かにあります。明日からはそういう人を目指して生きたいと思います。 わかりにくい質問かもしれませんが、皆さんは年をとって成長されましたか?強くなりましたか? 私がちょっとどうしても思ってしまうのは、自分が元気なときは強くなれるし、弱い人を情けないと思うこともできるけど、やっぱり、自分が追い詰められた状況になると、なかなか強くなれないという気がする、ということです。 今日は辛くて会社を休んでしまったので、少し考えもまとまりませんでしたが、読んでくださった方、どうもありがとうございました。

  • あなたのまわりの字の綺麗な人

    字の綺麗な人の法則について知りたいと思っています。 あなたのまわりの(回答者さん本人以外の)字の綺麗な人はどんな人ですか?教えてください。 マイナスなことを書いてもOKです。(自分勝手、プライドが高いなど) もちろんプラスのことを書くのもOKです。(努力家、完璧主義など) それと、字の綺麗な人についてどのような印象を持っているか、どういう傾向が強いと思うかどうかも教えてください。 よろしくお願いします。

  • 利己的な人間は改善されないものなのでしょうか。

    利己的な人間は改善されないものなのでしょうか。 結婚してからハラスメント的、かつ利己的な夫の言動があらわになりはじめ・・・ それでも「良い部分」を重視し、傷つけられるような言動に対して何度も何度も、 「自分がいたらないから」「自分が悪いから」と、自責しては仕切りなおし、 夫に寄り添い続けてきました。 でも、「自分を守るために子どもにさえ平気でウソをつく」「俺がやってることは正しい」、 「俺の機嫌を悪くする奴は子どもでも許さない」そんなオーラを、無言で発し、 夫婦の営みも「俺がやりたい時はこたえろ」ぐらいの雰囲気をかもしだされ、それにこたえ・・・ (こたえないと機嫌が悪くなる、そんな重たい空気がイヤだからこたえる) そういう「利己的な夫」という事実が、カウンセリングで明るみになり、 子どもへの悪影響も考え、(もう子どもたちはすでに意味無く攻撃的なので) 一昨日、離婚を決意しました(夫にも伝えました。別れたらそれでええんやろー!って感覚でした…)。 でも、「おまえを愛しているから今までここまで頑張ってこれたんや」とか、そういう類の言葉を聞くと 私のモノサシをもう一度彼に合わせたら、今度こそは彼は解ってくれるかも・・・ と、思ってしまうんです。。。 だから、客観的な意見が聞きたかったので、投稿しました。 無意識な領域で「利己的」な人間を更正させることってできるのでしょうか。。。 正直、苦しいです。 わたしは・・・・ どちらかと言えば、子どもは巣立つものだし、子どもより、夫を大切にしたい。 けど、子どもたちの無意識行動が、夫に似てくると… 正直、子どもたちの夫に似たマイナス言動を見るのが辛いのです。。。 「子どもに罪はない」って思ってしまうのです。。。 離婚を、子どもたちの為に決意したのにも関わらず、夫への変化を求めてる自分も居てます。 夫は女、酒、ギャンブル道楽を一切しない真面目な人だから尚更悩んでしまうんです。。。 ただ、愛し方が利己的。。。子どもを駒のように扱う。。。そのメンタル部分が、自分本位な部分が、 私のメンタルに直撃します。。過去何度も話し合おうとしてきました。 だけど、「眠たい」「疲れてる」で誤魔化されたり、「俺はそんなつもりで言ってない!」で終ります。 だから、口頭ではなく、メールでも自分の気持ちを冷静に伝え続けてきました。 けど、それらのへの返信はほとんどありません。 「俺は俺なりに愛してるし、やってきた。」で、終ります。 私の考え方が間違っているのでしょうか。。。 たくさんの子どもを抱えているので、ひとつの決断に対して、物凄く不安になります。 (「家族」という単位は、自分ひとりの問題ではなくなるので) なにか、アドバイス、よろしくお願いします。。。

  • 利己主義は高貴か?――ひとはどこまで阿呆になれるか

     ▼ (?:利己主義は高貴なり) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) 無邪気な人々を不快にするという危険を冒して 私は言明する。   (あ‐1) 利己主義は高貴な魂の本質に属する      ・ der Egoismus gehört zum Wesen der vornehmen Seele      ・egoism belongs to the essence of a noble soul  と。   (あ‐2) 私が利己主義というのは          《われわれがある》如き存在にとっては         他の存在が本性上 臣従してその犠牲となるべきである        ・ dass einem Wesen, wie „wir sind“, andre Wesen von Natur        unterthan sein müssen und sich ihm zu opfern haben.        ・ that to a being such as "we," other beings must naturally         be in subjection, and have to sacrifice themselves.       というあの揺るがしがたい信念を指すのだ。    ☆(あ‐2-bragelonne) ~~~~~~~~~~~~~        《〈われわれがある〉如き存在》:意味がよく        分かりません。         《われわれなる類としての概念には 人類そして人類の        一員という所謂る類的存在なる理念がやどる。そのような        公的・公民的存在にしてかつ利己的に行動する》といった        意味なのでしょうか?          つぎに敷衍されていましょうか?      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (い) 高貴な魂は自らの利己主義というこの事実を何の疑問を抱くこともなく またそこに峻酷・恣意の感情をもつこともなしに 却(かえ)ってそれが事物の根本法則のうちに基礎をもつものであるかのように解する。     ☆(い-b) これだけではまだ分からない。  (う) ――これに対する名称を求めようとすれば この魂はこう言うであろう。《それは正義そのものである。 „es ist die Gerechtigkeit selbst“. "It is justice itself."》と。    ☆(う-b) さっぱり分からない。  (え) 様々の事情のために このような魂は始めは躊躇するが 自分と同等の資格を与えられた者が存在することを承認する。それはこの位階の問題について決着をつけるや否や 自分自らに接すると同じように確かな羞恥と細やかな畏敬をもって これらの同等者や同格者たちと交渉する。    ☆(え-b) ~~~~~~~~~~~~~~      これは 飛躍すると あの法華経における《唯仏与仏――     ブッダはブッダとのみ話が分かる――》という話に通じている     かに見える。かの有名なるゴータマ・マジック。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (お) ――それはあたかも すべての星辰が通暁している本有的な天体力学の法則に従うのと同様である。    ☆(お-b) どうもブッダにならなければ おまえなんかに分かるもん       かと言われているみたいだ。  (か) 自分と同等なものとの交渉におけるこうした繊細さと自己制限 これがその利己主義に更に付け加わる一片である。    ☆(か-b) 《制限》が 言葉としてだけでも 出て来た。利己主義に       対する自己制限であるそうだ。  (き) ――あらゆる星辰はこのような利己主義者なのだ。  (く) ――高貴な魂は自分の同等者たちのうちに またそれが彼に与える諸権利のうちに自分を畏敬する。それは 栄誉と権利の交換がすべての交渉の本質として 同じく事物の自然的な状態に属するものであることを疑わない。    ☆(く-b) これはどうも 信長と秀吉と家康とのあいだでは 話が通じる       と言っているみたいである。果たしてそうか? どうなのか?  (け) 高貴な魂は 自分の根底に潜む敏感な本能から 自分の取るだけのものを他にも与える。    ☆(け-b) ~~~~~~~~~~~~~~~~        とすると その《自己ではない他者への利益を図る》と       いうのは――《本能から》とすれば意識も自覚もなくという       ことなのだろうか? はそれとして問うておくとして――言わ       ば その《利他》の行為も大きく《利己主義》の思惟と行動と       の中に含まれるという意味だろうか?       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (こ) 《恩恵》という概念は 《同等者の間では》何の意味も芳香も有しない。上からの贈り物をいわば自分の上に注がれるままにし 雨滴のように渇望して飲みほす一種の崇高な者もあるであろう。しかし高貴な魂は このような技巧や身振りには一向に堪能ではない。その利己主義がこれを妨げる。すなわち それはおよそ見遙かすか 或いは見下ろす。――それは自分が高みに立っていることを知っているのだ。――    ☆(こ-b) ~~~~~~~~~~~~~~~~      ということは・・・     (i) 《恩恵》を受けそれを頂戴することは 利己主義で高貴な        魂にもある。     (ii) ただしそれは《およそ見遙かすか 或いは見下ろす》とい        ったかたちを採る。     (iii) 《それは自分が高みに立っていることを知っている》からだ        と言う。     (iv) 《見下ろす》場合は そのまま文字と意味とが一致する。     (v) 《見遙かす》場合というのは どういう事態か?       (v-1) 《同等者》というのだから 相手も自分も《同じ高みに          立っている》という意味か?       (v-2) いや 同等者なのだが 見遙かすほどの高みにいる          相手もある場合がある。のか?     (vi) いづれにしても 《贈り物を雨滴のように渇望して飲みほす》        ことは《利己主義ゆえに》しないが 頂戴するものは頂戴する        のか?     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (『善悪の彼岸』 木場深定訳 1970/2010改版 § 9 高貴とは何か 二六五)  独文:http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/JGB  英訳:http://www.lexido.com/EBOOK_TEXTS/BEYOND_GOOD_AND_EVIL_.aspx?S=10  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆(さ) 利己主義とよぶ高貴な魂は あるのですか?  (し) または ひとはどこまで阿呆になれますか?

  • 競争化社会と利己主義

    競争化社会は、利己主義を助長しますか? 競争化社会は、利己主義を正当化してしまうのでしょうか? 競争化社会は、隠して追行する利己主義を正当化するためなのでしょうか? 正当化された様に見せかけようとしている隠れた利己主義は人を人間とみなさず密かにも利用できる物と認識しますが、人間の心の乖離や人格の落ちぶれに主義追行者はあたかも気が付かない振りをします。しかしそれは、ばればれです。 競争化社会は、利己主義に繋がりますか? もしそのような傾向を助長しているとしたら、日常をどう思われますか? 当てはまらないというご意見も出よう事と思います。 しかし、それは、自己自我を守るためというような狭義さからの発露であっては決してなりません。 なぜなら、社会に多く問題を発生させているのですから。 質問を逆にした方がよりわかりやすいのかもしれません。 利己主義は、競争化社会を作りますか? 利己主義は、競争化社会を作ると達成しやすいですか? 利己主義は、競争化社会であった方が、やりやすいですか? もしそうなら、それに感化される者、全ての人は、その小さな悪価値によって心半ば卑下に足枷られるのですか?枷られた者は、競争強者の利己主義の餌食ですか? 競争化社会は、餌食創出に都合が良いという訳なのですか? そういう意味で、足枷風潮右にお上に倣えに意見も持たず迎合しているとしたら、気付きの後、どう思いますか? どんな意見を持ちますか?これからの自身をどう推し進めていこうと思いますか?そして、どんな新しい自分を創出し、何を選択し、どんな価値を持ち、何をしますか? 暇なときに回答ください。

  • どうして人間は他人に優しくできないのか

    タイトルの通りですが、なぜ人間は他人に優しく(親切に、懇切丁寧に、きめ細かく)接することができないのでしょうか。 なぜ人間は他人を(継続的に)愛することができないのでしょうか。 なぜ人間は自分が中心で、他人の立場、状況、気持ち、感情、心などを理解してやれないのでしょうか。 もともと生物は自分が中心です。自分を中心にして生きています。だから人間もそうなのかもしれません。 しかし、人間が人間らしく生きていくためには、利他的な心を持たないといけないと思います。 しかし、現実的には人間は非常に利己的です。 どうして人間は他人に優しくできないのでしょうか。 私はこれで悩んでいます。 私は障害者です。とはいえ身体ではありません。広汎性発達障害です。 詳しくいえば自閉症スペクトラムです。 それゆえ、日常生活が困難で、苦労することが多いです。 しかし、人はそれを馬鹿にして通り過ぎるだけで、絶対に手を貸そうなどとはしません。 これに憤りを感じます。 この質問に回答して下さる方は、なるべく厳しい回答はいたさず、できるだけ柔らかい回答をしてくださることをのぞんでいます。 なるべく多くの方からの回答をお待ちしています。 よろしくお願いします。

  • 高尚な人間なのかずるい人間なのか

     自分は、人に見返りを求めないようにしてきました。人に要求しないで人には思い遣ってきました。自分としてはそうありたいと、人に優しくしたいと思ったからでした。でも正直無理をしていて、とうとう苦しくなってしまい、それをある人に話したら、見返りを求めている偽善者だと云うような事を言われました。でも、そんなに非難されるようなずるい事をしたんでしょうか。  確かに無理をしていたというのは、それが純粋な行為じゃないという事になるかもしれないけれど、だからと言ってその行為の動機が相手からの見返りを期待しての事だとは必ずしもならないと思います。  自分にゆがんだ利己的なところがあると考えた時に思い浮かぶのは、人に要求しないで無理するのは、自分を過大評価して上から見下ろして「してやっている」と優越感を得るような傲慢な行為をしているという考えです。  だから人に自分を要求出来ない。おくゆかしいようで、実は傲慢であるのかもしれない。  僕が苦しいのは、他の人より高尚な人間だからでしょうか。それともずるい人間だからでしょうか。  

専門家に質問してみよう