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人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか

noname002の回答

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.42

>私もパチンコや競馬にのめりこんだ事がありますがあれは損をするために賭けるようなところがありますね。 ちょっとビックリ。御質問者さまって、捻りや個性的なものを出しながらも基本は実直そのもので、賭け事などの方面には、もとからクールな姿勢でいらっしゃる、ようなイメージでした。 最近つくづく思うに、この私に対しても、いろんな人が、何を根拠にか、いろんなイメージをもって語られるのですが、もちろん、こうした場で、自分を全部さらけ出そうと、たとえ欲したとしても、できるものじゃないですし、反面、思わぬところで滲み出てしまうものもあるでしょう。これは芥川龍之介が文学作品について言ったこととも共通します。 ですが、やはり人間のサガだなあと思うのは、しょせん「虚像」に過ぎないから、と自らが言っていても、やはり信じたいがために追いかけて追いかけて、その虚像をトコトン追求して、あげく打ち壊してしまうところまで突き進んでしまったりもするのですね。こうなると紛れもない悲劇です。 こんなことなら、自分にとって心地良いイメージを信じたままおればよかったろうに、と思います。 でも、信じているだけでは済ませられなくて、確かな手応えを求めてしまうわけですが。。。 ですから、こういう人が、しょせん虚像だろ、なんて嘯いてるのは本心ではない、ということ、自ずとバレてしまいます。 たとえば火事の下手人さんが「バチあたれ」とか「ざまあみろ」と言ったのは「虚像」が言ったに過ぎないのだよ、としても、言わせている者はいるわけですし、私が目をつけるのは、単語そのものの意味ではなく、その単語を選択させているものにあります。そこをいくら言っても理解できなかったらしいのですがね(笑) >楽しくない遊びは遊びとはいえないですね。 お金を出して楽しくない遊戯をするのですから人間というのは不思議な生き物 私が問題視しているのは、他者が楽しくはない、むしろ不快、苦痛だ、と訴えていることを楽しむ、という精神性です。 そればかりか、そのことがまた、結局は自分自身を破滅に追いやってしまうということ。 仰るように、そこには人間の根深い心理的問題が横たわっているとみております。 >他者との関係に強い興味を持っておられるようですね。 御質問者さまも、そうではないですか?以前に、確か、そのことに関して、お話させていただいたことがありましたね。 心理に関する問題と切っても切れないことです。 >私は男なので天上天下唯我独尊みたいなところがあり、今回の質問は自戒の意味も含んでおります。 言葉と行為の乖離は哲学にはついて回るのだろうと思います。 花という言葉は花そのものではない ええ、以前どなたかの御質問で、哲学や論理、理論に拘る男性特有の傾向性があるとしたら、それは恐らく或る種の脆弱性に発しているのではないかと指摘したことがあります。 まさに「埋める」道具でもあるのでしょう。 先述した科学の専門家氏、この人は最初期の頃から、「ひょっとして意外なくらいニブさ極まる人かも?(汗)」と思わせられましたが、彼は、まさに「花という言葉は花そのものではない」ことに満足できず、そのためにこそ理論という枠を嵌め殺しにしてみたり、もう信じていいのだ、という場所に辿り着かんがために足掻きを繰り返しました。 哲学についてまわる「乖離」、これは哲学だけの問題ではないでしょうけれど、いずれにせよ、当然ながら「乖離」が決して目的ではないのだ、ということは、じゅうぶんに窺えます。 精神や心理方面の医師なり専門家でもない者が、自分の生業の糧や何かの目的に役立てるため、他者の心を実験し、幾度もの追試を繰り返して、それを炙り出そうとするための場を許しておいていいのか、という、このことは、これからのネット社会で見過ごせない問題になりかねないと私は危ぶんでいます。 このサイトでも常に警告されていますよね、質問者に対して病名を付けたり、診断的な行為はしないこと、という。 これだけ精神分析や心理学方面の知識が一般の人に広がってきてますし、そうした知識を、なまじな専門家それも本来は分野外の者が、その優秀な頭脳でもって、あくまで理論としての知識を振りかざし、しかも予備情報を持たない初対面の者を実験する、そういう場への未練と執着を、いまだに保ち続けているような連中もいるようです。 専門家だの会社経営者だの大学教員だのといった立場にいるという連中がやろうとしていただけに、タチが悪いと思ったのですけど。 私が出した質問『力の刻印』は、そのあたりのことも問いたかったのですが、なかなか、そこまでの問題意識を持っておられるかたは少いようです。 いずれ私の手で、何らかのかたちで明るみに出そうと思います。 御質問者さまが仰るように、「救う」こととは正反対のことですから。 このサイトに参加してから、よく思うのは、学問精神の歪みです。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 江原さんに言わせると今の時代は権威が崩壊してきているとのことです。 会社、政治、ヒーロー、宗教などなど 自分を律することにみんな躍起になっているんじゃないでしょうか。 その過程で皮肉屋になったり、言葉をもてあそぶだけの人になったりするのかしらと思います。 寄るべき大樹を失ったなら人は自分で立たなければいけませんので今はその試行錯誤の時代なのだろうかと思います。 関係とは自分を映す鏡だといった人がいました。 類は友を呼ぶのことわざもありますので、私たちは反面教師の中にも自分の姿を見ることができるのではないでしょうか。

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