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死刑という非人道的な刑罰に賛成するのはなぜですか?

sarasachanの回答

回答No.10

殺人という非人道的な犯人に罰を与えるために賛成です。 質問者のおっしゃる >被害者複数の命を重犯罪者一人の命で贖うという事になります。 ですから、命は一つしかありませんので非常に理不尽だと思います。 個人的には、加害者が被害者を殺したのと同じ方法で死刑が執行されれば良いと思います。 もし絞殺したのなら、加害者は首を絞められる苦しみを味わえばいい。 ただこれが容認されたとしても、執行者が誰もいなくなるでしょうから無理ですけどね。

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    死刑について論じる時、必ず賛否両論に分かれます。過去の質問から 賛成派の意見をいくつか集約してみました。 (1) 死刑になるくらいの人は殺人を犯しており、遺族の心情を汲めば、当然、または止むを得ない措置である。遺族にとっては 犯人と同じ空気を吸っていることも苦痛である。 (2) 更正の見込みのない罪人の為に税金を使って生かしておいて無駄であり、生きていても仕方のない人間はこの世から消えてもらうべきである。 (3) 凶悪な犯罪を抑止する為、見せしめ刑の意味も含めて 死刑は必要である。 __________________________________________________________ 一方、反対派の主な理由を挙げてみました。 (1) 野蛮だから・・・・身体刑(拷問、視力剥奪、手足切断など)が野蛮だとすれば、たとえ罪人であろうと、命を奪うことはもっと野蛮であり、もっとも重い刑である死刑だけが許されるというのは矛盾する。 (2) 冤罪の場合、取り返しがつかないから (3) 人を殺すことに変わりはないから・・・・裁判官、法務大臣、死刑執行人も合法的とは言え、殺人をすることになる。 (4) 囚人が死ねば済む問題でないから・・・・囚人の中には自殺したがっている人も少なくないはず。 死んでラクになるなんて甘い。一生をもって罪を償うべき。 (5) 司法は被害者の復讐を代行するところでないから・・・・憎い犯人を殺してやりたいというのは、 人類共通の原始的な人情ではあっも、文化人のすることではない。 (6) 先進国の殆どは死刑を廃止しているから・・・・ アメリカは州にっても違うが、死刑制度が残っている国の大部分は後進国である。 _____________________________________________________________ それで、反対派の理由を叩き台にして、いくつかの反論理由を挙げてみました。賛成派の方はどれに近いですか? (1) a: 死刑と言っても、絞首刑は安楽死に次いで苦しまないし、血も流さないので、人道的には配慮されている。 b: 死刑にするより、目を潰したり 手足をもぎ取る方が残酷だし、別に大きな問題はない。 c: 身体刑についても容認している。 (2) a: 冤罪は別問題であり、冤罪をなくす方向で考えるべき。 b: 冤罪だとしても、止むを得ない。この場合、国が遺族に謝罪して 多額の賠償金を払うべき。 (3) a: 人の命を奪うことが悪いのではなく、法律を破ることが悪いのであって、法に則って刑を執行する分には大きな問題はない。 b:重大な犯罪者の一人の命を奪っても、それによって多くの善良な市民の命が助かることを考えれば、 裁判官、法務大臣、死刑執行人は何ら呵責を感じる必要はない。 (4) a:自殺を志望している囚人は一部だけであり、その為に 憎らしい犯人を生かしておいてはならない。 b:犯人には死刑執行までの恐怖を味あわせ、死んで罪を贖うべき。 (5) a:司法は確かに 遺族の復讐を代行するところではないが、遺族の心情も大きく汲むべき。 b:裁判員制度も始まったことだし、死刑の判決が出ようと、民意が反映されれば 妥当な処分と言える。 (6) a: 必ずしも先進国の趨勢が正しいとは限らない。 b: 日本は日本であり、外国のことは考える必要なない。日本の実情に応じてやればいいだけ。 そこで質問です。死刑論賛成者は、死刑論反対者の理由について、どのようにして問題をクリアすべきだと思いますか?

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    殺人の被害者遺族の中には、死刑を望まない人もおります。しかし、大半の遺族は苛烈な処罰感情に苦しんでいます。 犯罪被害者遺族の会の記事なんか読むと、加害者が死刑にならない 限り、自分達は再出発できないと言ってます。 しかし、そもそも被害者の遺族感情は死刑の是非と論じる根拠にして はいけないと思います。 死刑は、利己的な動機で罪のない人の命を奪った罪に対して、自らの 命で償うというオトシマエの問題です。 例え、被害者遺族がバリバリの死刑反対派で、死刑だけは止めてくれ と泣いて頼まれても冷徹に執行されるべきだと考えます。 みなさんは、どう思いますか?

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  • 私が死刑制度に賛成する理由は以下の通りです。

    1.刑法で殺人をすれば死刑もあり得ると書かれていて、 それを知っていながら殺人をしたわけだから、死刑に処せら れるのは当然。死刑になりたくなければ殺さなければ良い。 2:身勝手な欲望で被害者の命を奪った加害者に対し死刑 以外では「加害者の命>被害者の命」となり不公平。 誰の命も公平なはず。 人殺しが生かされてるのはきわめて不公平であり、正義が 実現されていない。 3.人を殺したら死刑になるということが、犯罪者に殺人を 躊躇させる(抑止効果と言う)。 一説によると、一人の殺人者を死刑にすることによって、 3~18人の命を助けることができたかもしれないという 調査結果が出ている。 4.人間は誰も、一つ間違えば殺人をするような残忍な性質 を内在している存在であるということを、忘れないための戒め として、実際に刑が宣告され、執行されることがあろうが なかろうが、未来永劫存続させることに意義があると考える。 5.死刑判決を受けると拘置所で毎日、俺の命も今日までか と生きた心地がしない日々を何年も過ごさせられる。 さすがの殺人犯も命の大切さを思い知らされ、被害者に対し て申し訳ないという反省に至る。 加害者の真摯な反省は、被害者遺族の慰めになるし、反省し て人間らしい心を取り戻させてからあの世へ送る方が加害者 の人間の尊厳が守られる(凶暴な動物のように、檻に閉じ込 めて飼い殺しにするより、少し短いとはいえ、人間らしい 人生を終わらせてやれる)。 「ただ生きるな、良く生きよ」(ソクラテス) 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(孔子) みなさんは どう思いますか?

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    【日本の現行の死刑制度に賛成ですか?それとも、反対ですか?】 非常に難しい問題であると思いますが、皆様からの御投稿をお待ちしております。 さて、私はと言うと…死刑制度には【賛成】です。 そのように言うと、死刑囚(加害者)の【人権】はどうなるのだ…という御意見も出るかとおもいますが、では逆に、「被害にあってしまい殺された人達(被害者)の【人権】や遺族感情はどうなるのだ 」と言うことも出来ます。 何人まで人の命を奪ったら死刑、どのような方法・動機で人を殺めたら死刑という【基準】となるものが存在していません。実際、ひとりの人の命を奪うということ自体、人として、人間としての道にそれることであるわけです。決して、許されることではないわけです。 つまり、何人の人の命を自らの犯行によって奪ったから死刑を求刑されるという【基準】があること自体、私は大きな疑問を感じるわけです。 ひとりの人のかけがえのない命を奪うという行為自体、同じ人間として、断じて許されることではありません。 【死刑=贖罪】であると、私は考えます。 この問題に関しては、賛否両論に分かれると重々、承知しておりますが、皆様からの御意見・御回答をどうぞよろしくお願い致します。 最後まで読んで下さって、ありがとうございます。

  • 死刑は誰のためか?

    そして 「死刑議論とはなんのためか?」 改めて 私自身も考えさせていただきました そして ある結論にいたりました 私たちが死刑について考えるのは 被害者やその遺族のためではない 加害者の人権のためでもない 私たち自身のためであり 私たち自身の命をどうまもるのか? という議論であるべきではないでしょうか? 死刑が私たちを守っている という部分に関していえば 凶悪犯罪者の社会からの排除そして 無力化 というのであれば それは 代替できる刑罰を考えうるでしょう 死刑の抑止力という点をいえば 死刑によって抑圧されていた犯罪が増える以上に 防犯策を強化すれば 抑えられるでしょう 経済的な問題ならば それは 国の予算すべての中で 思案されるべきことですし それが 社会にとって重要な事柄であれば 「お金をだしたくないからできない」が 先に来るのは変だといえます つまり 死刑というのは 私たちにとってそれほど 利益を与えているわけではない と考えます そして問題なのは 「私たちの大きな損失になりうる」ところです ある死刑反対派の方の意見にこうありました 「私たちは殺される側であって 殺す側ではない」 これは とても 的を射ていると感じます 凶悪犯罪を含め 私たちの想像を超える 狂気的な悪意や無情が 私たちの命を脅かしたとき 私たち個人はあまりに無力だといえるでしょう 私たちに 唯一対抗しうる力があるとするなら それは 「数」の力 つまり 民主的な力 しかありえないのです しかし いま その力は 「正当な殺人」というものを支持し 私たち自身を「守る」ために機能していないのでは ないでしょうか? 「理由さえ用意すれば 私たちの命も奪われてかまわない」 ということになりはしないでしょうか? 死刑存廃の問題を わたしたちは 誰のために考えるべきなのか 問いたいとおもいます 追記として・・・被害者が置き去りになっている とのご指摘がつくことを想像しますが ほんとうに 「被害者のために」 私たちは 考えなければならない とお考えでしょうか? 私たちが 考えるべきは ある人に起きてしまった一つの事柄 についてではなく 「私たち自身の不幸の回避」と「その後の社会の未来」ではないですか?

  • 死刑は誰のためか?

    そして 「死刑議論とはなんのためか?」 改めて 私自身も考えさせていただきました そして ある結論にいたりました 私たちが死刑について考えるのは 被害者やその遺族のためではない 加害者の人権のためでもない 私たち自身のためであり 私たち自身の命をどうまもるのか? という議論であるべきではないでしょうか? 死刑が私たちを守っている という部分に関していえば 凶悪犯罪者の社会からの排除そして 無力化 というのであれば それは 代替できる刑罰を考えうるでしょう 死刑の抑止力という点をいえば 死刑によって抑圧されていた犯罪が増える以上に 防犯策を強化すれば 抑えられるでしょう 経済的な問題ならば それは 国の予算すべての中で 思案されるべきことですし それが 社会にとって重要な事柄であれば 「お金をだしたくないからできない」が 先に来るのは変だといえます つまり 死刑というのは 私たちにとってそれほど 利益を与えているわけではない と考えます そして問題なのは 「私たちの大きな損失になりうる」ところです ある死刑反対派の方の意見にこうありました 「私たちは殺される側であって 殺す側ではない」 これは とても 的を射ていると感じます 凶悪犯罪を含め 私たちの想像を超える 狂気的な悪意や無情が 私たちの命を脅かしたとき 私たち個人はあまりに無力だといえるでしょう 私たちに 唯一対抗しうる力があるとするなら それは 「数」の力 つまり 民主的な力 しかありえないのです しかし いま その力は 「正当な殺人」というものを支持し 私たち自身を「守る」ために機能していないのでは ないでしょうか? 「理由さえ用意すれば 私たちの命も奪われてかまわない」 ということになりはしないでしょうか? 死刑存廃の問題を わたしたちは 誰のために考えるべきなのか 問いたいとおもいます 追記として・・・被害者が置き去りになっている とのご指摘がつくことを想像しますが ほんとうに 「被害者のために」 私たちは 考えなければならない とお考えでしょうか? 私たちが 考えるべきは ある人に起きてしまった一つの事柄 についてではなく 「私たち自身の不幸の回避」と「その後の社会の未来」ではないですか?

  • 私は死刑賛成です。

    私は死刑賛成です。 死刑に反対する人は、以下の理由で反対だそうです。 (1)仕返しは愚か (2)犯罪抑止力にならない (3)冤罪者も死刑にしてしまう (4)死刑廃止は世界的流行 (5)社会発展や人間進化の妨げ (6)加害者の更生 しかし、以下の理由から死刑に反対する理由が納得出来ません。 皆さんはどう思いますか? (1)死刑は仕返し制度ではなく、重罪を犯した者への罰則 (2)死刑の結果、犯罪抑止力に繋がる可能性はあるが、犯罪抑止力の為に死刑があるわけではない (3)冤罪者発生は無罪有罪のジャッジが問題であって、ジャッジ後の罰則である死刑との関連は無い (4)本質追及に疎く流行に流され易い日本人が多い (5)死刑廃止は加害者保護に発展し、更なる凶悪犯の増加を招き、治安悪化に繋がる (6)加害者の更正より被害者及び残された親族救済を優先するのが人として有るべき姿

  • どうしても理解できない「死刑廃止論者」の考え

    こんばんわ。 あの宮崎死刑囚に死刑が執行されました。 死刑判決から2年、事件から数えると20年ということですから、 「ようやくか。というか、まだ生きてたのか、こいつ」 というのが正直な感想です。 でも、世間では現鳩山大臣の下で死刑執行数が増えているということで (といってもまだ102人も死刑未執行の人間がいるんだぜ) またぞろ、死刑廃止論者達が騒いでいるようですね。 私は死刑制度存続論者です。理由は (1)人の命を(理不尽に)奪ったものは、(原則として)  自らの命で償うべきである。 (2)命を奪われた被害者、また被害者遺族の「仇討ち」を  国家は代行すべき義務がある。 大きくこの二つです。私は宮崎被告のような人間に人権は認めません。 とても残念なことではありますが、世の中には人権を与える価値の無い 人間がわずかながら存在します。そういう人間は社会の安全を維持し、 公正さを保つためにも、国家が粛々と抹殺しなければならないし、 またそういう権限を国家に堂々と与えるべきです。 死刑廃止論者は事あるごとに、「死刑廃止は世界の圧倒的トレンドだ」 などと言いますが、一国の法律論や刑罰論というのは、その国の歴史、 民族性、精神性、宗教観に深く関わることであり、「他国がどうだ」 などということは全く関係ありません。(日本人の価値観が変わらない限り)、日本が世界でただ一つの「死刑制度存続国家」になったとしても、なんら恥じ入ることはありません。 また廃止論者は「終身刑制度」を導入し、凶悪犯罪者の贖罪意識を なんとか起こさせることを言っています。 でも、例えば、この宮崎が、例えば終身刑で寿命まで生きて、 その間に悔い改めて、人間の心をとりもどす可能性が100%ありますか? もう一度聞きますが、100%ありますか? 100%の可能性がないのなら、上述(2)の被害者、被害者遺族の「仇討ち代行」が優先されるべきです。宮崎はこの期に及んで、「自分は無罪」とほざいていたようです。また「絞首刑」による死をとても恐れていたらしい。20年という長い時間をかけても悔い改められなかったこんな人間は、(残念ですが)、その恐れていた絞首刑によって、少しでも 被害者、被害者遺族の苦しみを知るべきです。 長くなりましたが、私はどうしても、どう屁理屈をこねられても、 「死刑廃止論者」の考えがわかりません。 私が間違っているのでしょうか? (補足)ただ、唯一、留保事項があるとすれば「冤罪」の可能性だけです。その意味では「冤罪は絶対に防ぐ」という前提が死刑判決には 求められるとは思います。しかし昨今の「死刑廃止論者」は明らかに 犯行が確定される容疑者(光市事件やこの宮崎事件)でも、死刑廃止 論をぶってきます。何故?意味が分かりません。