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情欲は 罪ですか

qsxdrfvgyhの回答

回答No.3

罪を考察する場合の補助となる軸として、罪の反対語を検討してみたいと思います。 罪の反対語は、無罪とは思っていません。 罪がマイナスならば、無罪はゼロです。プラスの方向の語が対応できていません。 罪=タブー破りならば、反対語はタブー遵守です。 罪=法律違反ならば、反対語は法律遵守です。 遵守だと、プラスイメージですから、この遵守からさらに連想する語を検討すると、倫(人の行うべきみち)とか徳(人道を悟り心を養い身に得た状態)とかになりそうです。 そこで、罪と倫・徳の軸の上で、情欲を考察すると 情欲は、罰せられるのか、賞賛されるのか、という他者の目線とは無関係なようです。自ら罰するのか、自ら賞賛しうるのか、という自己の目線を重視しています。そのとき、心の重圧を感じるのか、その反対なのか、という観点から、罪(-側)から倫・徳(+側)の位置をみると、 >アウグスティヌス自身が 《恥ずべき》と言い 悔いて《告白》しているのです とあるので、この場合は罪(-側)に大きく振れています。おそらく、情欲の暴走を恥じて悔いていると推察します。その点から、心の重圧(罪悪感)が生じているのでしょう。キリスト教の背景においては、これでいいのでしょうが、現代日本の私の感覚では、「情欲の暴走」というのは考えすぎで、それでは「生」を否定していて不幸を自ら作り出している(自作自演)と思ってしまいます。 「生」=「動」ですから、暴走ではなく、小走りくらいの認識で肯定してみるくらいの心の余裕があればよかったのにと思ってしまいます。ですから、微罪にもならないと思いますよ。小走りでは罰せられませんから。結局は、情欲の内容次第でしょう。ちょっと、推察し切れないので、これ以上は展開できません。失礼します。

noname#80116
質問者

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。  No.1そしてNo.2と見て来まして みなさん 《情欲じたいは 罪ではない》のほうへ考えを寄せておられるようです。    ★ 罪(-側)から倫・徳 *(+側)  ★ * 倫(人の行うべきみち)とか徳(人道を悟り心を養い身に得た状態)  ☆ という正負の捉え方を基準とするなら やはり 《意志の方向性 その方向へと転ずること自体》が問題となるというNo.1での受け取りが なお効いているようです。  ★ 情欲は、罰せられるのか、賞賛されるのか、という他者の目線とは無関係なようです。自ら罰するのか、自ら賞賛しうるのか、という自己の目線を重視しています。  ☆ という見方も 《周りの見方》を退けているようでいながら その《周りの目線》をも 《自己の目線》に合わせるとすれば 筋が貫かれるように受け取りました。  ★ 心の重圧を感じるのか、その反対なのか、という観点  ☆ これは どうでしょう。これも アウグスティヌス自身が  ▲  私は恋(または 愛)に恋しながら 何を恋したらよいかをさがし  まわり 安穏で罠のない道を嫌っていました。(告白3・1)         (No.1お礼欄)  ☆ というように 微妙にその《心の重圧》のありかが それているようでもあるので みなさんの見解の指向性は いまのところ 共通する部分が大きいのではないでしょうか。それこそ  ★ 「生」=「動」ですから、暴走ではなく、小走りくらいの認識で肯定してみるくらいの心の余裕があればよかったのにと思ってしまいます。ですから、微罪にもならないと思いますよ。  ☆ という捉え方なのですね。わたくしも たしかに そちらの方向を向いていました。さらに 幅広く見解を見ることができればよいと思います。

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