• ベストアンサー

思考や判断について

transactionの回答

  • ベストアンサー
回答No.19

ANo.6, 9, 11, 14,17です。 こちらこそ何度もすみません。 > しかし自然科学の立場に立てば、「物理法則のみをメカニズムの原理として認める」ということと「物理的に存在しないに等しい表象に意義を認める」ということは、明確にダブルスタンダードだと思います。 「すぎない」とか「……ないに等しい」のような修辞表現は、混乱を招くだけなので、あまり使用してほしくはないのですが……。表象は物理法則から外れたものと考えているわけではないので、いかなる意味でもダブルスタンダードではありません。心理学でいう生物学的制約です。物理法則を裏切るような表象についての理論は、基本的に支持されません。 > 認知科学っていうのは、自然科学と人文科学の融合ですよね。 そうともいえますが、質問者さんのイメージでいえば、完全に自然科学です。意識や表象といったものが自然科学として扱えるという点が大事なところだと思います(後述)。 > つまり認知科学は、表象と物理的変化を等値概念として包括することで、両者の関係性への考察をひとまず棚上げすることで成り立っているのではないでしょうか? どこかで棚上げしているのは確かでしょうね。 > それゆえ、認知科学において表象と物理的変化は同義(一体)であり、「表象に意義がある」ということが命題化しているのではないでしょうか? 命題化とはどのような意味でしょう。大前提という意味なら、これは論理の飛躍です。どこかで棚上げが起きているからといって、表象に意義があるということをあらかじめ前提しているわけではありません。そこで棚上げが起こっているわけではありません。表象にどのような意義があるのかを経験的な問いとして、研究対象にすることができます。 > また表象に対して「意義がない」とか「付随的」というのはあくまで自然科学の立場を尊重するなら、ということです。 これは、何十年か前の自然科学なら正しかったと思いますが、そこまで強固な物理主義ないし(心理学なら)行動主義は、自然科学しても現在では受けいれられません。というより、そのような考え方の変化が認知科学の発展と関係があるのでしょう。表象を自然科学として扱うための考え方や、厳密な行動の実験統制、認知や脳を経験的に調べる方法が発達してきたということです。 しかし、質問者さんと私の立場は、実際のところ、対立してはいないだろうと思います。ポイントは、次の点。 「表象の意義」という言葉が非常に怪しいのだと思います。これは、表象の実在にかんする論理的な問題と、表象の意義の経験的な問題(実際のところ、どのような意義があって表象というものは進化なり発達なりしているのか)とに、さしあたり分かれるのだろうと思います(私の最初の回答ANo.6の最後で指摘したことです)。 後者は、自然科学的に(この場合は認知科学的と言い換えてもOK)意義を探っていくことのできる問題です。他方、前者は簡単に解決できるものではなく(テューリングテストなどに感じる違和感を考えてみてください)、後者のなかで棚上げされているところで、哲学の研究対象でしょう。 質問者さんの主張するように、表象に「意義がない」といえるのは、前者の問題を考えているときだろうと思います。反対に、自然科学では、私たちが実際に表象をもっている以上、その哲学的な難点はとりあえず棚上げしつつ、その意義を探っていけます(そして、現在はその準備がわりと整っています)。これは前提することとは異なります。どのような意義があるのか、または意義はないのかということを仮説にするということであり、前提とするわけではありません。 「また表象に対して「意義がない」とか「付随的」というのはあくまで自然科学の立場を尊重するなら、ということです」を言い換えるなら、「自然科学が規範とする物理主義をつきつめると、心の哲学的には「表象」という捉え方そのものが意味をなさなくなってくる」とはいえるかもしれません(ただ、こういえるかもしれないということであって、私はここでこれにたいして何の論理的な裏づけもしていません)。しかし、まさしく現在の自然科学の営みのなかで、自然科学の立場において表象に意味がないということであれば、それは現実の自然科学にそぐわないことです。

rokujuuban
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そうですね、「意義」という言葉がかなり怪しいですね。 それでも今回の一連のご説明、だいたい理解したと思います。 棚上げの部分、回答者さん言うところの「表象の実在にかんする論理的な問題」も、認知科学の趣旨からすれば大きな問題ではなく、研究の障害にはならないことも理解できます。 ただ、実在にかんして論理的な問題をもつ表象が、それでも自然科学に受け入れられる背景には、表象が物理的変化との関係性において、強固な経験的裏づけを持つ、ということがあるのは事実だと思います。 逆に言えば、この関係性について、一切ほころびが無いことが認知科学成立の前提ですよね。 >表象は物理法則から外れたものと考えているわけではない >物理法則を裏切るような表象についての理論は、基本的に支持されません。 つまり、認知科学において、物理法則は表象に対して全責任を持つ(表現はむちゃくちゃですが)ということですよね? そうであれば、理論的には、すべての表象は物理的作用に還元して分析できるということになりますよね。 その関係性が、生物の物理的作用側として細胞単位までなのか、分子、原子まで及ぶのか分かりませんが、いずれにしてもそれは心をシステムとして捉えることができるということですよね?(勿論、理論的には、ですが) そうなれば、本当に心も自然科学の対象になりますね。 物理法則にしたって、突き詰めれば最後の部分は棚上げなんでしょうから。

関連するQ&A

  • 思考も有機体の生化学反応なる物理現象に他ならない

        人間の行うあらゆる精神活動、哲学を含めあらゆる形の思考も有機体の生化学反応なる物理現象に他ならない。 このよーに考えて良いのではないか。    

  • 思考とエネルギー?

    初めまして、質問がこの分野でよいのかわからないのですが、よろしくお願いします。 思考(自我)はどこからくるのでしょうか? 脳内では化学物質が化学反応して脳が活動していると思います、たとえば炭素と酸素が結合して二酸化炭素になりその際熱が発生してその熱は対外に放出され・・・ エネルギー保存の法則からすれば脳が活動する前と後ではエネルギーの総和は変わらないと思います。複雑な化学反応のなかで自我ができるとすれば自我とは何なのですか? 思考(自我)自体にはエネルギーやまして質量はありませんよね?、 そう考えてるうちに自我ってなんだろうと思い質問させていただきました。 思考(自我)はただの複雑な化学物質の化学反応のただの様子なのでしょうか?。 たとえばCPUが1+1を計算したときは電気エネルギーがCPUで熱エネルギーに変わっただけでエネルギーの総和は変わらないと思います。この時の計算結果2には何もエネルギーなどありませんよね。 的外れな質問かもしれませんがよろしくお願いします。

  • 私が幼稚園時代の時からの謎

    ちょっと難しい質問なんですけど答えてくれたらありがたいです。 何故私たちは感情を感じることができるのでしょうか?感情がなぜあるかという事ではないです。 人は感情を顔にあらわにして自然と意思表示するわけですがその時になぜわざわざ感情を感じるのでしょうか?ロボットの中で嫌がらせをすると怒るロボットがいる。そのロボットは怒ったりはするけどけっして怒った感情はありません。そのロボットのように人が嫌がらせを受けたら怒るだけで怒った感情を感じない方が自然だと思います。 人間は原子という物理的なただの物質からできているじゃないですか。(人間はただの部品を集めてできただけ見たいな感じ)原子が複雑にくっついて人間を成して現在生きてる人たちのようにあらゆる行動をする事は理解できますが、感情を感じるというロボットではない点に疑問を抱きます。感情を感じる原子の動きがあってもその原子が動いて今の人間と同じ動きをするだけで感情を感じなくてもいいのに・・・・・・

  • 人間はどこまで自分を操作できていると思いますか?

    こんにちわ。長くなるかもしれませんので興味のある方のみ見てください。 私は今悩みがあります。それは人間は自由意思に基づき自由に行動しているのか?または、環境、遺伝により拘束的に行動しているのか?ということです。 あるTV番組で物理学者がとある質問にこう答えました。 Q「先生は霊は存在すると思いますか?」 A「私は人間の思考は頭の中の化学反応だと思っています。」 これを聞いたときに鳥肌が立ちました。(大げさですが…) 人の思考が物理現象だとするならばつまり人間の言動も物理現象になるということになります。そこには人間自身の自由意思はなく、外部からの刺激に対して反応しているにすぎない人間の真の姿があるのではないかと。  多分この考えは物理学者特有の唯物論だと思いますが、私はこれにより説明できることがあるので支持できる考え方だと感じました。  これが事実だとしたら努力するものと怠けるのとの違いは努力をするきっかけがあったかなかったかの違いになります。ようは環境によりできる人間とできない人間が出来上がってしまうということになります。    すべての人の言動、また私がこうしてキーボードを打つことさえも必然なのかもしれません。物理現象にランダムが存在しないのであれば。  かなりおかしなは文章になりましたがみなさんはどう思われますか? 誹謗中傷結構です。いろんな方の考え方が知りたいのでどんな回答でもかまいません。今はひとつでも多くの意見がききたいです。よろしくお願いします。

  • 心はどこにある?

    思考はどこにある?と聞くと、みなさんは頭を指しますが、 心はどこにある?と聞くと、ほとんどの人が胸を指します。 科学的には、人間の感情というのは、思考と同じく、脳内で 行われています。ですから、身体の情動の活動も、思考と同じく 脳内で行われているはずです。 でも、なぜか、心は胸にあるように、言います。なぜでしょうか? また失恋すると、頭ではなく胸が痛むのはなぜでしょうか?

  • 男の「マイナス思考」はそんなに恋愛に不向きなのでしょうか?

    このサイトで見かける意見で「マイナス思考な男には魅力を感じない!」という意見を嫌ってほど目にするので、自称極度のマイナス思考人間としては生きた心地がしないものですが、 実際の所、恋人がいる人というのはそんなに「ポジティブ思考」なのかなーと思ってしまうのですよ。 実際、マイナス思考の人が100%ポジティブ思考になることって無理だと思うんですよ。 例えば、ポジティブ思考の人は物事に対して「何とかなるさー(あっけらかん)」とした考えを持つものだと思うんですが、 マイナス思考な人間は物事の結末から考える、起こり得る最悪の事態を想定しながらそれを回避するべく動く(まあ、これは私の場合なのですが・・・) 根本的に考え方が違うから本質的にポジティブ、前向き人間には自分はなれないんだなーと悟っており、まあこれは仕方ないかなと思っています。 前向き、ポジティブ人間が立ち塞がる壁に対して「こんなの俺が何とかしてやるぜー!」とキラキラした瞳で少年マンガのヒーローの如く立ち向かうのに対して、 マイナス人間はボロボロになりながら絶望感スレスレで一つずつ壁を壊して前のめりに倒れて消耗しながら前に進む、 前向き人間のキラキラしたヒーローの瞳と対照的に、不安を感じながらも前に進むしかない兵隊の迷いの瞳ですよ(上手い例えじゃないですし、そんな格好よくもないですがね) 器用に生きれない人生だし、不器用ながらにすり減らしながらも生きるしかないなーと自分では悟っているので、まあ恋人が出来ないことは悟っているのですが、 そんなに「男はポジティブ!男は前向き!男はどんな困難にも立ち向かうべき!」みたいなものを悩んでいる人に押し付けるのも残酷な話だと思わずにはいられない感情もあります。 実際、今のご時勢で「本当の前向き人間」がどれくらいいるのかも疑問ですが・・・ 一体、何を持って男性の魅力=前向きと提唱されるのかをマイナス思考人間に教えて下さい。

  • 脳に関する観察

    脳を観察すると傾向が見いだされます。 ・手抜き 過去を単純な物語と化し、ひとつの結果にひとつの原因をあてはめ、その結果、現在の思考と行動も単純化しょうとする。 ・自動化 怒りや欲望といった脳内で反応の連鎖が起きやすい感情を好み、意思の消費を避けようとする。 この他に何かないでしょうか?

  • 輪廻転生は科学的に考えて自然だと思うのですが。。。

    更に突き詰めると、過去に転生するのも自然だとおもうのです。 意識が脳内の化学反応や電気信号の集合であるとしたら、なぜそのロボットみたいな生命機械に私が宿っているのかが非常に不自然です。 私が制御できる肉体は、日本のある地域住所に住む私だけで、他の人の肉体は制御できません。ということは、他人とは魂が入っていないロボットかもしれないのです。こう考えると不自然です。つまり、私は過去、未来を問わず、すべての人間、ひいてはすべての生命の人生を順に体験しているのではないかと考えてしまいます。

  • 咄嗟の判断力を身に付けたい

    アルバイトで急にお客さんから急かされた注文を受けた際、途中で話を振られて答えなければならない時に、どうしても幼稚な行動・反応しかとれなくなってしまいます。 後々考えれば「もっとこうすれば」と思いつくのですが、咄嗟だと焦ってしまい思考が廻りません。 どのように心がければ冷静な対応がとれるでしょうか?

  • 最近、どうにもなにもかもが楽しくありません。

    最近、どうにもなにもかもが楽しくありません。 いわゆる娯楽を見ても、スポーツをしても、文学を読んでも音楽を聴いても、人と接していても楽しくありません。 ほんとについ最近、特にきっかけもなくそういう感情に満たされました。 趣味といえるほどのものは読書ぐらいなのですが、読書という作業がとてつもなく虚しくなりました。 本というのは著者の、いってしまえば独り言のようなものです。 著者自身、なにか溢れる思いがあって、書いているのでしょう。読んだ側としても、心動かされるものはあります。 ただ、それを媒介するのは文字です。ただの文字で、記号の塊です。 本を読んで感動するというのは、感動するように作られた文字の連なりに反応しているだけのようが気がします。 会話もそうです。 気のおけない仲と呼べるような間柄であっても、様々なことに自動的に反応しているだけな気がします。 親しい人の家族が亡くなれば、悲しいです。表面上のものではなく、本当に悲しいです。 ですが、そのことに泣いている自分を考えると、滑稽に思えてきてしまえます。 人が死んだから反射的に泣いているだけだろ。というような感情がどこかに沸いてきます。 自分は、人間は、ロボットのようなものじゃないかと思います。 そうじゃない!と強く反対したい部分もあります。 今、私の文字を読んでくれている人も、きちんと感情を持ち、一人の人間として思考している存在だということに疑いはありません。 でも、やっぱり会話する時には反射が多分に混じっていることでしょう。 「こう言われたらこう返せばいい」「この状況ならこの感情を出せばいい」 歳を重ねれば重ねるほど、こういう傾向が強くなってきてる気がします。 昔は、もっと素直に物事が楽しめました。自分として、会話をしていました。 今は、自分を含めた世の中全体(おおげさかもしれません)が、稚拙な人形劇のように思えます。 似たような感情を抱いている(いた)方、はたまた私の思考そのものがくだらないと思う方、 どうすれば私の認識を変えられると思いますか?