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思考や判断について

transactionの回答

回答No.17

ANo.6, 9, 11, 14です。 視点に偏りがあるのでは。そのせいで認知科学の成果を正当に評価できていないように思えてしまいます。 > この場合の、抱き合わせとは、「両者が不整合な動きをすることは絶対にない」と同時に、「両者が干渉しあうことも絶対にない」ということを意味すると思います。 後者には賛同しかねます。表象のあるかぎりにおいて、表象とそれを起こすメカニズムとはつねに干渉しあっていると考えられます。 > 両者が干渉しあわないとすると、両者が並存する機能面での必然性は無く、両者の並存は経験的事実以上のものではなくなると思います。 おそらく意識の生物学や認知科学にかかわる人たちは、機能面での必然性があるからこそ、両者は抱きあわせになっていると考えているはずです。 > 今回の質問で私が確認したかったのは、現状の生物学の見解として、心(表象)が身体に対して全く不干渉であるという点です。 > つまり、人の主体的(だと思っている)意思や感情、痛みといった表象が、実際の人間の行動面では(表象そのものとしては)全く意義がないということです。 これはまったく現在の科学(とくに認知科学)とは逆行する考え方です。認知科学が興隆するにつれて、意識や感情なども、ワーキングメモリやメタ表象などの観点から、実証的にとりくまれているようです(私自身はそれほど多くを知りませんが)。 おそらく、質問者さんは、このような論理をもっているのではないでしょうか。 (1) メカニズムと表象とは、抱きあわせで動いている。 (2) 物理的な言葉だけで、メカニズムは完全に説明できる(「不干渉」の実質的な意味はこれではないでしょうか)。 (3) 表象のほうはそれに付随している現象である。 (4) 表象に意義はない。 しかし、意識にかかわる仕事をしている人らはこう考えているのではないでしょうか。 (1) メカニズムと表象とは、抱きあわせで動いている。 (2) 物理的な言葉だけで、メカニズムは完全に説明できる。 (3) 表象のほうはそれに付随している現象である。 (4) では、そのメカニズムにあわせて表象はどのように動いているのか。それ自体、機能として意味はあるのか。 メカニズムによって、どのように生物が動いているのかを知ることができます。しかし、なぜそうなっているのかは、表象を機能として解釈していくほかありません。それは、たとえば極端な例では、進化的な適応に証拠を与えます。解釈というと抽象的ですが、実際は認知実験(ないし行動実験)として証拠が積み重ねられます。この認知実験が表象の説明として成功することで、表象がメカニズムに付随する意味を明らかにできる。つまり、「表象がメカニズムに付随しているにすぎない」という表現から「すぎない」という言葉をとることができる。言い換えると、なぜそうなっているのか、表象を機能として明らかにできれば、表象が身体にたいして不干渉であるとか、副次的なものにすぎないとはいえなくなります。(もちろん、だからといって、メカニズムの物理的な側面の説明が不完全であったというわけではないことは、わかると思います。それは「どのように」というメカニズムの問題として、完璧であるはずなので。) このように進む科学(認知科学)にたいして、質問者さんの論理は、表象の意義のなさを主張するには弱すぎるように思います。ただ、質問者さんが、感情や知覚などを説明の言葉として不要であると考えるなら、それは消去主義(eliminativism)と呼ばれる立場です。以前紹介した信原の編集したアンソロジーのI巻に概説があります。しかし、上の私の回答はそれを押さえたものではありません(あまり消去主義を押さえる気がないもので、読んでいません……)。別の本でちょっと消去主義について読みましたが、突きつめればけっこうおもしろいかもしれないとは思えたので、質問者さんならもっとおもしろいと思っていただけるかもしれません。

rokujuuban
質問者

お礼

何度もすみません。 私の認知科学に対する理解不足は当然あると思いますが、認知科学の成果を否定するものでは全くないつもりです。 表象と物理的変化の「両者が不整合な動きをすることは絶対にない」という前提さえあれば、表象面から現象を解き明かす研究は、何の問題もなく成立すると思います。 むしろ方法論的には大いに有効であるとも思います。 しかし自然科学の立場に立てば、「物理法則のみをメカニズムの原理として認める」ということと「物理的に存在しないに等しい表象に意義を認める」ということは、明確にダブルスタンダードだと思います。 認知科学っていうのは、自然科学と人文科学の融合ですよね。 私より回答者さんの方がお詳しいと思いますが、自然科学と人文科学は由って来るところが違いますよね。 その自然科学と人文科学の融合は、(成果はともかく)学問の本質的な部分においては、妥協点を内包しているように思えます。 つまり認知科学は、表象と物理的変化を等値概念として包括することで、両者の関係性への考察をひとまず棚上げすることで成り立っているのではないでしょうか? それゆえ、認知科学において表象と物理的変化は同義(一体)であり、「表象に意義がある」ということが命題化しているのではないでしょうか? ただ、くれぐれも申しあげますが、それがおかしいとか、間違っていると言っているのではありません。 また表象に対して「意義がない」とか「付随的」というのはあくまで自然科学の立場を尊重するなら、ということです。 本当に表象に意義がないのか?実際に表象と物理的変化のどちらが「主」でどちらが「従」なのか、については私は持論を持ちません。 そしてどちらかといえば私の関心の比重は表象の方にあります。

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