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小説の神様って???

asterの回答

  • aster
  • ベストアンサー率70% (374/533)
回答No.1

  志賀の文章は、一見非常に地味です。三島のような華麗な色彩美文でもなければ、谷崎のように情感のある美文でもありません。 また書かれている内容が、地味だとも言え、志賀が捉えた、感受性における人生の見え方のようなものが、作者の主観的な視角から淡々と綴られているだけです。 まず、意外性とか話の面白さなどの外面的な魅力からいうと、あまり魅力がないのですし、作者の独り言のような話も、興味がないと、まったく読む気が起こりません。何か、どうでもよいようなことを、面白みのない簡単な文章で、だらだら綴っているように見えるのです。 しかし、三島は、「文章読本」のなかで、志賀の文体を、泉鏡花と対比させ、コンデンスド・ミルクか、固体になったスープのようなものだと述べました。非常に凝縮されているので、書かれている内容を読み取るには、何倍、何十倍にも薄めてみないと、分からないのだとしました。 これはどういうことかというと、日本語の特性に奇蹟的に適合させて、日本人、特にある年齢や心境の日本人にとって、非常に意味深い内容が、簡潔な文章のなかに、深い内包を持って表現されているという意味なのだと思います。 従って、志賀は、或る年齢か、或る心境にならないと、その言っていることが理解できない作家だとも言えます。そして思想というか、その感性が非常に日本人的で、かつ、日本語の特性に通暁していて、これを表現する日本語の文章はこれしかない、というぐらいに見事な日本語の文章が記されているのです。 日本語の特性に従って、すらすら読みやすい分かり易い文章になっているというのではなく、一見、読みやすいのですが、実は立ち止まって、何を言っているかをよく考え味わわなければならない文章だということです。 きりつめられた表現の文章であるため、しかも、過不足なく切り詰めているため、不自然になることもないのですが、普通の作家なら、五倍十倍の文章で表現するところを、志賀は、その五分の一、十分の一の文章で書くので、ごく短い短編でも、実は長編の内容があるということになって、読めば読むほど、その意味の広がりや深さが分かってくるということです。 しかし、スタイルからして、外見的に華やかなことも、面白いこともないので、何を書いているのか、独り言はやめてほしい、と言いたくなるのですが、その世界が分かってくると、表現の技法も、日本語の適切さも、簡潔に書くところも、到底、人間技とは思えない、一種の奇跡かアクロバットのようなことになっているので、「小説の上様」ということになるのです。 わたしは、志賀直哉は、好きでありませんし、その主題も理解できません。あるいは、或る世代以上でないと、もはや志賀の神様的小説の技巧というのは、実感できないのかも知れません。 志賀を「小説の神様」と呼んだのは、おそらく自分でも小説を書いている作家たちだったと思います。わたしは、小説を書く技法を幾らか知っていますが、かなり見事な文章力というか、作家としての力量を持った先生が、志賀を、小説の神様というような高い評価を与えていたことは、その先生の作品の文章を見るとよく分かるのです。 非常に見事な的確な文体で、これを更に洗練させて行くとどうなるのか、と考えると、志賀のような文体が到達点として考えられるのです。 志賀文学の良さは、すでに書いたように、或る時代の日本の文化・感性を代表していたということではないかと思います。それと、日本語を操る神業的技巧でしょう。三島のように、華麗な方向へ、文体や内容を展開させて行くことは、限りがないとも言えます。しかし、逆の簡潔な方向へと、日本語の可能性を最大限に駆使して、意味や表現を圧縮することは、限界があるのだと思います。 志賀直哉の文学は、この「限界」に達していると思えるので、凄いということなのだと思いますが、もはや現代では、志賀の小説は、一定以上の年代の人でないと、内容的に共鳴できないのではないかとも思います。鴎外や漱石、谷崎は、いまでも読んで、共鳴できる部分がたくさんあります。しかし、志賀の文学的テーマ・感性は、レンジが狭かったのではないかと思えます。 大して小説を読んでいないにも関わらず勝手なことを書きました。まったく見当違いのことかも知れません。  

noname#2065
質問者

お礼

貴重なご意見をいただきありがとうございました。 asterさん自身が志賀は好きではないとおっしゃっておられるので、ちょっとニヤッとしてしまいました(笑) わたしは作品とそれを著した人間を切り離して読むということができないのです。 獅子文六が、ある作家たちの会合で、佐藤春夫が同席していた幸田露伴に聞こえよがしに年寄り扱いしたことに 腹が立ったと書いていましたが、 先生先生と言われてふんぞり返っているような人物は、どんなに技法的に卓越したものを持っていても嫌悪感が先立ってしまいます。 啄木や、太宰、宮沢賢治、三島、芥川、荷風、 更には漱石などとも比較して、志賀には「苦悶・苦悩」という影が見えないのです。 ご指摘の点、同感です。 「涙とともにパンを食べた事の無い者に真実は判らない」 というゲーテのことばのように、 ハートが感じられないんです。 長文のメッセージ、改めてお礼申し上げます。

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