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『こころ』の「上 先生と私」の「一」

 日本語を勉強中の中国人です。夏目漱石の『こころ』を読んでいます。「上 先生と私」の「一」の中で理解できないところ(【 】で表記)があるので、教えていただけないでしょうか。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/773_14560.html 1.「友達は中国のある資産家の息子(むすこ)で金に不自由のない男であったけれども、【学校が学校なのと年が年なので】、生活の程度は私と【そう】変りもしなかった。」 (1)「学校が学校なのと年が年なので」の「学校が学校」と「年が年」はそれぞれどういう意味でしょうか。 (2)「そう」は何を指しますか。なぜ「こう」ではなく、「そう」を使うのでしょうか。 2.「【古い燻(くす)ぶり返った藁葺(わらぶき)の間】(あいだ)を通り抜けて磯(いそ)へ下りると、この辺(へん)にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。」 (1)「古い燻ぶり返った藁葺の間」はどのように区切るのでしょうか。特に、「返る」がよく理解できません。「古い燻ぶり返った藁葺の間」とはどんな景色でしょうか。 (2)上の文は「古い燻ぶり返った藁葺の間→磯→砂浜」のようなルートでしょうか。私は「古い燻ぶり返った藁葺の間」と「磯」の位置がよくわかりません。 3.「彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外(ほか)に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹(しお)はゆい身体(からだ)を清めたり、ここへ帽子や傘(かさ)を預けたりするのである。」 (1)「鹹はゆい」はどういう意味でしょうか。「鹹」の後ろの「は」は「ha」と読みますか。それとも「wa」と読むのでしょうか。  質問が多すぎて申し訳ありません。質問文に不自然な文がありましたら、ご指摘いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hakobulu
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回答No.4

1、 (1)「学校が学校なのと年が年なので」は、 「貰おうと思えばいくらでも親から貰えるので金に困るという境遇の男ではなかったが、私と同じで贅沢な生活をしていたわけではなかった理由」を述べている箇所ですね。 a.「学校が学校」 きらびやかな格好をしたり、高いものを食べるなど、贅沢な生活態度がもてはやされるような校風ではなかった。 お金をたくさん使って何かをすることが美徳だ、という校風ではなかったということでしょう。 たとえば良家の子女ばかりが集まって贅を競うような校風になっている学校もありますが、そういう学校ではなかったわけです。 直訳すると「学校の内容が、贅沢を旨としないような学校」といったところでしょう。 b.「年が年」 若いわけですからお金をかけた遊びをたくさん知っているわけではなく、また知っていたとしても若すぎて不釣合いな遊びが多いという認識が前提になっています。 無論、やろうと思えば何でもできるわけですが、常識的に考えて当時の私と友人ぐらいの若さであれば遊ぼうと思っても特に莫大なお金を必要とすることはなかった、ということを指しています。 こちらも直訳すると「年の内容が、お金がかかるような年ではない」といった感じになるでしょう。 c.どちらも、ある理由として「○」を強調したい時に、 「○が○なので」「○が○だから」などのように使われます。 (ex1) 「年が年なんだから、あまり無理をしないように」などと親の体を気遣う表現も可能です。 この場合は、ご質問文とは違って「若くはないのだから」という意味で年を強調していることになります。 他人への敬語表現としては、「お年がお年ですから、あまり無理をなさらないでください。」などとなりますが、 (お)年を強調している、つまり若くは無いことを強調することになりますから、相手やタイミングによっては不快に感じる方もおられるでしょう。 直接本人に向かって言うのは避けたほうが良いかもしれません。 (ex2) 彼女の欲しがっているものは知っているが、物が物なので気軽に買ってやるわけにはいかない。 (物=1千万円ぐらいするダイヤの指輪) (ex3) 君はいつも旅行にペットの犬を連れて行くらしいね。私もできればそうしたいが、ペットがペットだから無理なんだ。 (ペット=虎) (2)「そう」=「そんなに」「それほど」です。 必ず否定語が続きます。 「そう変わりもしなかった」は、「そんなに変わりもしなかった」で、 『特別大きな違いはなかった』ということになります。 もし彼が贅沢な生活に慣れているような男であれば高い宿に泊まっていただろうから、彼が故郷に帰った後は他の安い宿を探さなければならなかっただろう。 しかし、実際は生活程度に私と普段から大きな違いがなかったので、彼の泊まっていた宿も私が選びそうな水準の宿で、引き続き同じ宿に泊まることが可能だった、という内容に続いていくわけです。 2、 (1) a.「藁葺」は「藁葺屋根の家」の略です。 b.連用形+「返る」=すっかり(全く)~する、という意味になります。 (ex)「彼の自分勝手な言動にはみんな呆れ返っている」 c.「燻る」は、火が良く燃えないで煙る状態です。 その際に出る煤(スス)で周囲のものは黒っぽくなります。 ここでは屋根ですから、煤だけではなく(屋根を葺いてある)藁が日にも焼けて黒っぽく変色していることを指しているのでしょう。 d.「古い燻ぶり返った藁葺の間」は、 『古くて、すっかり燻られたように黒っぽくなっている屋根を持つ家の間』ということになります。 (2)磯>砂浜でしょうね。 ここでは「磯=浜辺」ということで、住宅地と区別するために使われています。 浜辺にあるのが砂浜です。 砂浜は砂のあることに重点が置かれており、住宅地でないことを示すための表現としては不適当かもしれません。 磯は砂場や岩場と打ち寄せる波を同等に連想しますが、砂浜は砂に掛かる比重が大きいと思います。 砂浜に寝転ぶとは言いますが、磯に寝転ぶとはあまり言いません。 3、 「鹹は(ha)ゆい」は、「塩はゆい(塩映い)」なのでしょう。 顔を合わせるのが気恥ずかしい、きまりが悪い、という意味の「面映い」という言葉があります。 これは、顔(面)を合わせたくもあり合わせたくもない、といった曖昧さから転じた意味ではないかと思います。 「塩はゆい」も、塩が皮膚についているような、いないような、はっきりとは見えないがベタベタして何か気持ちが悪い、というような意味でしょう。 泳いで海から上がった後に、よくこういう状態になります。 4、ご質問文の添削 (1){私は「古い燻ぶり返った藁葺の間」と「磯」の位置がよくわかりません} 複数の対象を挙げておられますから、「位置関係」とするほうが納まりは良いでしょう。 (2){質問文に不自然な文がありましたら、ご指摘いただければ幸いです} 「質問【文】」「不自然な【文】」が近接しすぎです。 以前お書きになっていたように、『不自然な表現』あるいは『不自然な箇所』のほうが適切でしょう。 5、「笠の郎女」の件では大変ご迷惑をおかけしました。 嘘を教えてしまい本当に申し訳ありません。 「笠の女郎」と間違えるなんてスケベ根性丸出し(←女性が使うのには不適切な表現です)、といったところですね。 質問まで立てさせてしまいお詫びします。 お恥ずかしい次第です。(--;;;;;)  

awayuki_ch
質問者

お礼

 hakobuluさん、いつもお世話になります。大変詳しいご説明に心より感謝しております。すっきりいたしました。助かりました。  「学校が学校」と「年が年」の意味はやっと理解できました。いい学生たちですね。『こころ』の学生たちとはまったく違う生活を送っていた、魯迅が書かれた『藤野先生』の文頭の「清国留学生」の醜態を思い出しました。『藤野先生』の参考ページを貼っておきます。第一、ニ段落は皮肉があふれているので面白いです。ちなみに、「ペット=狼」の夢をかつて見たことがありますが、「ペット=虎」の夢を見ておられる方もいらっしゃるのですね。 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/novel/rozin.html  「藁葺」は「藁葺屋根の家」の略だったのですね。屋根で歩くのかと疑問に感じました(><)。藁が日にも焼けて黒っぽく変色しているのは知りませんでした。でも、なんとなく想像できました。本当に知らない美しい風景が多いです。楽しみにしております。  浜辺にと砂浜の違いもよくわかりました。「塩はゆい(塩映い)」の「はゆい」は美しい漢字ですね。その漢字を拝見して意味も理解しやすくなりました。  また、質問文の添削に感謝いたします。これから気をつけるようにします。本当にありがとうございました。  「笠の郎女」の事件なのですが、やはり自首しにくる人がいらっしゃっるのですね。でも、こんなことで人を牢屋に入れるなら、おそらく全世界の男性が収容できる牢屋を建てないと……。ということで、今回はハンカチだけお渡して汗をお拭きになってから、気をつけてお帰りください♪

その他の回答 (5)

  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.6

そうするとここに書いてあることはウソですか。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=2092602 菊池寛のことは表現が不味かったです。入学に失敗と いうべきでした。 それから討議という意味をご存じないようですが、 討議というのは、相手を非難し応酬することではない ですよ。そんな、まちがいの指摘もできないようで、 ガセネタの山作ってどうするんですか。 真実と形式とどっちが大事かおのずと明らかでしょ。 ま、独り言なら許されるんでしょうから。

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご意見有難う御座いました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.5

討議をする場ではありませんが、間違った情報は正すべきかと。 菊池寛は、旧制高校を退学になっており、受験に失敗したわけではありません http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%AF%9B また、旧制高校の卒業生数と、帝国大学の定数とは、ほぼ同数であり、旧制高校に入れば、えり好みしなければ進学できた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%88%B6%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1 この背景があったので、受験勉強をがつがつやる必要が無く、一般的な教養を身につけようという、独特の旧制高校文化が生まれたわけです。 Googleで 夏休み 宿題 漱石 の検索結果 約 35,200件 この検索結果から、推測されるのは、夏休みに漱石の読書感想文を書くように求められている人間がいかに多いかという事で、夏になると売上が上がるというのも理解できる。

awayuki_ch
質問者

お礼

 ご意見有難う御座いました。

  • ANASTASIAK
  • ベストアンサー率19% (658/3306)
回答No.3

誰のということではなくコメントします。 >(漱石の「こころ」は)現代の日本人でも平均的な人は理解できないかも。 そんなことはありません。 岩波文庫(岩波書店)収録の夏目漱石作品では「こころ」は第2位の売上。 また高校現代文の教科書にも収録されている場合が多く、日本人には馴染み深い作品になっている。毎年夏になると売り上げが伸びる。これは、この作品が何度でも読みたいものだからと思われる真に共感を呼んでいる証拠。 >当時の高校を卒業した者はほぼ自動的に帝国大学に進みます。 そんなことはありません。 有名なところでは菊池寛は入試に失敗ています。エレベーター大学では ありません。 いい加減なことを書いてまちがった知識でミスリードするのは気をつけてください。

awayuki_ch
質問者

お礼

 貴重な情報をありがとうございました。参考にさせていただきます。

  • k99
  • ベストアンサー率47% (491/1025)
回答No.2

1(1)。  「学校」は東京帝国大学か旧制の第一高等学校になります(これはどちらであると書いてない上に、作中での時間経過に諸説あることから、双方を挙げておきます。両方とも作者の漱石が卒業した学校でもあります)。当時の高校を卒業した者はほぼ自動的に帝国大学に進みます。  で、特に高等学校は、それなりに裕福な子弟が多かったのも事実ですが、同時に「己の外見を飾ること以外の何事かに、より熱心である」 という”蛮カラ思想”が根強い所でした(「こころ」の中にも、良い服を田舎の実家から送られた学生がワザとドブに投げ棄てるシーンがあります=下十七)。故に仕送りなどとは関係がなく、質素な生活をしていたようです。  よって、この場合、「学校が学校」というのは、このような風土のある学校であり、若く贅沢をする年齢でなかったことから、「私」と同じような質素な生活環境だった、という意味であると思います。  直前に逆接の「けれども」と入っているので、後段は「金に不自由のない」とは逆の意味が来ています。  また、冒頭で「私」が「若々しい書生」と自己を規定していることからもそれが覗えます(書生の1つの定型が蛮カラです)  附言するならば、この場合の中国とは日本の山陰・山陽地方の事です。 3(1)haです。 類似の言葉で「面はゆい」(omohayui きまりが悪い。てれくさい)という語があります。 辞書に依れば、単純に「しょっぱい」という意味しかないようですが、この語との連想から、軽い不快感をも表していると思います。

awayuki_ch
質問者

お礼

 今朝早くご丁寧に教えていただき誠にありがとうございました。1(1)の背景のご紹介は参考になりました。私の知らないことはいっぱいです。ただ、「学校が学校」、「年が年」のような構造自身がよくわからないので、意味も理解できていないと思います。文中の「中国」は国の中国ではないのですね。勘違いしてしまいました。大変勉強になりました。3はわかりました。本当にありがとうございました。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

1-(1) 前提として、当時の学校は金持ちの行く学校と貧乏人の行く学校という区別がハッキリしていたということがあります。 貧乏人は、勉強ができても、授業料を取らずに、逆に給金が出るような、師範学校や士官学校に行ったという背景があります。 一端、師範学校に行って、小学校の教員をしてから帝国大学に入るという人もいました。 この場合の学校は確か、旧制高校か帝国大学だっと記憶しております。 まとめると、不自由なく学校に入れる程度の生活程度であるという意味です。 1-(2) 私と変わりはなかった というのを、ぼやかす表現として そう を使っています。 私はあなたが好きではない 私はあなたがそう好きではない 前者では、嫌いというのが、明確ですが、後者では、嫌いではないが好きでもないとなります。 私と変わりはなかった 私とそう変わりはなかった 前者では 私と全く一緒というニュアンスになりますが、後者では厳密には一緒じゃないけど、まったく違うというわけではない、となります。 2-(1) 返る →(動詞の連用形の下に付いて)すっかりその状態になる。全く…する。 「しょげ―・る」「あきれ―・る」「静まり―・る」「煮えくり―・る」という意味で、 すっかり くすぶっている という意味。 2-(2) これは、湘南地区の海岸に行ってみないと体感できません。 藁葺きは、この場合伝統的な日本の風景を示しており、その藁葺きを抜けたら、都会的(=西洋的)な男女がいるという対比をしております。 ※ このころ、湘南地区には、東京で成功した人間の別荘地などが作られはじめていて、海水浴が新規な風俗や健康法として紹介された時期になります。 3-(1) 「鹹はゆい」 海水浴したので、体に海水の跡がついて、べったりするという感じであります。 ※ 夏目漱石は、日本人の文章表記を決定したと言っていいほどの偉大な小説家ですが、博識な漢学の知識と英語の知識を融合させて、かなり挑戦的な文章も書いています。なので、ちょっとやり過ぎのところもあります。なので、現代の日本人でも平均的な人は理解できないかも。

awayuki_ch
質問者

お礼

 いつもお世話になっております。昨夜夜遅くにもかかわらず、ご親切に教えていただき誠にありがとうございました。1(1)はちょっと難しいような気がします。ほかに説明していただいた内容は理解できました。大変参考になりました。恥ずかしいですが、日本の国民作家と言われる夏目漱石の作品は短い段落しか拝読したことがありません。最近、夏目漱石に興味を持って読みたくなりました。『こころ』は初めて拝読する夏目漱石の作品です。この作品の名前が好きという原因もありますし。これからもよろしくお願いいたします。心より厚くお礼申し上げます。

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