• 締切済み

宗教家の方と無神論者の方へ

 すごくぼやけた表現で申し訳ないのですが、私がある締め切り済みの質問を覗かせてもらっていたら、 とある宗教をなさっている方の、ものずごい一方的で、独断的な投稿がありました。その回答の解釈は 「神様を信じていればそれで救われる」ということを前提に、論理的にどう考えてもおかしいことばか りを長々とのたまっているというものでした。  私は、宗教を否定するわけではありません。「神様仏様」という心のより所があるとほっとしますし、 宗教の種類を問わず、どの宗教においてもすばらしいことが教えの中に盛り込まれていると思います。  そこで、宗教家さんと(信仰する宗教がおありの方)できれば無神論者さんに質問いたします。あな たがなぜ宗教を信じるか、また、何故信じないのか、その理由を教えてください。

みんなの回答

  • noribou11
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回答No.21

再度の登場です。あとで読み返して長くなりすぎたかなっと思いましたが おつき合いいただけると幸いです。 >そこに犯罪じゃなければいいという甘えが生まれる これは意味が違います。あくまでも「そこに甘えがあれば」という仮定文であって 無信仰や自己責任が甘えを生むという断定文ではありませんので再考を。 ただ、「個人による」という考えはあまり好きではありません。 我々は集団形成を生活環に取り入れています。群れで生活する以上、個は抑制をうけます。 私は個人を強調する前に他人に対する影響を考えなければいけないと思います。 もちろん何事も我慢しろということではありません。私も研究者のはしくれです。 自分の意見は強調します。しかし、人格否定や排除に議論が向いてはいけません。 失礼かと思いますが、その点ではkoutatoreikunさんも誉められるものではありません。 そして、この意見には対して「これが俺の考え方なんだからいいじゃんか」と思えば 自己の研鑽にはつながらないと思います。 >何で「自分」と答えてむなしくなってしまうのですか?  そんなに 自分は空虚な存在なのですか? 繰り返しますが我々は複雑な社会を形成している生物です。したがって、 常に他人を理解し、他人に理解される精神を必要としています。そこで重要なのが 「常識」というものですね。英語の表現が的確で「Common sencs」といいます。 直訳すると「共通の感性」ですね。「自分」という表現はあくまでも己にのみ理解 できる感性です。差別主義者であろうが博愛主義者であろうが、その人の考えが 「自分」となります。長年の知り合いならまだしもそこそこの関係では「自分」は 共通の感性になりえません。一神教であれ多くの信仰家には宗教的道徳観を 持っていることが宗派に関係なく相手を理解できる材料になるんです。 >私は若輩者であるがゆえ、宗教上の方々と比べると、明らかに人間ができていません。  いや、誰と比べても未熟でしょう。しかし、完成されてはいませんが、  逆に変化の可能性を秘めています。私はその変化の可能性が完成された何かを  上回る可能性を秘めていることだと思っています。「宗教」ははっきりと形のあるものですが、  別にこれから作っていくでもいいと思いますね。普遍的な根本にすがる気はありませんから。 koutatoreikunさんの抱く宗教イメージというのがどうも妄信家を中心とする 自己を投げ出して信心するもののように感じます。すがるというみみっちい根性では 何の進歩も期待できないでしょう。本来、宗教とは自己を研鑽するものなのです。 そして過去の偉人の知見をも自分のものとして新たな一歩を形作るものです。 研究にしても同じです。我々は専門書という教典で知識を養い、実験器具という偶像を駆使して 更に上のものを追求しているのです。教科書に書いてあることを覚えることが 生物の全てを知ることなどと考えていては進歩はありえません。逆に言えば 実験器具が揃っていない時代の成果で教科書的なものも新しい知見によって 消え去るものもあります。 宗教とははっきりと形あるものではありませんし制限されるものでもありません。 禅宗とて「仏の真理に近付く」ことを目標にしていますが、そもそも、仏の定義が 想像の及ばない存在であるため永遠に答えなどでないものなんですよ。 じゃあ、何を求めるのか?それも自己の研鑽なのです。 そういう意味で前回は一休禅師の言葉を引用しました。 neil 2112さんの意見からもわかるように宗教とはただ単に崇拝するものでは ありません。過去の多くの偉人による哲学書であり、道徳書であります。 「仏法の中身は別に知りたくないので、長々と説明するのは不要です」 これでは勉強嫌いの小中学生と同じ発想です。 私が子供のころ父親の帰りが遅いと神棚へ手を合わせ無事を願う母親の姿がありました。 多くの人にとって神は心のよりどころになっているのです。そういう意味で無神論者は 信用できません。物理的の神がいるのか云々ではなく精神的基盤がどこにあるのかが 不明だからです。私はkawakawaさんのおっしゃる 「正月には初詣に行き,彼岸には墓参りに行き,クリスマスにはケーキを食べ,神前で結婚式をし, 神社でお宮参りをし,お守りを持ち‥ 私自身は,おそらく大多数の日本人がそうであると思われる, 特定宗教は信じていないが,さりとて完全に無神論者という訳でもないという位置付けであると 言えるでしょう」でもよいと思います。そういう人が落ち着いて見えます。 >odd-artさん。 私は臨済宗妙心寺派の仏徒ですので「法華経」は理解できます。しかしながら、 教義の問題ではなくあなたの折伏には感心できません。知人がどうしたやら Wさんが信心を無視したから頭がおかしくなったなど例え現実であろうとも そういう引用に人に恐怖を与えるものばかりの発言はインチキ宗教の典型的な手法です。 あなたの教義はまともであると思います。しかし、あなたが発言すると 全てがうさんくさく感じられます。 「仏法の中身は別に知りたくないので、長々と説明するのは不要です」 これがあなたの折伏に対する普通の人の回答です。ここで「地獄におちろ」と いってはいけません。それでもその人の幸せを祈ることが慈悲なのです。 そういう意味でキツネであろうと石人形であろと信仰の対象はなんでもよいのです。 何かを媒体にして己の中に存在する精神(神仏)と交流をおこなうことこそ重要なのです。 曼陀羅を表した紙きれでなくてはいけないなど小手先の問題であって真理ではありません。 宗教は学問です。私の専門の生物学で例えてみましょう。中学校レベルの動物細胞は 細胞膜と細胞膜と核しかありません。正確に言えばこれはウソを教えていることになります。 もう少し詳しく見れば細胞膜というものは脂質二重層になっていてその構造はニ本の 脂肪酸とグリセロールとリン酸とコリンで形成されています。一方の脂肪酸には シス型二重結合があり、この膜上に糖脂質があります。糖脂質は脂質二重層の細胞質に 接しない外側の単分子膜にのみ存在し、水素結合によって結合している小さな集合体を 形成し糖は細胞表面に露出しています。これはゴルジ体内腔で脂質分子に糖が付加されるためで、 さらに膜には膜タンパクが存在します。特に膜貫通型タンパクは・・・って理解できます? こんなの中学生に教えたらほとんどの生徒は理科嫌いになるでしょう。 宗教もこれと同じなのです。もちろん、この段階から理解できるものもいるでしょう。 しかしながら多くのものには理解できません。それ故の単純なモデルが必要なのです。 法華経とて登場してくる八大竜王やら羅刹やら夜叉は土着の神様です。そういうものも 一同に会して釈迦の説法を聞こうと集まるのが始りですよね。最終的な真理にたどり つくことが大切なのです。仏像を拝もうがお守りを持とうが最初はいままで 感じることができなかった内なる精神と交流をはかることが大切なのです。 そういうものを排除しないと交流ができないなんて信心が足りないと言えるでしょう。 長くなりました。

  • AX1
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回答No.20

こんにちは。 以前にアドバイスでいれたものです。 odd-artさんにちょっと一言いいたくて、おせっかいですがよろしいでしょうか? 私自身も仏教徒ですが、そのような論理論理論理そして論理では、誰もが聞く耳を持たなくなってしまうと思いますよ。まじで。 せっかくの尊い教えとodd-artさんが思われてる信仰も、そのような理論で押して解らせるような態度では誰もが引くし、聞かなくなってしまう危険があります。 koutatoreikunさんはなぜ信仰されるのか?って聞いてらっしゃるのに、ご自身の教え経典を長々説かれても質問の意図と違うように思います。 私自身もあなたは狂信者?って思ってしまう。 私は信仰していてとても幸せだし、そう思えるようになってとても有り難いなあって思います。 odd-artさんもそう思われますか? そう思われるんだったら、もっと「信仰持って、こう僕は幸せになった」とかの、体験談を聞きたいですよ。 生意気言ってごめんなさい。 でも、同じく信仰してる者からして、すこし視野が狭いかなあ~?と心配してしまいます。 はっきり、怖いっす!(笑) せっかくの尊いみ仏さまの仏法をもっと皆さんにも興味もってもらいたいじゃないッスか??

  • odd-art
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回答No.19

>作り話による引用、他人をさげすんで自分を 高みに置く考え、それは「宗教を信じているか否か」という問題以前のことではないでしょうか。 いや、あなたの場合、足場を作るために「お釈迦様」を利用しているだけですね。  残念な事に、作り話ではなく、事実であります。  嘘だとすれば、釈尊の経文はデタラメで虚偽だとしていることになります。  知っている人は、ちゃんと知っていますよ。  もし謗法を犯せば、死後は無間地獄に堕する」と主張していることには、動かしがたい、決定的な証拠があるのです。それは、いわゆる「臨終の相」であります。  仏法においては、「臨終は、生と死の境、死後への第一歩であるから、臨終の姿は、その人の死後の状態を如実に顕わしている。しかして、謗法を重ね、死後、無間地獄に堕ちた人は、必ず、その臨終および遺体に悪相を現ずるのである」として、次のような状態を「堕地獄の相」として挙げています。  「集まった自分の身内に対しても、険しく猛々しい目つきで睨む。 手で空をつかんで、もがき苦しむ。 筋道の通った正しい思考を失う。 恐怖のあまり、涙を流して泣き叫ぶ。 大小便が垂れ流しとなる。 苦しみのあまり、眼を固く閉じてしまう。 苦しみのあまり、手で顔面を覆って悶絶する。 異常な食欲が出て、狂ったように飲み食らう。 身体や口から腐敗臭が漂い出る。 恐怖のあまり、手足を震わせて、怖れおののく。 鼻筋が曲がって、凄まじい形相となる。 白眼を剥きだしてしまう。 眼が血走って真っ赤に変色する。 顔面を伏せて、苦しみ、うめく。 苦しみのあまり、身体を屈めて悶絶する。」(守護国界主陀羅尼経)  「破れた皮膚から膿が流れ出したり、全身に熱い汗をかいて苦しむ。」  「狂乱して絶命する。」  「眼、あるいは耳、鼻、口、毛孔などから、血を吹き出す。」(法華伝)  「死後、遺体の色がどす黒く変色し、皮膚が収縮して骨がはっきり顕われる。」  「遺体が固く硬直し、ずっしりと重く感じる。」  こうした、仏法で説く堕地獄の相を、現実に引きあててみると、まさしくそのとおりで、謗法の心の強い人ほど、その臨終と遺体の上に悪相を現じております。  これに対し、正しい仏法を信仰した者においては、悪相どころか、かえって、目を疑うほどの善相を示していますが、このような死相の違いこそ、生命が死後にまで継続していることを証明するものではありませんか?  すなわち、死後の生命が存するからこそ、そして謗法者が死後に無間地獄に堕ちているからこそ、謗法者の臨終に堕地獄の相が顕われるのであり、これ、死後の恐るべき大苦悩が、その死相に厳然と顕われたものに他ならぬのであります。  仏法においては、病の起こる原因を、大きく二種に分けている。それは、インドの竜樹の著『大智度論』に、  「病に二種あり。先世の行業報ゆるが故に、種々の病を得。今世に冷熱の風発するが故に、また種々の病を得」 とあるように、過去世に作った業の果報として起こる病気と、今世におけるさまざまな原因によって起こる病気・・の二種である。  しかして、後者は、今世に病因がある故に、比較的、治しやすい(前者に較べて)が、前者は、病因が過去世にあるために弁え難く、また今世まで引きずってくるほど深い業である故に、なかなか治すことができない、とされている。  ここで、「業病」についてだが、業病とは、過去に自分がなした誤った行ない・発言・思考などが、悪因となって生命に刻みつけられ(悪業)、それが現世に果報となって、起きてくる諸病のことである。  そのなかにも、むろん業の軽重によって、やや軽い業病から甚重な業病まで、種々あるが、なかんずく、正しい仏法に背いたが故の業病こそ、もっとも甚重で治し難い病であるといわれる。だが、  「業病最も治し難し。将又業病に軽有り重有り、多少定まらず。就中法華誹謗の業病最第一なり。神農・黄帝・華佗・扁鵲も手を拱き、持水・流水・耆婆・維摩も口を閉づ。但釈尊一仏の妙経の良薬に限って之を治す」 いかに治し難い業病であっても、正しい仏法の信仰によれば、必ず治すことができる、というのである(ましてや、それより軽い業病については、なおのことである)。  それは、我々の生命の奥深くに、過去からの業が蓄積されているのだが、正しい仏法を信仰すれば、そのさらに一重深い最深層に仏界が開顕される。しかして、仏界に具わる浄化作用によって、それより浅い処に蓄積されている悪業を、徐々に消滅させていくことができるので、医学で見離された不治の業病すら治していけるのである。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.18

 宗教とは何か、も弁えられていないようです。  オウム(アレフ)に限らず、邪宗は、いたるところに蔓延っております。宗教家が正しいという証拠も無く、誤まった宗教(邪宗)を信じている可能性もあるでしょう。  仏教は、本来、中道ということになっております。  知らないが故に、正邪も判じれない筈が、判断されておられることこそ、邪宗たるものの影響でしょう。  宗教に限らず、人間にとって敬い、信ずるということは大切なことです。日常生活においても信頼する心がなかったならば、食事もできませんし、乗り物はおろか、道を歩くことも、家に住むことさえできないでしょう。  では反対になんでも無節操に信ずればようかというと、それもいけません。道に迷ったときは道をよく知っている人に尋ねれば、間違いなく目的地に着くことができます。私たちは目的地に正しく導いてくれるものを信用したときには、所期の目的が達成されるわけですし、反対にいつわりのものや目的と違ったものを信じたときには、思い通りにならず、不満や不幸を感ずるのです。  神仏を信ずる心が尊い、だから何宗でもよいというのは、詐欺師の言葉でもそれを信ずることが尊く、ブレーキのこわれた車でも信じて乗ることがよいということと同じです。  私たちの生命は周囲の環境に応じて、さまざまな状態や働きをします。ちょうど透明な水の入ったコップが周囲の物や光によって色が変化するようなものです。「朱に交われば赤くなる」という言葉も、周囲の縁によって感応する私たちの生命の働きを指したものでありましょう。信仰は”信ずること”であり、”礼拝すること”なのですから、単に交わるとか尊敬する状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる結果や報いは、人生に大きな影響を与えることにならます。  人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、その本尊や教えに感応して、次第にその人は濁った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。たとえば「稲荷」と称してキツネを拝んでいると、本尊のキツネの生命に、その人の畜生界の生命が感応して、その人の性格や行動、さらには人相まで似てきます。本来ならば過去と将来を考え、理性をもって生きるはずの人間が、畜生を拝むことによって計画性や道徳心が欠落し、人間失格の人生に変わってゆくのです。もし架空の本尊や架空の教義を信仰すれば、同じように人間も、人生も、生活も実りのない浮き草のようなものになってしまいます。  理論的にも正しく、経典によって、その正しさが証明され、現実に人々を幸福に導く真実の本尊と真実の教えを説き明かす宗教に帰依すべきでありましょう。  デタラメは、もとより私自身が大嫌いな事です。  その為に、正は正、邪は邪と申し上げる次第であります。

koutatoreikun
質問者

お礼

あなたが人のことを「誤っている」とか「濁っている」とか言う権利はありません。 あなたがしていることは、他人を傷つけることで自分を正当化しているに過ぎません。 もう、絶対価値しか信じないodd-artさんからのご投稿は結構です。結局、他人の考えを 踏みにじっているだけではありませんか。作り話による引用、他人をさげすんで自分を 高みに置く考え、それは「宗教を信じているか否か」という問題以前のことではないでしょうか。 いや、あなたの場合、足場を作るために「お釈迦様」を利用しているだけですね。

  • birth1123
  • ベストアンサー率25% (7/27)
回答No.17

#9で回答したbirth1123です。 cse_riさんが挙げている共産主義について、私は思想というよりはむしろ「マルクス(=レーニン)教」という名の宗教として捉えております。そのほうが、物事を考えるのにわかりやすいからです。 世界三大一神教がキリスト教(母体ともいえるユダヤ教も含め)、イスラム教、マルクス教とするならば、これらが関わること自体、人類にとって不幸な歴史となっている点は否めませんね。 十字軍の遠征、大航海時代、ロシア革命、中東戦争、湾岸戦争、今回の同時多発テロと、すべてこれらのいずれかが関わることによって発生したのではないでしょうか? 国内でも、カルト宗教には上記一神教に似た雰囲気を感じます。もちろん、宗教の範囲において活動されることについては一向に差し支えないのですが、宗教活動から逸脱したところにて「事件」を誘発することについては、世界中で迷惑この上ないことなのでやめてもらいたいですね!

koutatoreikun
質問者

お礼

 珍しいご回答ですね。  私は一神教というものを、孔子の論語と同じようなものではないかと思うことがあります。 「孔子先生の教えは絶対だ」という考えがあるからです。

  • cse_ri
  • ベストアンサー率29% (74/253)
回答No.16

数学で「定理」の問題を解いた時のことを思い出してください。 数学では、「定義」というものを定め、それを基点として色々思考し、 様々な「定理」を導き出していきます。 そして基点となる「定義」が異なると、全く異なる結論がでてきます。 例えば、ユークリッド幾何学では、並行する二本の直線はどこまで伸ばして いっても決して交わることはありませんが、非ユークリッド幾何学では 並行する二本の直線がどこかで交わることもあるのです。 このように、基点となる「定義」が異なると、全く異なる結論が導き出され ます。 「思想」の分野でも同じです。 (ここでは「宗教」も広い意味で思想の一つと考えます。) 思想や宗教にも思考の出発点・原点があります。 ここである程度の共通性があると議論が成り立ちますが、思想の基点が まったく異なる場合、意見がまったくかみ合わなくなります。 それゆえ、こういう不毛な論争を指して「神学論争」「宗旨論争」と呼ぶ 言葉があるのです。 一例を挙げますと、マルクスやレーニンは神を否定し、レーニンに至っては 「宗教はアヘンである」とまで言い放ちました。それは彼らの思想の基点が 神を否定する唯物弁証法にあったからです。 一方、キリスト教の最大宗派であるローマ・カトリック教会は、共産主義者 を「神の敵」と規定し、ソ連が崩壊するまで猛烈な反共運動を展開しました。 (カトリック教徒の少ない日本では、あまり知られていない事実です) カトリックは聖書が原典(基点)であり、神を信ずるカトリック教徒と神を 否定する共産主義者には、思想的に妥協の余地がなかったからです。 有神論のカトリックと無神論の共産主義者の戦いは、共産主義の本山である ソ連の崩壊で決着がつきました。今でも共産主義を信じている人は絶滅して いないかと思いますが、かつての様な隆盛はありえないでしょう。

koutatoreikun
質問者

お礼

 ご回答どうもありがとうございました。根本、基点からものごとを考える、たしかにそうですね、 私たちは個人個人それぞれ違ったバックグラウンドを持って生きているわけですから。それが違えば 思想も違う。当然といえば当然のことですね。ここでは決着のついた例を挙げていただいていますが、  結局、正しさは何が決めるのか、微妙なところですね。

  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.15

こんにちは。 私は仏教史の研究に関わっています。 私自身は、仏教を「信じている」つもりはなくて、あえて言えば「納得している」という感じです。 ここの回答を見ていて、仏教に関する悪しき誤解や先入観を若干でもほぐしたいという思いで書かせてもらいます。 このことは意外と知られていないのですが、お釈迦さん自身は「信じる」態度をむしろ否定して、論理的に「納得する」ということ、理性を重視した人だということです。 例えば、死後の世界や魂の存在、宇宙のなりたち、奇跡の存在、といった証明不可能な問題をお釈迦さんは決して口にしませんでした。死後の世界を信じる異教徒が論争をしかけた時も、お釈迦さんは何も答えませんでした。不毛な論争の土俵にはあがらなかったのです。 また、現実のお釈迦さんは、弟子が自分を礼拝しようとするのをやめさせて「こんな老人をおがむな、私を別格扱いするな」と何度も言っています。弟子に対する自分の立場を称して、「特別なものでなく自分は少し先を行くだけ」とも言っています。 お寺の本堂で金色に輝くお釈迦さんも、実際には自分を神格化することを否定し、弟子に理性を説き、盲信を否定した人間なのです。 仏教の「空」という考え方はその思想の結実の代表格です。「空」は「どんな存在もそれだけでは成立しない、全体の関係のなかで存在する存在なのだから、これが絶対という存在はない」という考え方で、かえって自然科学の知見に親しんだ我々によく通じる考え方ではないでしょうか。「空」が英語では「Law of Relativity(相対性の法則)」などと訳されるゆえんです。 困ったことに、人間は何かしらよりどころになる「絶対」を求めがちですから、「全ては相対的」とするこの「空」の概念ですら絶対視し、これを金科玉条としてふりまわす人たちが生まれてしまいます。 ずいぶん昔の話ですが、私は「空」を説くある膨大なお経の中に突然「空亦復空(くうやくぶくう)」という言葉を見つけて、衝撃を受けたことがあります。 「空もまたかえりて空なり」、つまり「空」という概念はすごい、絶対だ、これを信じろ、というのでは全くなく、逆に「空という考え方自体も結局は空なのだから、その立場にすらとらわれてはいけない」というのです。この言葉を見つけた時に私は、あくまでも理性の目覚めを重視する仏教の奥の深さを感じた記憶があります。 何といっても2500年の歴史がある仏教ですから、それから派生した多様な立場や考え方には膨大な蓄積があり、一概に論評できないのですが、常に自分の立場をこのような原点に照らして省みる、というのが仏教者の立場ではないかな、と、私はつねづね思っています。

koutatoreikun
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。専門家さんのご回答なのに自信なしとは何と謙虚なお方なのだろう・・・・・・  >お釈迦様は理性的  この話は初めて聞きました。少なくとも受験勉強を含めた歴史では扱わないカテゴリーのお話ですね。  「教祖」と呼ばれる人々は、どうも人知を超えた話ばかりをするというイメージがメディアのオウ● 報道によって私の中に確立されていたので、びっくりです。「崇拝」という名の「特別扱い」に お釈迦様は少なからずお悩みになっていたのかもしれませんね。  >「すべては相対」  これもまたびっくりしました。おそらくneil 2112さんもご覧になっていらっしゃると思いますが、 私の見苦しい返信の中で、私は宗教を「絶対的なもの」を否定しています。それはつまり私は 「宗教=絶対的なもの」として捉えていたということです。仏教の「空」という言葉だけは 聞いたことがありましたが、こんな意味だったのかと感心しました。

  • maruru01
  • ベストアンサー率51% (1179/2272)
回答No.14

odd-artさんに質問します。 あなたは日蓮大聖人の言葉や、仏法の内容を疑ったことがありますか。 教えられたままに信じて疑わないことを、「盲信」または「狂信」と言うのですよ。 それが教えであるとして、地下鉄構内でサリンをばらまくことと、教えに背くから交通事故に遭うと主張することは、本質的には同じです。 つまり、自分達が絶対であると信じて疑わないということです。 あなたはまず、日蓮大聖人の言葉や、仏法ありきで話しますが、それでは一般社会では通用しません。 「疑って、疑って、疑って、疑い尽くしてから初めて信じなさい」と説く宗教の教祖もいますが、あなたとどちらが真摯な態度と言えるでしょうね。 あなたは仏様が罰を与えるのではないと主張しますが、「それを知りながらあえて背く者が悪いのです」というのは言い方を変えているだけです。要は信じない者には罰が下るということでしょう? 私が一部の宗教の信者に対して感じる悪しき特徴を、あなたは見事に持っています。 それは、排他性と自己客観視の欠如です。 自分の考えを披露するのではなく、あなたが他者(むろん信者ではない人)からどう見られているかを考えてみて下さい。 これが出来ないのは、未成熟でわがままな子供と同じです。 最後に仏法の中身は別に知りたくないので、長々と説明するのは不要です。 では。

koutatoreikun
質問者

お礼

どうもお久しぶりです。今回のご回答はodd-artさんに対する質問、宗教を信じない理由を お書きになっているというようですが、それらは私が言いたいことを補足する内容になってい ます。意図的か否かはわかりませんが。  ところで、あまり関係ない話ですが、私は無神論者の方々を「頭から宗教を否定している」 つまり「宗教など、知るに値しない」とお考えになっている方々だと思い込んでいましたが、 今回のmaruru01さんのご回答を見て、「特徴を理解した上で信じない」という方がいらっ しゃることを実感しました。無神論者は神や宗教を信じない人だけど、否定もしないとい うことを考えました。「一方通行の否定」ではないようですね。  ご回答どうもありがとうございました。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.13

>念仏を唱えていればどうこうできるというものではないということはおわかりですよね。  「念仏を唱えなければ幸せになれない」というのもどうかと思いますよ。だって、それは 念仏を唱えていない人を明らかに「不幸だ」とさげすんでいるではありませんか。 ということですが、念仏信仰を述べているのではありません。これも、以前の回答ですが、  「若し我が呪に順ぜずして、説法者を悩乱せば、頭破れて七分に作ること、阿梨樹の枝の如くならん」 と法華経陀羅尼品にあります。  人間の頭が七つに破れるということを示しております。  また、日蓮大聖人は『種種御振舞御書』のなかで、この頭破作七分の現証は、実は「心破作七分」である、ということを仰せになっております。つまり、心が七つに破れるということです。たまには頭が七つに破れる場合もありますけれども、しかし実際は心が七つに破れることが、未来世においてやはり地獄に堕ち、本当に頭が七つに破れる現証の元であるということです。  心が七つに破れるといことは、実に、法華経を謗ることによって皆、頭がおかしくなっていってしまうのです。昨日はあれを考えたかと思うと、今日はこれを考えるというように全く統一がなくなってきて、そして、しょっちゅう口から出まかせの嘘を言うようになります。  そして、  御本尊に背く邪宗謗法に人達が、皆、無間地獄に堕つべきところを助けるためにも、折伏をするのであります。  この折伏をしないということは、いったい、どういうことになるのか・・・、それは、人が地獄に行くのを放っておくことだから無慈悲になる、と言われております。  ここで、慈悲ということについて、章安大師の「慈無くして詐り親しむは即ち是彼が怨なり」との言葉があります。  「慈」とは、相手の悪いことを取り除いてあげること、相手の悪いことを「間違っていますよ」と言ってやめさせることが、本当の慈悲ということです。  この慈悲の心というものがなくて、表面的に仲良く付き合っていくことは、相手にとって怨になる、と言われているのです。  言い換えれば、偽りの親しみということになります。  偽りの親しみは、本当の慈悲ではない。表面的な偽物の親しみであって、本当の友情でもなければ、本当の愛情でもありません。相手にとっては、むしろ怨になります。  大聖人の仏法を下種仏法といいます。これは、相手の生命の中に仏になるための種を植える仏法ですから、下種仏法というわけです。  この下種仏法においては、信じた人も救われるけれども、反対し誹謗した人もついには救われるのです。これが下種仏法の大功徳なのです。  この仏法を誹謗して地獄に堕ちることになるならば、それは、仏法のことを知らないまま地獄に堕ちることとは、まったく似ても似つかないことなのです。  つまり、仏法のことを知らない人も、結局、不信謗法の失によって、最後は、皆、地獄に行くわけですが、その地獄の苦しみから抜け出す方法がわからない、幸せになる方法がわかりません。ところが、仏法のことを知り、それに反対して地獄に堕ちた、という場合は、その人の耳等から仏法が入って、しっかり生命の中に仏になる種が植わっていますから、いったんは地獄に堕ちたとしても、必ずいつか、その種が芽を吹いて仏法につくことができ、救われる日がくるのです。  或る信者の友人の話ですが、  彼の所に来て、この御本尊様を指さし「こんなくだらない宗教をまだやっているのか」と大笑いし嘲って帰ったことがありました。  それから一年目の同じ日に、起こさなくてもいい所で不可解な交通事故を起こし、電柱に頭を激突させて頭を砕き、命を亡くしたのです。  日蓮大聖人様は、 「この仏法に背けば、百日目、一年目、三年目、七年目の区切りで必ず罰がある」 と説かれていますが、彼の友人は、御本尊様を誹謗して一年目の同じ日に、頭を砕いて命を落としたのです。  また、Wさんという方は、この仏法の話を何度も聞き、聞くたびに「良い話ですね。でも、今日は時間がありませんから、またそのうち・・・」と言っては逃げていました。  その人は、けっして悪口を言ったわけではないのですが、五回、十回と話を聞いて、なお信心ができなかったのです。  それから二週間ほど経った時に、Wさんは交通事故に遺い、奥さんと子供さんは即死、自分自身も頭を打って意識不明、数ヶ月後に意識は戻ったのですが、頭がおかしくなっていました。気の毒だと思って、その後も信心の話をしようとしたのですが、もう普通の会話ができない状態なのです。それも頭破七分の現証です。  最後に重ねていいますが、仏様が罰をあてるのではなく、仏様は民衆を救おうとして、不幸を免れる方法を説いてくださった、それなのに、それを知りながらあえて背く者が悪いのです。  如何でしょうか?

koutatoreikun
質問者

お礼

あなたには日本語が通じないらしい。  もう少しまとめて話してくださいと私は書きました。それに、以前の回答だ何だと言われても、 「頭が七つに破れるどうこう」というのは初めて聞きました。誰かと私を勘違いしていませんか?  かたくなにあなたが信仰なさっているのはよくわかりました。しかし、あなたの発言は極論で、 もうけっこうです。  私は個人の意見が聞きたいだけで、ありがたい教えがどうたらこうたらという話には興味が ありません。本当に勘違いもはなはだしい。

  • odd-art
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回答No.12

>私は狂信者の一面として、「極論じみている」というところがあると 思っていて、それゆえにあなたが「狂信者じみている」と私には感じられます。 ということですが、これも以前、すでに或る質問の回答として記述したことですが、  日蓮大聖人の仏法は、私達の生命の奥深く内在する仏の生命力(仏界)を開発し、真の幸福を獲得していく、唯一最高の大法です。  では、もし、この大法に従わず、背いていった場合には、いったい、どうなるのでしょうか。  この大法に背くこと・・・すなわち、我が胸中に仏界という最高の生命力を引き出すための法に背く、ということですから、それは、かえって自分の中の仏界を、覆い隠し、破壊することになってしまいます。そのために生命力はしぼみ、その、しぼんだ生命力で人生を生きていく結果、仕事上、健康上、精神上と、あらゆる面にわたって諸々の行き詰まりが生じ、次第に、悩み苦しみに煩悶する人生に陥っていくのであります。  すなわち、世の中の一切の不幸の寄って来たる根本原因が、ここにあるのでありまして、これを通常、仏法では「罰」と呼んでおります。  ここで注意したいことですが、普通、罰といいますと、人間を超越した絶対者(神仏)がいて、忠実な者には恵みを与え、背く者には罰を与えるのだ、といった捉え方がされているようです。  しかし、仏法でいうところの罰とは、このような、神や仏から与えられるといった、迷信の類いではありません。  罰とはルールに反して生ずるもの。  まず、私達の身近な例として、交通法規というものがあります。これは、いちおう、社会に生活していく上での、ひとつの法(ルール)であります。  この交通法規が存在しているにも拘わらず、もし、これに従わず、信号・標識・規則等を無視して通行したならば、どのような事態が起こってくるでしょうか、申すまでもなく、必ず、事故を起こすなどの反価値(マイナス)な現象が生じてまいります。  しかも、その場合に、たとえ「自分は山奥から出て来てルールを知らなかった」「そのようなルールを学んだことがなかった」といっても、知ると知らずとに拘わりなく、従わないこと自体が反価値を招く原因なのですから、ルールの適用を免れることはできません。   また、もちろん、交通法規を知っている者が、あえてそれに逆らい、すべて逆に逆に行動したならば、知らずにルールに従わなかった人よりも、さらに激烈な大事故等の反価値現象を引き起こすことは、申すまでもありません。  以上は交通法規の例ですが、この他にも、私達の生活上にはさまざまな法があって、それらのルールに従わず、背いたときには、やはり、それ相応のマイナス現象が生じてきます。  このことは要するに、ひとつの法(ルール)が存在するにも拘わらず、自分がそれに従わなかったならば、結果としてマイナスな現象を招く、という道理でありまして、それも、他の誰かがマイナス現象を与えるのではなく、いわば、自らマイナス現象(不幸)の中へ飛び込んでいくようなものであります。  仏法でいうところの罰という考え方も、じつは、基本的にはこれと同じ考え方である、といえましょう。  つまり、罰とは、神や仏などの絶対者によって与えられるものではなく、法(ルール)に反した、自分自身の行き方から生ずるものなのです。しかも、その法とは、自らの生命に内在する仏界を開発し、真の幸福生活を築いていくための、いわば人生の根本の法です。この根本の法に従わないから、生命力がしぼんで、さまざまな不幸が生じてくるのであり、これこそ、人生の、もっとも根源の不幸の原因にあたるのであります。  前に挙げた、交通法規や国の法律などの種々のルールは、特定の時代や環境、また生活のごく一部分に適用される、浅く狭いルールでありましたが、それでさえ、無視すれば大きな事故や苦しみを招きます。ましてや、人生の根本法たる仏法に背く罰は、まさに想像を絶するほど重く、厳しい、と知るべきでありましょう。  なおまた、前の例で、「交通法規を知らなかった」といっても交通事故から逃れられないのと同様、これまで、この日蓮大聖人の仏法のことを知らない、聞いたことがなかった、という人であっても、これに従っていないということ自体、法に外れている、反していることでありますから、罰を免れることはできません。  つまり、この大法に従っておらぬ人は、誰一人の例外なく、すでに、罰によって種々の不幸を受けていることになります。  事実、自分自身も含め世の中の人々の姿を、よく御覧ください。たとえ、うわべが幸福そうに見える人であれ、一歩内側まで立ち入ってみれば、経済的な苦しみとか、病苦、家庭不和、対人関係の悩み、人格的欠陥、性格的な悩み等々、誰もが必ず、さまざまな問題を抱え、悩み苦しんでいるではありませんか。  これこそが、正しい仏法に背いているための、罰の現証(現実の証拠)なのです。  如何でしょうか?

koutatoreikun
質問者

お礼

 「唯一最高の大法」という時点で私はあなたがおかしいと言うのです。長々と述べるのではなく、 もう少しまとめてお話ください。  「世界中に悩み苦しんでいる人は多くいる」というのは、当然のことです。悩みがないほうがおか しい。これも前にお返事しましたが、念仏を唱えてエイズが治りますか?家族の不和、対人関係の悩み など、あなたが例示したものにはそれぞれ個別に理由があり、それをただ単に拝んでいれば、 念仏を唱えていればどうこうできるというものではないということはおわかりですよね。  「念仏を唱えなければ幸せになれない」というのもどうかと思いますよ。だって、それは 念仏を唱えていない人を明らかに「不幸だ」とさげすんでいるではありませんか。それにあなたが なさっているのはアドバイスですよね。  私が知りたいのは「念仏の正当性」ではありません。そこのところ勘違いしないで下さい。

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