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あなたの心のよりどころは何を信じ何を考えて生活しま

あなたの心のよりどころは「何を信じ」「どのように考え」て生活してますか つまり、人生観や生き方 宗教は誰かからの教えを信じるという「信仰」を基にして生活していると思います 神教は神様と共に生きる信仰生活と思えます 哲学は考え方だと思います。 神様と共に生活する人達と、仏様を信じて生活する人達とでは 人生観(生きる・死ぬ意味)が違います。 これらの考え方の違いを言っているのだと思います。 地球外生命体や地球人の科学を超えた何か、を信じて(脅えて)生活しててもいいと思います

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回答No.2

私は昔の風習・人生観などを大事にしたいと思う人間です。 私はたかだか100年も生きてない人間です。ほとんどの人は100年も生きてないでしょう。 1000年、2000年続いた風習などを軽々しく考えるのはどうかと思ってます。 真理なんてそう変わるものではありませんから。 今の風習が全部ダメという訳ではないんですけど、行き過ぎてるかなと思うことがしばしばです。 「自由」って言葉が大っきらいです。 行き過ぎた自由、自己責任を標榜すれば何をやっても良いかの如くの風潮。 昔は離婚をしにくい社会でした。 また嫁姑問題で苦しみ苦痛に耐えた人が何人もいたことでしょう。 でもそれが今では、自由が行き過ぎて安易な結婚、離婚が増えました。 そして中には金目当てで偽装離婚する人間までもが出てきました。 身勝手な自由を行使してる人がどんどん増えました。 この風潮は恐らく歯止めがかからないでしょう。 あと私が常々思ってるニートなんかも同じです。 自己責任、他人の事はどうでもいい、の結果が社会全体を狂わせている気がしてなりません。 他人の事などどうでもいいが、将来の社会保障をおかしくさせ人間の価値観を崩壊させていると感じます。 私は無宗教ですが、宗教がある意味道徳の代わりになっているなら そういう意味での役割であるならば信仰してもいいかなと思います。 宗教をバカにする人も多いのですが、この宗教だって1000年、2000年以上続いてきた訳です。 たかだか100年も生きてない人間が軽がるしく否定したりするのは愚劣でしょう。 本来、自由であるはずの人間がなぜ足枷のような宗教を信仰してきたのか。 もし人間が1000年も生きることができるならどう思うでしょうかね。

system110
質問者

お礼

回答ありがとうございました 参考になりました >宗教がある意味道徳の代わりになっているなら 心のよりどころでしょうか!

その他の回答 (3)

  • cucumber-y
  • ベストアンサー率17% (1847/10423)
回答No.5

妻子の配偶者を信じ、思考世界に逃げてリアルな活動を避けるような情けないまねはしないよう考えて生活しています。 自分や家族を脅かすものは私にとって間違いなく『敵』なので、そんなものを信じることはありません。 脅かしたりしないで笑顔で近づいてくれば、仲良くしてやってもいいですが。(笑)

system110
質問者

お礼

回答ありがとうございました 参考になりました 家族(家庭)を大切にされてますね

  • tomban
  • ベストアンサー率26% (2616/9772)
回答No.4

>宗教は誰かからの教えを信じるという「信仰」を基にして生活していると思います 神教は神様と共に生きる信仰生活と思えます 合ってる部分もあるのですが、間違っているところがあります。 「教え」を信じる、信じないというのは、その当人の「好き好き」なんですね。 だからこそ、教えというものは本当に「数多ある」わけです。 個人個人の好みですから、まさしく「人の数ほどある」ものなのです。 「信仰」というものは、もっと深いものです。 今の日本人は「信仰心」がない、と言われますが、その通りなんですね。 信仰というのは「心の琴線に触れたもの」に、精神が感応するものです。 平たく言えば「共振」…感動する心です。 「教え」というのは、頭でも理解出来ますが、信仰というものは、言葉で伝えられるものじゃなく、自分自身のピュアな気持ちの現われなのです。 哲学は、生きる上での「方向性」を整理するためのものです。 言ってみれば方位磁石のようなものでしょうか?。 勘で「こっちが北」とするのは勝手ですが、方位磁石を使ったほうが、それは確実となります。 ですから「教え」というものと重なる部分もありますが、哲学の場合は「回答」というものを表すことはしません。 学問ですからね。 哲学は回答じゃなくて「テキスト」のようなものです。 みな、同じようなところに位置しますが、同時に少しずつ違います。 そして「信仰心」というものは、もっとずっと原始的なものであり、感情に近いものです。 大事なことは、これら宗教や哲学というのは「現世利益」に全て基づいているということです。 地球外生命体のようなものじゃなくて、あくまでも「今の暮らしを良くしていくために」必要だと感じているもの、信じられているものなのです。 だから、信仰というものも実際は「アグレッシブ」なものであり、リアルであり、理想世界などではない。 現実逃避のための道具じゃないんです。 ここを勘違いしている人が多いのは確かですが、勘違いしてるといつまでも「意味が無い」ということになってしまいます。 怯えなどは、必要ありません。 頭で考えすぎることも、無意味です。 ただ「頭を下げること」…これが出来るのか出来ないのか、もしくは「その気持になれるかどうか」です。 「屈服」ではないのですよ?。 頭を下げることは「感謝する」からこそなのです。 エイリアンに感謝ができますか?…そういうことなのですよ。

system110
質問者

お礼

回答ありがとうございます >頭を下げることは「感謝する」からこそなのです。 実のるほど頭を垂れる稲穂かな!

  • JqqF
  • ベストアンサー率24% (159/656)
回答No.1

私は実論です。宗教も哲学も科学も、これをもって淘汰されるものを受け取ります。

system110
質問者

お礼

回答ありがとうございました 参考になりました

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