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絶対って・・・

noname#1001の回答

noname#1001
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回答No.2

客観的真実とか、そういう命題で「絶対」というのは哲学的な事まで絡んできそうで難しい気がしますが、主観的な話であればいくらでも存在すると思います。 たとえば、「時間は絶対に後戻りできない」というのは科学や物理学の進歩で、そうでもないかもしれないぞ、というような可能性が出てきたような状況ではないでしょうか。 また、「命ある物はいずれ絶対に死ぬ」というのも、これまでは是認されてきた事だと思いますが、老化の原因が解明されたり、遺伝子の研究などからいずれ不死が実現するのかもしれないという思いが生まれた時点で「絶対」ではなくなりましたね。 でも、主語が一人称になった場合、たとえば、「私はうどんよりもそばの方が絶対に好きだ」とか「辻希美よりは加護亜衣のほうが絶対に可愛い」といったことに関しては、客観的な評価とは別に、当人にとっては「絶対」はそのままの意味で存在すると思います。 まして、現時点では、とか、この先は判らないけど、などという条件をつければ存在は間違いないと言えると思います。 あるいは、信心深いある人にとっての神は「絶対の唯一無二」であり、別の宗教の熱心な信者から見ればその思い込みは間違いということになると思いますが、これはその当人にとっては死ぬまで「絶対」であり続けたわけです。当人にとって例外や妥協を認めた事がなければ、絶対は存在した、という事になるのではないでしょうか。 ただ、こういうのでは御質問の趣旨には沿わないのだろうな、というのも感じます。 ですが、 絶対というのは「当然」とか「必然」とか「必ず」とか「確率100%」というよりも、もっと強調した強い意味合いを含む物だと思います。まあ、「絶対温度」などという学術用語もありますが、多くはそういう主観的な思い入れを含んで使われる言葉ではないかな、という気もします。

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