arayata333 の回答履歴

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  • ひとは やわらがしめられうるか?

     あやまちを犯したひとを 存在としてとうとび あやまちについて 赦すことも赦さないこともしないし 出来ないし してはならないという境地になるとき やわらがしめられる。かも知れない。  赦す・赦さないについては 裁いてはならないということ。  (犯したあやまちの内実を説明してやるということ)。  社会との根本的な和解が成るか? ということ。  この不案内のまま 問います。

  • 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

     次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

  • 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

     次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

  • 人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

     次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

  • 女性の哲学者が少ないのはなぜ?

    女性の哲学者は居るのでしょうけれども、有名な人を知りません。 女性の哲学者は男性にくらべ少ないように思います。 なぜですか。

  • 考古学の存在意義

    考古学の存在意義について皆様がどのように考えられているのかお聞きしたいので質問します。 乱文となってしまいましたが、質問させて下さい。 賛同、反論、ご意見や補足などお待ちしております。 (単なる賛同だけでも結構です) 考古学は何のために存在するのでしょうか? 一般的には、ああ、学者さんがやっているからきっと偉い事に違いない、でもおそらくは実用には使えない、くらいに思われているのではないかと思うのです(事実以前までの私がそう思ってました)。 ただ、私個人としては「考古学の為の考古学」ではなく、別の観点から社会的必要があるのだと思うのです。 哲学・思想に近いのかもしれませんが、私は、 ・文明や科学の進歩というのは本来の人間のあり方からすれば不自然なのではないか?  ・自然と共存すべきなのではないか?  という疑念に囚われており、もし人類そのものがすべからくして皆そうした思想を持っているなら、現代に至るまでも我々は洞穴に住んでいる筈ですが、そうではない。文明は発達し、科学技術は進歩する。知性は磨かれ、これらを道具として上手く使った集団が勝者となり、富を得、勝者側の人間としての人権を確保する事ができる。そうした「人類の文明や科学技術を進歩させるべきか否か」という哲学的命題(?)に対して、最初の考察材料、人類史から見る思想の変遷という建築物を構築する際の一番硬い足場を与えてくれるのが考古学であり、それが考古学そのものの存在意義なのだと捉えています。 以上は私個人の考古学に対する存在意義なのですが、本来の考古学の存在意義はどのようなものなのでしょうか?  ※ちなみに私自身は考古学は全く勉強しておらず(これから必要に応じて調べようと思います)、日本史は縦穴式住居と縄文式土器、世界史ではメソポタミア文明くらいしか覚えてません。 尚、この質問は学校のレポート絡みではありません。飽くまで個人的な知的欲求がある為に質問させて頂いております。私の質問はどうにも誤解されやすいようで、そのような指摘を頂く事が度々ありますので、一応念の為に書き添えておきます。

  • なぜ他人は自分が勉強しようとするとやめろやめろというのか?

    子供のころから自分が勉強しようとすると他人にやめろやめろと言われることが多かったです。なぜでしょうね

  • ポルノと言う存在。

    こんばんは。 先日もこちらのカテゴリーでお世話になりました者です。 その節は本当にありがとうございました。 今回も、自分のカウンセリングを兼ねた質問を立てさせて頂きます。 お付き合い頂ければ、幸いです。 質問は、 「ポルノと言う、性を扇情的に扱うもの」の存在を「初めて知った時」、どういう風に感じましたか? *当たり前 *違和感 どちらでしょうか? そして、これは男女の違い(本人の性別/被写体の同性or異性)によって、変わるのでしょうか? いえ。。。 多くの子ども達は「身体は大切に」「人の嫌がる事はしない」。。。等と言い聞かされ、またそれを「人としての基本」に据えて育って来ていると思うのです。 でも。。。 ポルノ、と言う存在を「当然」或は「必要悪」等と捉える時、それはその「基本」との違和感、を生じないのでしょうか? また。。。「違和感」を感じた方は、それによって「自分が傷付く」と感じないのでしょうか? ちなみに、私は20代後半の女性で、既婚6年、三児の母でもあります。 夫との関係、性的関係も問題無く、とても幸せを実感しております。^^ そして、(男女によってその程度の差はあれ)「性欲は愛情とイコールでは無い」事、性欲と言うものは「性的禁止」と「性的刺激」によって形成される、と言う事も判ります。 現に私自身、例えば好きな海外サッカーの或る選手等、「いや。。。脱いでも綺麗だろうなあ。。。ニカニカ」等と、思ってもいます(恥!)。 でもでも、翻って「初めて知った時」の記憶を辿り、以後の感じ方を辿ると、私には「違和感」以外、浮かばないのです。 何故、大切にすべき「人の身体」を、そのように扇情的に不特定多数の目に「現実の画像として」晒せるのか、それは、「人としての基本」に反しているのでは無いか?。。。そう思えてなりません。 そう思うのは、「同性としての(不要な?)共感/想像力の為せる事」なのでしょうか?(現に、先述のように私自身「妄想」はしても、それについて違和感はありません。汗) では、男性は男性のポルノ(有りますよね?)に対して、「違和感」は感じますでしょうか? つまり、「感じ方の前提」として、 *自分を被写体に置き換えて、の臨場感、の有無 があるのかしら。。。。とも思います。 このように、私もすれ違う見知らぬ異性から「あらぬ姿」を思い描かれているのかしら? そうだとしたら。。。皆様はどうお感じになるのでしょうか?そして、まだ「性の入り口」に居たご自分は、どうお感じになりましたでしょうか? 纏まりの無い長文で、申し訳ありませんが、 よろしくお願い致します。 尚、お礼が遅くなる、または、順不同になるかも知れませんが、必ず書き込ませて頂きますので、その旨お許しください。

  • 他者に何か訴えかけようrとするとき、

     我々が何か他者に訴えかけようとするとき、「理屈で語る」のと「物語で語る」のとどちらが効果的なんでしょうか??  例えば嘘をつかせないようにするとき、「嘘をついてはいけません」と言うのと、「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるよ」と言うのとどちらが効果的でしょうか??  ちょっと漠然とした質問で申し訳ないのですが、文意を読み取っていただけると助かります。よろしくお願いします。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • ポルノと言う存在。

    こんばんは。 先日もこちらのカテゴリーでお世話になりました者です。 その節は本当にありがとうございました。 今回も、自分のカウンセリングを兼ねた質問を立てさせて頂きます。 お付き合い頂ければ、幸いです。 質問は、 「ポルノと言う、性を扇情的に扱うもの」の存在を「初めて知った時」、どういう風に感じましたか? *当たり前 *違和感 どちらでしょうか? そして、これは男女の違い(本人の性別/被写体の同性or異性)によって、変わるのでしょうか? いえ。。。 多くの子ども達は「身体は大切に」「人の嫌がる事はしない」。。。等と言い聞かされ、またそれを「人としての基本」に据えて育って来ていると思うのです。 でも。。。 ポルノ、と言う存在を「当然」或は「必要悪」等と捉える時、それはその「基本」との違和感、を生じないのでしょうか? また。。。「違和感」を感じた方は、それによって「自分が傷付く」と感じないのでしょうか? ちなみに、私は20代後半の女性で、既婚6年、三児の母でもあります。 夫との関係、性的関係も問題無く、とても幸せを実感しております。^^ そして、(男女によってその程度の差はあれ)「性欲は愛情とイコールでは無い」事、性欲と言うものは「性的禁止」と「性的刺激」によって形成される、と言う事も判ります。 現に私自身、例えば好きな海外サッカーの或る選手等、「いや。。。脱いでも綺麗だろうなあ。。。ニカニカ」等と、思ってもいます(恥!)。 でもでも、翻って「初めて知った時」の記憶を辿り、以後の感じ方を辿ると、私には「違和感」以外、浮かばないのです。 何故、大切にすべき「人の身体」を、そのように扇情的に不特定多数の目に「現実の画像として」晒せるのか、それは、「人としての基本」に反しているのでは無いか?。。。そう思えてなりません。 そう思うのは、「同性としての(不要な?)共感/想像力の為せる事」なのでしょうか?(現に、先述のように私自身「妄想」はしても、それについて違和感はありません。汗) では、男性は男性のポルノ(有りますよね?)に対して、「違和感」は感じますでしょうか? つまり、「感じ方の前提」として、 *自分を被写体に置き換えて、の臨場感、の有無 があるのかしら。。。。とも思います。 このように、私もすれ違う見知らぬ異性から「あらぬ姿」を思い描かれているのかしら? そうだとしたら。。。皆様はどうお感じになるのでしょうか?そして、まだ「性の入り口」に居たご自分は、どうお感じになりましたでしょうか? 纏まりの無い長文で、申し訳ありませんが、 よろしくお願い致します。 尚、お礼が遅くなる、または、順不同になるかも知れませんが、必ず書き込ませて頂きますので、その旨お許しください。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • ポルノと言う存在。

    こんばんは。 先日もこちらのカテゴリーでお世話になりました者です。 その節は本当にありがとうございました。 今回も、自分のカウンセリングを兼ねた質問を立てさせて頂きます。 お付き合い頂ければ、幸いです。 質問は、 「ポルノと言う、性を扇情的に扱うもの」の存在を「初めて知った時」、どういう風に感じましたか? *当たり前 *違和感 どちらでしょうか? そして、これは男女の違い(本人の性別/被写体の同性or異性)によって、変わるのでしょうか? いえ。。。 多くの子ども達は「身体は大切に」「人の嫌がる事はしない」。。。等と言い聞かされ、またそれを「人としての基本」に据えて育って来ていると思うのです。 でも。。。 ポルノ、と言う存在を「当然」或は「必要悪」等と捉える時、それはその「基本」との違和感、を生じないのでしょうか? また。。。「違和感」を感じた方は、それによって「自分が傷付く」と感じないのでしょうか? ちなみに、私は20代後半の女性で、既婚6年、三児の母でもあります。 夫との関係、性的関係も問題無く、とても幸せを実感しております。^^ そして、(男女によってその程度の差はあれ)「性欲は愛情とイコールでは無い」事、性欲と言うものは「性的禁止」と「性的刺激」によって形成される、と言う事も判ります。 現に私自身、例えば好きな海外サッカーの或る選手等、「いや。。。脱いでも綺麗だろうなあ。。。ニカニカ」等と、思ってもいます(恥!)。 でもでも、翻って「初めて知った時」の記憶を辿り、以後の感じ方を辿ると、私には「違和感」以外、浮かばないのです。 何故、大切にすべき「人の身体」を、そのように扇情的に不特定多数の目に「現実の画像として」晒せるのか、それは、「人としての基本」に反しているのでは無いか?。。。そう思えてなりません。 そう思うのは、「同性としての(不要な?)共感/想像力の為せる事」なのでしょうか?(現に、先述のように私自身「妄想」はしても、それについて違和感はありません。汗) では、男性は男性のポルノ(有りますよね?)に対して、「違和感」は感じますでしょうか? つまり、「感じ方の前提」として、 *自分を被写体に置き換えて、の臨場感、の有無 があるのかしら。。。。とも思います。 このように、私もすれ違う見知らぬ異性から「あらぬ姿」を思い描かれているのかしら? そうだとしたら。。。皆様はどうお感じになるのでしょうか?そして、まだ「性の入り口」に居たご自分は、どうお感じになりましたでしょうか? 纏まりの無い長文で、申し訳ありませんが、 よろしくお願い致します。 尚、お礼が遅くなる、または、順不同になるかも知れませんが、必ず書き込ませて頂きますので、その旨お許しください。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

  • 道徳規範は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?  道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。  ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。  ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2   ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。  ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。  ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。  ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。  そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。  * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。