arayata333 の回答履歴

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  • 音楽は空虚なものでしょうか?

    私の場合、音楽を聴けば現実感は夢のように流されてしまいます。 聴いている間はいいのですが、聴き終わると残るのは空虚感だけということになります。 音楽を否定するようなものもありますが、結局音の楽しさである以上は音楽にすぎません、ジャンル問わずです。 皆さんはいかがでしょう、音楽はむなしいものかそうではないものか考えてお答えください。

  • 天国の主は神様? 地獄の主は?

    宜しくお願いします。 ○「天国の主は神様」というイメージがあるのですが、この認識は間違ってますか? 間違っていれば、天国の主は誰なのか教えてください。 ○地獄の主は誰なのか教えてください。 ご回答お待ちしてます。

  • 吉本隆明の思想について

     次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。  それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・  レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。  つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。  だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。  これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。  だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。  まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。  あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・  (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  論点は 次の二点です。  (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。  ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。  なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。  (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。  ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる?  以上よろしくお願いいたします。

  • 吉本隆明の思想について

     次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。  それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・  レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。  つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。  だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。  これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。  だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。  まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。  あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・  (江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  論点は 次の二点です。  (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。  ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。  なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。  (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。  ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる?  以上よろしくお願いいたします。

  • キリスト教の異端・改革派・異教への弾圧・迫害について

     キリスト教の功罪を考えるときではないでしょうか。  功は 分かっています。ふつうの生活を送ってきたふつうの市民の歴史に 顕著です。  罪と言えば 具体的に集中して調べたわけではなかったので あらためて おしえていただこうと思いました。  単純に 世界史の知識によれば 《遺憾に思う》という反省のことばによっては つぐない得ないものがあると思います。丸坊主および二百年の謹慎というさばきを持ちますが いかがでしょうか。    * 罪は あやまち そして さばきは つぐないの勧めと それぞれ 言ったほうがよいでしょうか。  * 二百年の謹慎ということは 教会の自己解体を意味します。

  • 記憶は脳をはみだしている。

    記憶は脳をはみだしているでしょうか? (ベルクソンははみだしていると言っています。) [注] 「デタラメなアドバイスは不要です。」

  • お金の価値の本質を哲学した人いますか?

    ニコ動の政治の50位くらいの所にある「お金の作り方」(48分もの)を見て、半分はあっていると思っているものですが、お金の価値の本質、人間にとってどうあるべきとかじゃないですよ、どう付き合っていくべきたとかじゃないですよ、お金の価値そのものですよ。 お金の価値とはなんぞやってことですよ。 もうちょっと限定すると「預金通称の残高」とか、破産する人や倒産する法人にとって実在する「借金の金額」って何って問いかけです。 それについて哲学したことがある人がいれば、何か聞かせてもらえればと思います。 哲学者は科学できないのはわかってますから、期待はしてませんが。 自分の好き勝手にならない概念については、哲学でいじるのが難しいとは思っていますが。 ちなみに、上記ビデオでは、「負債debt」がお金だといってます。 お金について無知な人である、全世界の99.99%の人はお金の奴隷といっています。古代の邪神の様に、無知な人の迷信によって絶対的ともいえる地位を確保しているらしいです。 銀行家はお金という支配者に仕える役人というか軍隊というか、そういうものだとすると、仕事しないで高給とっていたり、万一の時は国が救ってくれたりするのも納得できます。国といってもお金から見れば奴隷である人間の作った法人なんで、奴隷と同じですから。

  • お金の価値の本質を哲学した人いますか?

    ニコ動の政治の50位くらいの所にある「お金の作り方」(48分もの)を見て、半分はあっていると思っているものですが、お金の価値の本質、人間にとってどうあるべきとかじゃないですよ、どう付き合っていくべきたとかじゃないですよ、お金の価値そのものですよ。 お金の価値とはなんぞやってことですよ。 もうちょっと限定すると「預金通称の残高」とか、破産する人や倒産する法人にとって実在する「借金の金額」って何って問いかけです。 それについて哲学したことがある人がいれば、何か聞かせてもらえればと思います。 哲学者は科学できないのはわかってますから、期待はしてませんが。 自分の好き勝手にならない概念については、哲学でいじるのが難しいとは思っていますが。 ちなみに、上記ビデオでは、「負債debt」がお金だといってます。 お金について無知な人である、全世界の99.99%の人はお金の奴隷といっています。古代の邪神の様に、無知な人の迷信によって絶対的ともいえる地位を確保しているらしいです。 銀行家はお金という支配者に仕える役人というか軍隊というか、そういうものだとすると、仕事しないで高給とっていたり、万一の時は国が救ってくれたりするのも納得できます。国といってもお金から見れば奴隷である人間の作った法人なんで、奴隷と同じですから。

  • お金の価値の本質を哲学した人いますか?

    ニコ動の政治の50位くらいの所にある「お金の作り方」(48分もの)を見て、半分はあっていると思っているものですが、お金の価値の本質、人間にとってどうあるべきとかじゃないですよ、どう付き合っていくべきたとかじゃないですよ、お金の価値そのものですよ。 お金の価値とはなんぞやってことですよ。 もうちょっと限定すると「預金通称の残高」とか、破産する人や倒産する法人にとって実在する「借金の金額」って何って問いかけです。 それについて哲学したことがある人がいれば、何か聞かせてもらえればと思います。 哲学者は科学できないのはわかってますから、期待はしてませんが。 自分の好き勝手にならない概念については、哲学でいじるのが難しいとは思っていますが。 ちなみに、上記ビデオでは、「負債debt」がお金だといってます。 お金について無知な人である、全世界の99.99%の人はお金の奴隷といっています。古代の邪神の様に、無知な人の迷信によって絶対的ともいえる地位を確保しているらしいです。 銀行家はお金という支配者に仕える役人というか軍隊というか、そういうものだとすると、仕事しないで高給とっていたり、万一の時は国が救ってくれたりするのも納得できます。国といってもお金から見れば奴隷である人間の作った法人なんで、奴隷と同じですから。

  • 記憶は脳をはみだしている。

    記憶は脳をはみだしているでしょうか? (ベルクソンははみだしていると言っています。) [注] 「デタラメなアドバイスは不要です。」

  • キリスト教の異端・改革派・異教への弾圧・迫害について

     キリスト教の功罪を考えるときではないでしょうか。  功は 分かっています。ふつうの生活を送ってきたふつうの市民の歴史に 顕著です。  罪と言えば 具体的に集中して調べたわけではなかったので あらためて おしえていただこうと思いました。  単純に 世界史の知識によれば 《遺憾に思う》という反省のことばによっては つぐない得ないものがあると思います。丸坊主および二百年の謹慎というさばきを持ちますが いかがでしょうか。    * 罪は あやまち そして さばきは つぐないの勧めと それぞれ 言ったほうがよいでしょうか。  * 二百年の謹慎ということは 教会の自己解体を意味します。

  • 現在時における《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。   ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決    して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く    ことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの    ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出    さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし    をお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな    った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで    ある。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。  なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。

  • 現在時における《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。   ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決    して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く    ことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの    ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出    さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし    をお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな    った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで    ある。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。  なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。

  • 現在時における《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。   ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決    して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く    ことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの    ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出    さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし    をお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな    った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで    ある。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。  なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。

  • 「怒り」は実在する感情、でしょうか?

    こんにちは。 心理学のカテゴリーと迷いましたが、こちらに致しました。 タイトルにあるように、 「怒り」の感情は、皆さんお持ちなのでしょうか? 私は「感じない」のですが、これは何か「問題がある」のでしょうか? 例えば、「理不尽な目に遭った時」。。。 私はひたすら「悲しみ」を憶えます。 どんな目に遭っても(なかなか酷い目にも遭っている、と思うのですが)、「ああ、私は今怒っているんだ」と思う事がありません。 自分に対する「反省」、 相手に対する「想像」、 すれ違いに対する「無念」、 相手に悪意を抱かせてしまった事に対する「哀しさ」。。。等しか、自分の中に見つけられません。 「怒り」は感情の中では「低次なもの」と言う事ですが、 私の他にも「怒りを感じない人」はいらっしゃるのでしょうか? 私は「変」なのでしょうか? いえ。。。「変な人」と評される事には慣れているのですが。。。笑 漠然とした質問で申し訳ないのですが、何か、回答頂けたら、と思っております。 よろしくお願いします。

  • 現在時における《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。   ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決    して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く    ことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの    ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出    さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし    をお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな    った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで    ある。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。  なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。

  • 現在時における《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。   ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決    して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く    ことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの    ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出    さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし    をお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな    った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで    ある。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。  なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。

  • 現在時における《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。   ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決    して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く    ことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの    ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出    さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし    をお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな    った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで    ある。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。  なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。

  • 未来は、存在していると証明できますか

    マクタガートのA系列(過去・現在・未来)の三様相のうち、特に、未来という時間概念を論理的に探究する前に、そもそも未来は、存在していると証明できているのでしょうか?と思ってしまいます。僕たちが日常生活している現在とは断絶していて、決して現在の側からはその中に飛び込めない未来という「あの世」のような概念は、語り得ない、記述し得ない、親近感のない、超体験であるがゆえに、つかみどころがないように思うのです。未来という想定の確かさについて、教えてください。

  • 現在時における《復活》について

     おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。   ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決    して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く    ことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの    ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出    さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし    をお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな    った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで    ある。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受    け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで    ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。  なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。