神父様と修道士の違いとは?ミサの時に神父様が飲んでいるものは本当にぶどう酒?

このQ&Aのポイント
  • 神父様と修道士の違いが分からない方へ、簡単に説明します。神父様はミサを開ける人であり、教会のスピリチュアルリーダーです。修道士は神に生涯を捧げる人であり、コミュニティで共同生活を送りながら神に奉仕します。
  • ミサの時に神父様が飲んでいるものは、通常ぶどう酒であり、イエス様の血に見立てられています。実際には2種類のぶどう酒を混ぜることがありますが、お酒が苦手な方は代替品を使用することもできます。
  • 神父様や修道士に関する詳しい情報を知りたい方は、特定のウェブサイトや書籍を参考にすることをおすすめします。また、神に障害を捧げる人々についてのテーマについては、社会のさまざまな立場や信仰体系の人々の実践についても調べてみると良いでしょう。
回答を見る
  • ベストアンサー

神父様と修道士って・・

夏休みに授業の宗教の課題でレポートを作成します。 テーマに「神に障害を捧げる人々」を選んだので、マ・スールや、神父様、修道士になるまでの過程や年月を具体的に知りたいです。詳しく載っているHPなど知ってる方がいたら教えてください。 知識がほとんど無くて恥ずかしいしいのですが、そもそも、神父様と修道士の違いとは何なのですか? 神父様はミサを開ける人、修道士は神に生涯を捧げる人、ということは分かるのですが、はっきりとした違いが分かりません。神父様も、修道士の1人と考えても良いのですか? また、素朴な疑問なのですが、ミサの時に、神父様が飲んでいるものって何ですか?イエス様の血に見立てたぶどう酒ということになっていますが、いつも2種類のビンから注いで混ぜてますよね?あれって本当にぶどう酒なんですか?もしそうなら、お酒弱い方はどうするのかな~と思ったり・・知っている方、教えてください。

noname#8179
noname#8179

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tomotaro
  • ベストアンサー率55% (50/90)
回答No.2

あまりにも質問の内容が多いので簡単にお答えします。 神父になるためには、通常の場合神学生として所定の年間勉強と生活の訓練を受けたのち司教によって認められ「叙階の秘蹟」を受ける事が必要です。数年で叙階される方もいらっしゃいますし、十年以上かかっている方もいらっしゃいます。 修道士(修道女)の場合でしたら極端な言い方ですが、修道会に認められれば今すぐでもなれます。 彼(彼女)らは「誓願」というものを立て、それに従って生活します。例えば「1年神様に仕えます」で期限が来れば還俗してもいいし、次は5年とか10年、自信があれば終身と神様に誓って修道生活を送っています。 神学校、修道会に入る条件 1.教会に奉仕するために、生涯を献げる決意があること。 2.心身健康であること 3.法的拘束を受けていないこと(禁治産者、負債があるもの、結婚のきずなが解けていないものなど) 4.洗礼を受けて、少なくとも3年をすぎていること 5.所属教会の主任司祭の推薦があること 神父には所属の違いで教区司祭と修道司祭があり、詳しいことは同様の質問に答えましたので下記のURLを参考にしてください。 ミサの2種類のビンというのは水と葡萄酒です。 「この水と葡萄酒の神秘によって、わたしたちが人となられた方の神性にあづかることができますように」と神父は祈りながらカリス(聖杯)に注ぎます。 お酒に弱い方は殆ど水でほんの1.2滴垂らしているかたもいらっしゃいますよ。 ごミサの様子ご存じのようですから、詳しいことはお近くのカトリック教会にお越し下さい。 「夏休みの宿題なのですけど・・」と神父さまに伺えば喜んでお話してくださいますよ。 ちなみに私はカトリックの信者ですが夏休みとなると高校生や大学生などよく訪ねて来ますよ。

参考URL:
http://okweb.jp/kotaeru.php3?qid=916550
noname#8179
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございます!質問多すぎですいません。わけるべきでしたね・・ なるほど、ちゃんとぶどう酒だったんですね~。人によって、全部注ぐ方とちょこっとだけの方がいるのにも納得です!ミサは、彼此10数年カトリックの学校に行ってるので、神父様の言葉の受け答え(?/また、司祭とともに。等)が出来るくらいには知っています。けれど、まだまだ勉強不足なので、学校のマ・スールにお話を伺ってみようと思います。 ありがとうございました♪

その他の回答 (1)

  • francede
  • ベストアンサー率40% (10/25)
回答No.1

カソリック?プロテスタント?ロシア正教?・・・どちらの宗教ですか?たとえばカトリックならカトリック教会プロテスタントならたくさんサイトがあります。 簡単に言うと、旧約聖書の方をみてマリア(聖母マリア)信仰があるのがカトリック。新約聖書のほうをみて特にマリアに対して聖人扱いしていないのがプロテスタントというふうに大きな違いはありますし。もちろん、宗派によっても違います。神父やシスター及び修道士(修道女)はそれぞれマリア様やイエス様と生涯結婚します!って誓うので独身ですが、プロテスタントの牧師は結婚しています。ギリシア正教やロシア正教はイコンをとおして信仰をつらぬくっていうことぐらいしかあまり良くわかりませんが。まず、どちらかを教えてください。

noname#8179
質問者

補足

牧師ではなく神父と限定して書いたので分かっていただけるかと思ったのですが、説明不足ですみません。カトリックです。

関連するQ&A

  • 【キリスト教】なぜ神父は生涯独身者で牧師は結婚して

    【キリスト教】なぜ神父は生涯独身者で牧師は結婚して既婚者になれるのですか? 神父と牧師の違いって何ですか? 神父の方が位が上ですよね? 日本の教会にいる神父は既婚者でしたがあれは偽物の神父ってことでしょうか? 日本には詐欺師が結婚式場の神父に偽って神の目の前で詐欺行為をして地獄に落ちないのでしょうか? それともキリスト教の神様は懐が大きいので目の前の詐欺師の神父にも実りを与え続けるのでしょうか? 結婚式場の神父や教会の神父にそなたは結婚指輪、婚約指輪をしているようだがこれはどういうことかね?と聞いたら何と返答するのでしょう?

  • キリスト教

    キリスト教の学校に通いながらも、全然よく分からないないと言う イエスは何故全員の弟子に見捨てられ裏切られてしまったのでしょう?(最後の晩餐) イエスキリストの生涯34年(短命) 彼が人々に教えた年月は3年にもみたない イエスは 何を行い 何を伝えたかったのでしょうか?

  • キリスト教の宗派について

    宗教のカテゴリーがよくわからないのでこちらに質問させていただきました。 私は「神」自体を信じてはいませんが、宗教に興味を持ちました。信仰としてでなく、あくまでも宗教学として。イエス様も実在の人物と思っていません。 現在キリスト教関連の本を読んでいますが、カトリックとプロテスタント違いはおおよそ理解しました。ただ、このふたつに分かれた(分類するともっと多く分かれるのでしょうが)理由はなんなのでしょうか。「社会契約論」とか「ローマ教皇」がからんでいるというようなのも読んだ気がします。 このふたつの宗派は敵対もしくは迫害しあっているのでしょうか。お互いを否定しているのでしょうか。 また、こういった事のいくつかを教会へ行って、神父さんもしくは牧師さんに話を聞かせてもらうのは失礼な事でしょうか。 また、教会は外見上カトリック・プロテスタントの見分けはつくものでしょうか。 質問が多くなったのでまとめます。 1.カ派・プ派の分かれた理由 2.そのふたつの敵対度 3.教会で話を聞かせてもらっていいものか 4.教会の見分け方 信仰している方、神父さん、牧師さん、修道士さん、宗教学を学んでいる方、一般の方など御自身の立場も教えていただけると嬉しいです。

  • キリスト教について教えてください。

    最近、新約聖書を人からもらって読んでいるのですが、疑問がいくつかあるので教えてください。 イエス・キリストが説いた教えと従来のユダヤ教との違いは何だったのでしょうか。 イエス・キリストが亡くなるとき神よなぜ私を見捨てたのですかと言ったということですが、 イエスは磔刑になったときに神が助けてくれると思っていたということでしょうか。 なぜ聖書にいわゆる神の子であるイエス・キリストが神に見捨てられたという、彼を否定するようなエピソード が残されたのか疑問に感じました。 また新約聖書が編纂されたのはキリストの死後100年後という話ですが、なぜ編纂者は内容が重複しているような話を なんども掲載したのでしょうか。 イエス・キリストは死後3日後に復活して、その後しばらく弟子と過ごしたということですが、イエス・キリストを 裁いた人々がコノヤローまだ生きてたのかっ!ということにはならなかったのでしょうか。 最近バチカンとロシアの正教会が和解したというニュースがありましたが、なぜ対立していたのでしょうか。 質問多数ですが、どうかよろしくお願いいたします。

  • ルカ伝5-39について

    ルカによる福音書 5章39節 「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。 『古いものの方がよい』と言うのである。」(新共同訳) 共観福音書の上記箇所の意図するところがイマイチ分かりません。 36節からの一連のたとえ話は私の中では 新しいぶどう酒=イエス・キリストの伝える福音=新しい約束(古いぶどう酒は律法?) 新しい革袋=福音を受け入れる側(人)の意識 と解釈しています。福音を受け入れるには今までの(古い)肉に囚われた意識を脱して 新しい(霊の)意識が必要となる、というような感じです。 ですがそうなると39節の意味がよく分からなくなるのでこの解釈は間違い?とも考えたりして困っています。 詳しい方や神父・牧師から説教を聞いたことがある方がいらしたらご教授願います。

  • アブラハムとイサクの父子関係は 神とイエスとの父子関係について何かを言うか

     アブラハムは 神の告げるがままに 神のためにその子イサクをいけにえにささげようとしました。  神はその独り子をイエスにつくり 人びとの〔罪のあがないの〕ためにいけにえとしたと言われます。  ちなみにイサクは アブラハムがそのいけにえを神によって止められ生きて世にありつづけました。  イエスは 知られるように はりつけにされて去って行き そのように神に見捨てられたことにおいて生きた・つまりよみがえったと言われます。  質問です。わたしは 原罪とその贖いという物語をもはや不必要と見なし そのように常識としたいと考えており(*)    * 【Q:われわれは原罪を犯せしや?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html  したがって 神とイエスの父子関係と アブラハムとイサクの父子関係とのあいだに 特別の意味のあるかかわりがないほうに見方を寄せようとしています。  この見方をめぐって いろんな立ち場や角度からご見解がありますでしょうか? ありましたらおしえてください。  このひとつの視点は ふと思いついたものですので どこから手をつけていけばよいのか分かりません。生煮えのままご教示を乞います。

  • 聖書の宿題について教えてください。

    聖書について教えてください イエスのアンチテーゼ、ヨハネによ る福音書7章53節、マタイによる 福音書20章1~15節について 、学校の宿題の答えがわからないのでわかる方は教えてください。 (問1)「姦淫の女とイエス」の物 語で、R.ブルトマンが語った言葉の意 味を物語に即して81~105字で 述べなさい。 (問2)イエスのアンチテーゼは、 (1)何に対する反対命題なのか、 (2)特にマタイ5章21-22節およ び27ー28節は、何を聴衆に問い かけようとしたのか81~105文 字で述べなさい (問3)「ぶどう園の日雇い労働者 の譬え話」は、 (1)一見したところ、なぜ不公平な話 のように読めてしまうのか、41~ 60字以内で述べなさい (2)イエスが、この譬え話を通して語 ろうとしたことは何だったのか、4 1~60字以内で述べなさい (問4)「神の無条件の赦し」の学 び(批判と交わり、山上の説教、放 蕩息子、姦淫の女とイエス、ぶどう 園の日雇い労働者の譬え話)から、 (1)イエスの人間論(人間の捉え方) を41~60字以内で述べなさい (2)イエスの神論(神の捉え方)を4 1から60字で述べなさい 問題を写しただけですみません。 わかるところだけでもいいので回答おねがいします。

  • 聖書の宿題について教えてください

    聖書について教えてください イエスのアンチテーゼ、ヨハネによ る福音書7章53節、マタイによる 福音書20章1~15節について 、学校の宿題の答えがわからないのでわかる方は教えてください。 (問1)「姦淫の女とイエス」の物 語で、R.ブルトマンが語った言葉の意 味を物語に即して81~105字で 述べなさい。 (問2)イエスのアンチテーゼは、 (1)何に対する反対命題なのか、 (2)特にマタイ5章21-22節およ び27ー28節は、何を聴衆に問い かけようとしたのか81~105文 字で述べなさい (問3)「ぶどう園の日雇い労働者 の譬え話」は、 (1)一見したところ、なぜ不公平な話 のように読めてしまうのか、41~ 60字以内で述べなさい (2)イエスが、この譬え話を通して語 ろうとしたことは何だったのか、4 1~60字以内で述べなさい (問4)「神の無条件の赦し」の学 び(批判と交わり、山上の説教、放 蕩息子、姦淫の女とイエス、ぶどう 園の日雇い労働者の譬え話)から、 (1)イエスの人間論(人間の捉え方) を41~60字以内で述べなさい (2)イエスの神論(神の捉え方)を4 1から60字で述べなさい 問題を写しただけですみません。 わかるところだけでもいいので回答おねがいします。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 神はみづからを揚棄しちゃった:クリスチャン批判

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は   みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  けっきょくイエスによって  そしてそれがルカおよびパウロをつうじて  成就したと語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ▲ (ルカによる福音書 22:17-20) ~~~~~~~~  そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。  ・・・       「この杯は〔十字架じょうのはりつけにおいて〕     あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシヘ〔を人間のチカラのみによって守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシヘ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシヘは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシヘは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神はそれぞれの名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  (δ) ならば 宗教という宗教 オシヘという〔それを守るべきという意味での〕オシヘ そしてその組織・教会・聖職者 これらはみな・すべて・いっさい 要らない。  なぜ存続しているのか? おしえて欲しい。