• ベストアンサー

(シベリア抑留)収容されていた収容所の調べ方

hamazo2004の回答

  • hamazo2004
  • ベストアンサー率27% (292/1068)
回答No.2

厚生労働省の中に擁護局というものがあって、「戦没者遺族等への援護」として「~ロシア連邦政府等から提供された抑留者に関する資料について~資料の一覧や死亡者名簿が閲覧できます」の中に死亡者以外の名簿もありますが、ごく一部です。先日もロシアの中央アジアのある共和国で名前が別で登録されていた日本人が見つかりました。厚生労働省擁護局に直接確認してみたらどうですか。

参考URL:
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/
lovemomonga
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 リンク貼っていただいたページはとても参考になりました。 まだ全部見ている途中ですが、埋葬場所ごとにも記録があるとは存じませんでした。 しかし、「死亡者名簿」の中には祖父の名前はありませんでした。 帰還途中の死亡だから帰国者扱いになり、死亡者名簿には載らないのでしょうか? つい先日新聞に掲載された、抑留死亡者名簿の中に、送還のための中継所での死亡者リストがありました。 しかしその中にも祖父の名前はありませんでした。 すべて方のお名前に目を通したのですが、祖父の名前や、祖父の名前に音(おん)が似ているお名前はありませんでした。 「抑留時の死亡者」としてみなされてなかったから、資料の対象にならなかったのでしょうか。 ありがとうございました。

関連するQ&A

  • シベリヤ抑留で食料の豊かだった収容所はありますか?

    シベリア抑留体験記を読むと、一様に食料の乏しかったことが書いてあります。 しかし先日、昭和24年の地方紙に、シベリア帰還者の帰還直後の談話が載っており、印象を新たにしました。 「抑留生活はいろいろ内地で伝えられているでしょうが、真実のところは待遇は決して悪くないのです。 勿論インターナショナルの教育はされましたが、食料なども私はザツトニアというところに収容されておったのですが、一日に米三百グラム、雑穀百五十グラム、パン三百五十グラム、ヤサイ八百グラム、サトウ十八グラム、茶五グラム、塩油六、七グラムが配給され栄養は充分でしたし、われわれ同胞は皆元気で帰ってきますよ」 信じがたい話ですが、これはインターナショナルの教育をされていたので、ソ連を賛美している結果でしょうか。 それとも待遇のよかった収容所が存在したのでしょうか。 ザツトニアという場所は地図で確認できませんでした。 よろしくお願いします。

  • シベリア抑留の、収容所の数について

    シベリア抑留され、 ソ連で労働させられていた人たちが集められた収容所って、 複数個所あったのですか?

  • 日本人抑留者死亡者名簿について(名前が見つからない

    どなたかお願いします。 つい先日、日本人抑留者死亡者名簿(シベリアへの抑留)が公開され、新聞にも掲載されたところです。 祖父の名前を探したのですが、見つかりませんでした。 祖父は、満州で働いていましたが、その後シベリアへ抑留され、日本へ帰る途中で、病気になり亡くなったときかされています。 亡くなった地がわかれば訪ねていきたいと思っておりましたが、ここでも名前が見つかりません。 (7,8年前に、新宿にある記念館の名簿も見てみましたが、私の見落としでなければ、名前はありませんでした。) 今回新聞に掲載された名簿には、本国送還の中継所での死亡者名簿がありました。 その中に名前があるかと探しましたが、ありませんでした。 名前の表記が大幅に間違っている可能性も考え、今回新聞に掲載されたすべての名簿に目を通しましたが、祖父の名前はありませんでした。 今回公開されていない(日本側に渡されなかった)名簿が、まだどこかに存在する可能性があるということでしょうか?

  • シベリア捕虜収容について

    終戦直後に武装解除しソ連軍によってシベリアの捕虜収容所に送られた兵士たちの消息は (1)兵士の家族に知らされていたのでしょうか?(国交がないので通告は無かったと推測しますが) (2)無いとした場合、留守家族が戦死したものと死亡届をして戸籍から抹消したなんてケースはなかったのでしょうか?(例えば、残った妻が再婚(よく当該者の兄弟と再婚すると聞きますが)する場合) (3)抑留者の帰還は長い人でどの位の年月だったのでしょうか? 以上、シベリア抑留について教えてください。

  • シベリア収容所

    第二次大戦後父親がシベリアに抑留されていました。厚生労働省から取り寄せた資料によると 収容所NO..330でアクモレンスクという場所だと分かりましたが、地図の上でどこなのかを知りたいと思います。どなたかご存知の方がおられたらお教え下さい。収容所に関する書籍の名前でも結構です。

  • シベリア抑留(帰国者の祖父)

    私の祖父はもう他界しておりますが、その祖父は軍医の一人でシベリア抑留から命からがら帰国したうちの一人だったと、今はもう高齢の父から聞きました(←祖父の息子です) 祖父とは子供の頃に会ったことがあるけど、昔ながらの人の感じは一切なく、いつもニコニコして楽観的というか…シベリア抑留を経験してたと聞いた今思えば『シベリアで受けた経験に比べたらどんなことも耐えられる』と思って生きてたのかな?と思うところなんですけど、たまたま調べてみたら今日2月7日は『北方領土の日』なんだそうです。シベリアとは何か関係はあるんですか? 祖父がいない今、シベリア抑留がどれだけ過酷な環境だったかなどはネットで調べればいくらでも出てくるけど、シベリア抑留の日本人が日本に帰国できた日付などといったことは私が調べた限り出てきませんでしたので、北方領土の日という今日がシベリアも関係しているのかなど含めて、どなたか教えてください。

  • 祖父の戦時期の経歴を参照したいのですが(出兵~シベリア抑留まで)

    質問させていただきます。 平和祈念事業特別基金という独立行政法人があるのですが、その機関が戦後強制抑留者に対して特別慰労品を贈呈していることを知りました。 私の祖父は現在90歳ですが、過去にシベリアに抑留された経験があります。 そこで、これも何かの縁として、この制度に応募してみようとしてみた所、書き込むのに必要な情報がかなり欠落していることに気づきました。しかし、私の祖父の記憶では細かい所まで網羅できず、困っております。 必要な情報としては、 (1)何年何月に何という部隊に召集され、(2)どのような履歴を経て、軍人として戦い、(3)どの時点でソビエトに抑留され、(4)シベリアに抑留されている時はどの収容所にいたのか(5)外地に出向する際にはどの港からどの船にのって帰ってきたのか、(6)日本に帰国した日付けと港名 です。 最も必要な情報は、シベリア抑留時の情報で、「収容の日付」「収容場所」「引き上げ日付」等です。 この行政機関は過去にも様々な贈呈品(書状・銀杯等)を抑留者に対して送ってきていたようなのですが、私の家族は誰もそれに気づいておらず、今回が初めての応募になります。 「このような場所で参照できるよ」「こういったことろで教えてもらえば?」など、どんな情報でもかまいませんので、ご教授下さい。 また、祖父の履歴は私自身興味があることなので教えていただければ幸いです。

  • シベリア抑留からいつ日本に戻ってきたかを知りたい

    わたしの父は、シベリア帰りです。 満州鉄道に勤め、そこで応招。 戦後 カザフスタン共和国で強制労働させられました。 父は今から14年前に他界しました。 当時のことは、父から直接聞いたことが殆どありません。 最近になって父の歩んできた人生がどうだったのかを知りたいとねがうようになり、 今調べていますが、母も他界しており、親戚との付き合いも途絶えて、 周りに父のことを知っている人がいません。 それで自力で父が遺したシベリア抑留関連の書籍や、 折々に僅かに聞いたことのある戦中の思い出話などから、 所属していた部隊とどういう経緯で抑留されたかまではつきとめましたが、 部隊への入隊時期やどの引き揚げ船でいつ日本に帰還したかが分かりません。 どこか、こういうことを調べることが出来る機関や方法はありませんでしょうか?

  • 地獄のシベリア収容

    こんにちは。 大日本帝国は悪かったから中国残留孤児や、シベリあ収用者はいじめられて当然だとかよく知らないと思っているものがほとんどだと思います。 シベリア収容所の実態は著書で読みましたが、なにか特筆すべきことがあれば教えて下さい。 あと、日本政府は北方領土問題云々でロシアに金払っています。金もらうのは日本の方なのになぜ日本は払っているのか。なぜシベリア収容の犠牲の賠償金を求めないのか気になりますがわかる方おられますか? 帰還者がどうなったのかも殆ど議論にならず、ハバロフスク小唄とか全く知られていないし。帰還者はどうなったのかも知りたいです。ソ連にかぶれたという話が本当かどうかも。 日本政府とアメリカの共同交渉で帰ってきたといいます。その意味ではアメリカに感謝してもいいのでしょうか? いろいろ教えて下さい。よろしくお願いします

  • クイラレトフカという地名をご存じありませんか?

    いつも利用させていただいております。 かなり長文になりますが質問させていただきます。 「ロシア(ソ連)クイラレトフカ」という地名をご存じな方はおられませんか? 自宅を掃除していたところ、ご先祖さまが靖国神社に祀られている史料がありました。史料は靖国神社から出された物で、内容はどうやらシベリア抑留にあい、所属部隊、階級、死亡日時等々が書かれていました。 気になった点は死亡場所が「ソ連クイラレトフカ」と記載しておりました。厚生労働省が掲載している「ロシア連邦政府等から提供された抑留者関係資料」の中にある「旧ソ連抑留中死亡者名簿」を調べたところ、ご先祖さまの名前がありました。 死亡者名簿の資料から埋葬場所はxxxx第xxxx労働大隊レソザ・ボツク市とあり地方がプリモルスク地方(沿岸地方)と記載されていました。(xの個所は抑留中の部隊と思われる数字が書いてありました。) やはり気になっているのが「クイラレトフカ」という名前で、死亡者名簿からも名前が出てこず、Yahoo!やGoogleの検索エンジンにかけても「クイラレトフカ」という名前はヒットしませんでした。ただ、靖国神社からの史料では死亡場所が「クイラレトフカ」と記載されていました。 祖母の話では抑留中に同郷の方がいたそうで、シベリアからの引き上げ後に家を訪ねて来られ死亡したご先祖さまの事を聞いたそうです。しかし内容は覚えていないといい再現性も低く…。 どなたか「クイラレトフカ」という地名をご存じな方がおられましたら教えていただきたいです。よろしくお願いいたします。