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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:研究を論文として発表しない大学教員)

研究を論文として発表しない大学教員の問題

TANUHACHIの回答

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.6

 僕自身の考え方としては、学部生も院生も「同じ机を並べる仲間」ともいえる間柄ですね。むしろ学部に入りたての若々しい感性から提起される質問には本質的な部分を突いていると呼びうる部分も多く、そうした素朴な疑問に出会うほど、自らの未熟さを検証し直す拠り所となることでありがたいと感じもします。  それに「完全なるもの」があると考えるならば、それはこれまでに当該の専門領域がなぜ発展してきたのかを否定する材料にもなってしまい、自らの研究領域での研究史総括を行う意義を見いだせなくなってもしまうことになるはずで、それは同時に全てが何れは研究し尽くされるとの結論にもなってしまうことにもつながりかねません。  完璧などない、これは学問に携わる者の全てが本来は肝に銘ずべき原点でしょう。僕は元々社会人学生として改めて大学の門をくぐりなおしてもいますから、大学でしか通用しない或いはその専門領域でしか通用しない言葉にも少し疑問を持ち続けてもいます。  「保証」なり「権利の譲渡」といった問題に関していえば、「保険会社」が顧客に販売するのは一通の契約書だけです。その契約書の内容に関しての見直しなどがあれば、それを変更した時点で「権利裏書」と呼ばれる契約内容に関する変更内容と期日が契約書の裏面に書き加えられもします。  日本の古代および中世史学もしくは法制史の領域では、そうした「契約内容の変更」を示す史料を発毀文などとも呼び、最初の所有者から次の所有者に権利が委譲される時に「最初の契約書」に「毀」もしくは「×」といった証が書き加えられ次の契約者に手渡されていきます。それがAからBそしてCなどへ転売されていく度に元々は「Aが所有していた」との券文を含めた全ての契約関係に関するものが「手継ぎ」として新たな所有者のものになっていく形です。その時には「最新の所有者」に至る以前の所有権者の証文には全て「毀もしくは×」が付加されている形になり、こうした形式を手継売券文などと呼んでいます。  現在ならば「権利裏書」で済む事も日本の古代や中世社会でも類似する行為を既に行っていたとの部分一つを巡っても企業社会に身を置く者と学問に身を置く者では180度異なる事もこうした部分から垣間見ることができ、とても興味深いものもあります。  不完全な形での発表が意味するものも含めて考えて然るべきでしょうね。この部分にはまだ検討の余地があり、それをたぐり所として次への展開とするならば、それは専門領域にとっても刺激となるはずですから、大いに結構な事であると存じます。  大元を辿っていけば、学問との営みが「一つの事象を言葉によって、どの様に定義づけるか」との部分に派生すると僕は考えており、その定義の仕方が研究者それぞれの分析視角やら方法論の選択によって異なりもし、それによって議論が起こり新たなステージへと昇華していくとの相乗作用の繰り返しと考えております。僕自身もまだまだボコボコにされるケースもあり、学生に対しても大きな事など言える立場でもありませんから、むしろ対外試合の経験を多く踏ませる様にアドバイスし続ける日々です。批判を恐れていては、自らの研究課題に対し何のメリットもデメリットも見出すことは叶わない。むしろ批判される点こそが今後の強みにもなっていくと言える、と僕は考えております。  前期後期もしくは年度末の試験では「このままでは流石に単位を認めることは難しかろう」と判断される以外はそれなりに許容もしますが、余りにもひどい場合には直接にその学生と話し、双方で理解と納得に達した時点でやむなく「不可」を付けてもいます。撃墜王などとこのサイトでは揶揄もされているようすですが、それなりに理由もあり、鬼や悪魔などと呼ばれてもそれは必ずしも悪逆非道な行為ではないことも付加させていただきます。いずれはその言辞を賜ったご当人がこの質問にも参加してくる可能性がありますから。  「国文科」などの呼び方は僕自身も好きではなく、類例は嘗ての東大にあった「国史学科」にも見られます。何かドメスティック的な「内輪の論理」との印象が引っ掛かりを感じます。  D先生やP先生からすればまだまだ青二才にも満たない者がこの様なことを申してご不快にさせてしまったならばお詫びを申し上げる次第です。

noname#187976
質問者

お礼

 気合いの入った回答、どうもありがとうございます。 >完璧などない、これは学問に携わる者の全てが本来は肝に銘ずべき原点でしょう。  完璧など無いから、他人に優しくなれる人もいます。しかし完璧など無いけれどそれを目指すべきだと考えて、自他ともに厳しくなる方もいらっしゃいます。この差が大きいのやもしれません。 >撃墜王などとこのサイトでは揶揄もされているようすですが、それなりに理由もあり、鬼や悪魔などと呼ばれてもそれは必ずしも悪逆非道な行為ではないことも付加させていただきます。  それはそれは(笑)。苦労なさいましたね。でもT先生は、喝を入れることが多いようだから、潰してしまう危険もあるでしょうね。しかしT先生は現役で、まだまだ論文をたくさんお書きになっているのでしょう?

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