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お菓子・統制・政府

bazarakmの回答

  • bazarakm
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回答No.4

>>昭和18年以降は、ガム、ビスケット、ドロップ、キャラメルなどのお菓子はないということになります 戦中戦後の日本には子供向けの菓子類は遠い珍しい存在でした 元々この時代、一般家庭の子供は家庭で造られた物を食し、メーカーで製造されたものを口にするのは稀でした 子供たちのお八つには主として、母親が自身で家庭にある材料で、団子、煎餅、果物、芋類などを調理加工して与えていました その他では野山に出来る季節の果実を子供達自身で採集する習慣もありました 又、消化器系の感染症が夏期に毎年のように発生し非衛生な環境の駄菓子屋などへ子供たちが行くことを多くの家庭では子供に禁じていました 金銭や食品は大切なものとして扱われ子供たちが小遣いを手にするのは正月のお年玉と神社の祭礼のときぐらいで商店で菓子などを買う習慣も無い時代でした 従ってキャラメル、ドロップ等が市場から消えても子供の日常にはさほど変化はありませんでした 子供達がこれらの菓子類を口に出来るのは学校の遠足と運動会、町や村の祭礼の日等に限られ非常に待ち遠しく楽しみな行事でした、遠来の来客などがあると土産にキャラメルやビスケットなどを持参し子供を喜ばせることは有りました 全体に貧しくて慎ましい生活態度を送っていました 裕福な家庭の子等でも周囲の子供たちのレベルに合わせる節操も心得ていたと思いますが時折こういった家庭に遊びに行くと三つ豆やホットケーキなどを供されて感動したものですが、これらも自家製でその家の主婦の手造りによるものでした 闇市で扱っていた商品は大きく分けて生活必需品と嗜好品に区別されると思います 前者は米、砂糖、農産物、魚貝の干物それに古着など後者は酒類、タバコ、ご質問のキャラメル、ドロップ、チョコレート、チューインガム、それに高級衣類等などだったと思います 価格は余り高いと買う人がいませんからそこそこだったと思います 必需品は各家庭で工夫をしていました一例として子供の衣服は母親が自身で縫製していました 簡単服などの名前で婦人雑誌には大人の衣類を解体して子供服に作り変える方法や型紙などが連載されていました 当時の主婦は着物或いは洋服どちらかは製作できる技術を持っていました 食品は近隣の農家などへ直接買出しに行っておりました これは男の仕事でしたが金銭で買うと農家の現金収入が増加し税務署に指摘されることもあり物々交換でした 自宅にある晴れ着や貴金属を米や野菜と交換して貰う事が行われました 食糧難で深刻だったのは乳児のミルクだったと思います 近隣の母乳の良く出る人に頼んだりしていましたがそれが見つからないときは高額でも闇市で手に入れることも止む無いことでした その費用は手持ちの貴金属や着物を売却して工面し、それが又闇市で売られるという循環でした 質問の意に添っているでしょうか? 具体的な追加質問あれば又回答します

noname#86044
質問者

お礼

ありがとうございました。 初めて聞く話ばかりでとても参考になります。 >具体的な追加質問あれば又回答します お言葉に甘えさせていただく事にします。 少し質問からそれてしまうのですが。 実は、他のところでも質問したのですが、戦時中にサッカリンを砂糖の代用品として量り売りしていたという話を耳にしました。代用品でも貴重であったという回答をいただいたのですが、各家庭ではどのくらいの頻度で使用されていたのでしょうか? あと、これも少々質問の本筋から離れた質問なのですが、戦前の雑炊食堂についてです。全国に何件ほどあったのでしょうか?また、食べに来た人が列をなして並んだそうですが、待ち時間が3~5時間もかかったというのは本当なのでしょうか? お手数でしょうが宜しくお願いします。

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