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「正しい歴史認識」の定義って何?

中国や韓国は日本の話をする時、何かと「歴史認識」って言ってますが、 中国や韓国の言う「正しい歴史認識」って一体何なんでしょうか? これは私の勝手に思いついた例えですが、 「大政奉還により徳川幕府が終焉した。」という歴史的事実があります。 徳川から見た視点、薩長から見た視点、 徳川慶喜から見た視点、篤姫から見た視点、坂本龍馬から見た視点、 一般武士から見た視点、江戸の町民から見た視点、 色々あると思います。 では「正しい歴史認識」とは一体何か? 徳川幕府は悪だから滅びたのか? 薩長は正義だから勝ったのか? 私個人としては違うと思います。 他の歴史にしてもしかりです。 源氏が平家を滅ぼしたとか、家康が大坂の陣で豊臣を滅ぼしたとか。 でも中国や韓国の言い分ではどうも上記のような事を日本に強請してるようにしか思えません。 「歴史的事実」は一つですが、「歴史の見方」は個人や立場によって全然違ってくると思います。 「正しい歴史認識」なんて答えが出るはずがないと思うのですが、 皆さんはいかが思われますでしょうか? なかなかややこしい問題だと思われますがご意見宜しくお願い致します。

みんなの回答

  • hunaskin
  • ベストアンサー率30% (1855/6063)
回答No.4

>正しい歴史認識」なんて答えが出るはずがないと思うのですが その通りですね。 ですから、どの国も自分の利益になる歴史解釈を他国に求めます。 私たちは世界の歴史を日本の視点で学んでいて、それを正当で公平なものと思い込んでいますがそれも疑わなければいけませんね。 自分たちだけが例外と考えるのはダブルスタンダードです。 ただし、政治的なテクニックと科学的な歴史認識を取り違えたり混同したりしても役に立ちません。 交渉の場では自分たちに有利な解釈をとり、正当性を主張すれば良いのです。

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回答No.3

実際にあったかどうかなんて水掛け論をしてもきりがありませんけど、「日本国からの戦後補償はもう終わっている」のも歴史的事実で、故にあちらは「従軍慰安婦問題」という「個別の案件」ばかり主張してくるのでしょう。 その「個別の案件」を国レベルで主張してきているから話がおかしくなっている。では、個々の事情に応じた補償の対応をするので該当者と個別に面談し事実確認させてくれ…と言ったら?? 故にそういうややこしい問題は「後出し」が起きないように「示談」でこれ以上この件に関して異議は申し立てません…と即時解決してしまうのですがね。 終戦直後に取り決めるべきことで、例えば日本がここに来て明らかとなった原爆の事実から今更改めて謝罪と賠償をアメリカに請求したところで、何の意味もないでしょ? 歴史的事実なんてどうだって良いんですよ。国際社会では公式な結果のみが「事実」なので。

bonky653
質問者

お礼

要は国が自国民に対してカッコ付けたいだけですよね。 そんなことしても何もいいことないのに、 「ご近所付き合いだから小さいことはこだわらずに仲良くしましょう。」 ってならないんですかね。

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  • localtombi
  • ベストアンサー率24% (2911/11792)
回答No.2

確かに正しい歴史認識というのは、どういう側面で見るかによって全く違ってきます。 スポットの当て方で、いろんな見方ができます。 例えば歴史的な話になりますが、もめている竹島(韓国名:獨島)ですが、ひとつの例を挙げれば、韓国は朝鮮王朝の文献や地図にたびたび登場する「干山島(ウサンド)」を竹島であり、新羅時代から統治してきたと主張しています。 一方日本政府は、過去の地図や史料などから干山島は鬱陵島(うつりょうとう)または実在しない島を指すとしています。 こういう意見の食い違いはほんの一例ですが、韓国にすれば自国の主張が「正しい歴史的認識」ということになります。 問題なのは、そんなにもめるならば、日韓、日中で問題となっている島の帰属について、両国間で専門的な学者や有識者を出し合って徹底的に共同研究をして、その結果は相互の国家間で拘束される・・・というようなレベルの話し合いを持つべきかと思いますが、お互いに自国の主張が崩れることを恐れて何もしていません。 むしろ、そういう場に参加することは自国の主張に齟齬があることを認めてしまう(徹底的に正しいのに、なぜそんな研究をするのか)・・・という幼稚な理由によって実現していません。 結局のところ「正しい歴史認識」というのは、“自国の主張の通りに歴史を解釈しなさい”“関係者の都合のいいように解釈しなさい”ということかと思います。

bonky653
質問者

お礼

要するに「正しい歴史認識」=「自分達に都合の良い歴史解釈」なんですよね。 戦争から1世紀も経ってないのに当事者同士で評価し合ってもすれ違うばかりで 交わる事は決して無いって分かってるのにね。 歴史の評価は1世紀、2世紀経ってからやっても遅くはないと思うのですけどね。

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  • pluto1991
  • ベストアンサー率30% (1990/6599)
回答No.1

歴史はその時の為政者によって書き換えられる。 真実ですね。 NHK大河ドラマの「徳川三代」オススメしますよ。ちょい古いですが。 歴史とは絶対に書き換えられるものなのだとよくわかります。 >>中国や韓国は。。。。 のくだり。 そういう意味では戦時中の日本をさんざん悪者扱いされるのも「歴史」における定石なんですよね。 書き換えられる前の真実が「正しい歴史認識」なのか、書き換えられた歴史を知ることが「正しい歴史認識」なのか。。。。 書き換えられる前の真実、 なんて書いてしまいましたが、それだってどこかに書いてあるものなんだから、誰かが書いたのであって。。。。 うーーーん。 答えはわかりません。

bonky653
質問者

お礼

大河ドラマは「伊達政宗」以降はほぼ全作見てます。習慣で。 それらを見たからこその意見です。 同じ幕末物でも「飛ぶが如く」、「徳川吉宗」、「篤姫」、「龍馬伝」 視点の違いによって全然違います。 歴史の流れってそんなもんですよね。

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