解決済みの質問
「壬生義士伝」で初めて幕末をかじりました。壬生義士伝は新撰組の話なので他はあんまりでてこないのですが、あのあたりでの天皇というのはどういう位置付けだったのですか?流れ的には徳川幕府が大政奉還しますよね?(これって誰に奉還なのだろう?)でも、まだ薩長と会津系が戦っている。小説では薩長側は会津や新撰組に対して「錦の旗に弓をはなった」的ないいぐさをします。つーことは天皇は薩長側ってことになる。が、会津系も別に天皇にさからったつもりはなさそう。幕府も会津系も開国も大政奉還もOKで、だからといって薩長がなんで政権にぎんねん!の一点で戦いつづけたのでしょうか?とにかく徳川幕府終焉も開国もみなOKだったのになんで戦ってたのでしょうか?あと、天皇はどこにいたのでしょうか?江戸城?京都?あと、鳥羽伏見の戦いの時徳川慶喜は京都にいたらしいのですがなんででしょう?江戸城じゃないの?
すいません、どしろうとむけにお願いします。
投稿日時 - 2003-02-23 15:24:42
自分も同じ疑問もっていろいろ調べました。
<薩長側は会津や新撰組に対して「錦の旗に弓をはなった」的ないいぐさをします。つーことは天皇は薩長側ってことになる。が、会津系も別に天皇にさからったつもりはなさそう
ですがそのとおりなんです。
薩長がいう天皇てのは明治天皇です。会津はその前の孝明天皇(だったと思う、名前イマイチ自信なし)に非常に信頼されてました。だからどちらも「天皇に信頼されて天皇のために働いている」んですね。ただこまったことはこの二人の天皇の考え方にかなり違いがあった、ということです。
孝明帝は攘夷論者で徳川家とともに公武合体にむかっていました。
しかしその考え方は薩長や薩長寄りの公家、たとえば岩倉具視なんかにはまったく望まない方向だったんです。彼らは外交して徳川家を滅ぼしたかったんですよね。
そこで彼らは孝明帝が急死(暗殺ともいわれる)したのをいいことにまだ若い明治帝を担ぎ上げて自分たちに都合のいい天皇を立ててしまったんです。
<幕府も会津系も開国も大政奉還もOKで、だからといって薩長がなんで政権にぎんねん!の一点で戦いつづけたのでしょうか?
ほんとは徳川家と一緒に恭順しようとしたんですが薩長が京都で会津藩見廻りや新撰組にさんざんいじめられた腹いせしようと「降伏すんなら藩主松平容保の首差し出さんかいっ!朝敵やぞ、おのれらはっ!」と言ってしまったんですね。会津は前に書いた通り天皇(この場合孝明帝)の非常に信頼されていたので「朝敵とはなんじゃあっっ!」と怒って戦いをいどんだんです。幸か不幸か会津藩は軍事力もあり薩長の仙台藩抱き込み工作が大失敗に終わってしまい「奥羽越列藩同盟」なんてのを作らせちゃったもんで戊辰戦争という大きな内乱がおきて閉まったんですね。
詳しくは「そうだったのね!日本史」というサイトみてくださいね。アドいれようとしたんだけどパソ初心者の自分にはやり方わかんないです・・・
投稿日時 - 2003-02-24 00:16:04
お礼
有難うございます。「そうだったのね!日本史」見ました。なんちゅー面白さだ!。ペリーから西南戦争まで読みました。すごーく良くわかりました。でもruthlessさんのおっしゃる孝明帝と明治帝の話はでてこなかった。天皇が二つ立つってのは足利っぽいですね。そうなんだ。あとわからなかった事が、最初は幕府軍は軍事的に十分勝てる戦力だったと書いてあるが、鳥羽伏見以降全敗。これはやはり志が中途半端だったからかなあ。やはり革新側の方が考えがしっかりしているというか。
長州ってのは一貫して過激派(?)だったんですね。薩摩はまず、英国にさからって攘夷と思わしといて長州を会津とともに討ち、さらに薩長同盟で幕府を討つ、とちょっと分裂症的でわかりにくいですね。
投稿日時 - 2003-02-25 01:21:35
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ベストアンサー以外の回答(4件中 1~4件目)
「そうだったのね!日本史」のHPを参考URLで紹介します。
いろいろコンテンツがあるのですが、わかりやすいのは
「さかもとりょうこの年表解説」です。
ここだけ読めば、幕末も含めて日本史の流れはバッチリです。
それから「ペリー来航からの10年がわかってないと飲み込めない」
というのは、半分当たっていますが半分はずれています。
本当は江戸時代の最初から追いかけないと、わからないです。
例えば、何で会津藩の悲劇が起こったかなどは、初代藩主
である保科正之のことをわかっていなければ理解できない
内容です。
ということで、江戸時代から幕末までを楽しく学ぶ(?)ために
下記のマンガを紹介します。
『風雲児たち』
これ読めばバッチリです。他にいらないくらい(;^^)
ちなみに連載では、ようやくペリーが日本にやってきました。
実に気の長いマンガですが、それだけの内容はあります。
(それに何といっても面白いです。(^^))
参考URL:http://ww1.tiki.ne.jp/~i-mitu/,http://satouno.hp.infoseek.co.jp/eiga/fuuunzitati.htm
投稿日時 - 2003-02-24 22:31:59
補足
みなさまありがとうございました。そうだったのね日本史はとっても気に入りました。他の人に紹介するととっても受けます。風雲児も1巻買いました。面白いです。
投稿日時 - 2003-03-31 00:28:48
お礼
有難うございます。
壬生義士伝をきっかけに江戸時代までさかのぼる事になった。うーん、そりゃそうですよね。それにしても鯨取りのペリーが日本をこんなに揺るがしたというのが痛快ですね。意図せず歴史が動いちゃったってのがいい。
なんとなく歴史は「信念」みたいなものがあるかのように描かれますが、それはどうかというのがあったんですよね。基本的に大なり小なり日和見主義なはず。じゃなきゃあ逆におかしい。あほじゃないなら得する道を選ぶはず。「義」とか言ったって、それを守る事が得なわけだから。日本は開国し、強くならなきゃいけないってのは会津だろうが薩摩だろうが共通なはずなのになんで争ったのかなあ、というかそのメカニズムというか状況を知りたかったという感じです。ところで「風雲児」ってのは面白そうですね。読みたい!。さかもとりょうこもほんっと面白いですね。
投稿日時 - 2003-02-25 01:43:58
本で齧ったのならその先も本で読んだほうが分かりやすいかも。
というわけで、例えば司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」
「最後の将軍」「世に棲む日々」(文春文庫)をお勧めします。
新撰組側から見た流れなら土方歳三を取り上げた
「燃えよ剣」(新潮文庫)でしょうか。
幕末の歴史ってのはペリー来航から10年ばかりの流れが分かってないと、
よく飲み込めない部分があります。#1や#2の回答も間違いではありませんが、
そこにくるまでの経緯がいろいろありますのでねぇ。
投稿日時 - 2003-02-23 17:04:45
お礼
有難うございます。
ペリー来航からの10年がわかってないと飲み込めないってのは、うすうす感じていました。ほんとに複雑だ。
なにぶん元々本読むの得意な方ではないので(恥)。でも、読みたいなとは思っているのです。幕末の本なんて死ぬほどあるので途方にくれていました。4冊に絞っていただいてありがたいです。壬生義士伝は別のきっかけでたまたま読む事になり、最初は「うわ歴史ものだ」と思ったのですがなんだか読みやすくて読めちゃいました。その結果、ちょっと興味が...。とりあえず、壬生義士伝内での疑問をぶつけてみました。なんだかほんとに恥ずかしくなってきたなあ。幕末関係のHPもいくつか覗いてみたのですが、なんだか難しくて。しろうと向けに教えていただければなと思いました。
でも、とにかく鎖国という特殊な環境から開国する運命にあることは誰もが否定できない状況で、そもそもどこをポイントとして彼らは争ったのか?というのが大きな意味での疑問です。きっとそのドアの開き方にそれぞれのこだわりがあったのだろうと。
投稿日時 - 2003-02-23 18:24:34
>あのあたりでの天皇というのはどういう位置付けだったのですか?
政治的権力の法的根拠だったと思います。
>これって誰に奉還なのだろう?
天皇です。
>幕府も会津系も開国も大政奉還もOKで、だからといって薩長がなんで政権にぎんねん!の一点で戦いつづけたのでしょうか?
慶喜が大政奉還して恭順の意を表したのに、薩長が小御所会議で慶喜の辞官納地を決定したので、幕臣や会津・桑名の二藩が激怒し、鳥羽・伏見の戦いへと繋がっていったと思います。
>あと、天皇はどこにいたのでしょうか?
江戸開城までは京都にいました。明治天皇は、江戸城の素晴らしさに、きょろきょろしていたそうですよ。
>あと、鳥羽・伏見の戦いの時徳川慶喜は京都にいたらしいのですがなんででしょう?
鳥羽伏見の戦いの時は、大阪にいました。そもそも、慶喜が関西にいたのは、大政奉還の上表文を提出するためで、小御所会議の決定に激怒した幕臣や会津・桑名を京都で制止しています。その後大阪に入りましたが、鳥羽・伏見の戦いに敗れたため、慶喜は兵庫から海路で江戸に逃れました。
投稿日時 - 2003-02-23 16:20:07
お礼
有難うございます。
法的根拠。うんうんよくわかります。天皇という根拠をイス取りゲームしてたのでしょうか?幕府側はそのゲームに負けちゃったのかな。つまり、幕府は「うちら天皇側ですよ」という風に持っていけなかったのでしょうか?ココから難しいですね。辞官納地...要は徳川家は大政奉還のみならず、土地も全部返せとかいう事かしら?。なるほどそこに会津、桑名が怒ったと。薩長ごときが何様だという感じでしょうか?うーん、ということはどうあれ薩長中心の新政府という方向にどちらにしても会津・桑名は抵抗したという事になりますかね。このあたりですね、微妙なのは。徳川含め会津、桑名は大政奉還後どうあるべしと考えていたのでしょう?
慶喜が関西にいたのは大政奉還の上表文を提出する為なんですか?そうなんだ。なるほど。それで、激怒した会津。桑名を制止しした。面白いですね。でも制止できなかったわけですか。うーん。軍事的に勝ち目がないとわかっていたのでしょうか。慶喜が江戸に逃れたというのは壬生義士伝にも書いてあり、「腰抜け」的に言われていた。でも制止したならねえ。戦争すりゃあいいてもんでもないですしね。勝ち目のない戦をしかけた会津がよくない気がしますねえ。それとも勝ち目あったのかな?
投稿日時 - 2003-02-23 18:12:39
えーっと、まず。会津藩ってのは、松平家なんですよ。松平ってのは、徳川家康が前に名乗っていた名前です(この辺の詳しい事は省きます)って事は徳川将軍家の親戚ですよね。その中でも会津松平家ってのはこの時期の幕府に非常に頼りにされていました(ってより、軍事的には唯一アテになる存在)で、薩長は自分達の正義を主張するために、公家をうまくあやつり、京都御所の天皇を利用していた訳です。これの中心的人物が西郷吉之助(隆盛)であり、大久保一蔵(利通)などがいた訳です。要は政治力の差で、幕府はまんまと、国賊にされてしまった訳です。
かいつまんで言うとこんな感じです。
投稿日時 - 2003-02-23 15:45:14
お礼
有難うございます。
そうなんですか。松平家なんですね。と言うことはどうころんだって、幕府と会津は仲間なわけですね。軍事的に頼っていたというのは壬生義士伝にも描かれていました。ただ、幕府が「もういいです(大政奉還)」ゆうてんのに会津が戦ってるのがいまいちわからないんですね。というか薩長が攻めてきたからしかたなくって事でしょうか?それと、鳥羽伏見の前は会津は京都を守っていて(何を守ってたのだろう?徳川は江戸なのになぜ京都?)、薩摩と同盟組んで長州征伐なんてしてる。これって天皇側だったということでしょうか?それとも徳川の為の長州征伐なんでしょうか?なんとなく薩長という反乱分子を征伐しているつもりがいつのまにかおっしゃる政治力でだましぶねのように知らん間に天皇に弓ひいていたみたいな感じがするんですが、しかしその前に徳川もう降りてるやろと思っちゃうんですが。そこらあたり...。あほですいません。
投稿日時 - 2003-02-23 17:57:00