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素朴な疑問

こんにちは。 http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2800427/7226101 ホーキング博士の事はよく知りませんし、この発言の裏にどういう意図があるのかも知りません。 でも、信仰の無い人はよく同じ発言をしますよね。 そこで素朴な疑問なのですが、どうして「脳」に全てを集約しようとするのでしょう? 脳は確かにコンピュータの様なもので部品が壊れれば停止して腐敗して消えてなくなる「単なる物」でしょう。 でも、信仰のない人でも一度くらいは聞いた事があるであろう「肉体は単なる道具とか魂の乗り物とかと言える物で、そこに生命の本質はなく、人間の実態は霊である」的な観念が宗教にはあると思うのです。 この場合、脳がコンピュータの様なものであれ、安物のゲーム機のようなものであれ、そこに全てを集約する根拠は何も無いと思うのです。 例えば霊視などについてもそうです。(※別に霊視を推奨しているのではなく、例えです) 霊視をしている瞬間に脳のある部分が活動しているのを発見した時、なぜそれをもって霊視しているのではなく、脳がイメージしているだけであると結論づけるのでしょう。 霊の感覚によって見る物を肉体的に”も”認識する事があっても良いのではないでしょうか。 科学万能主義というか科学教信者というか、こういう考え方をする人の考えがイマイチ解りません。 以前自分が無宗教だった時、同じ様に「脳の化学反応だ」などと思っていましたが、自分の場合は単に考えがちゃんと回っていないだけでした。自分には見えていない部分が山ほどあるという大前提まで。ですから、自分の過去の経験はこの「素朴な疑問」の答えにはなりません。 お答え頂けますと幸いです。 よろしくお願い致します。

noname#207138
noname#207138

みんなの回答

noname#138838
noname#138838
回答No.2

これは数多ある魂の不死を記した書物の中の一つです。   永遠の命の書 (1)私たちは現在、地球に暮らしています。その地球は宇宙の中に存在しています。それでは、その宇宙はいったいどこに存在しているのでしょうか? どこかに存在しているとしましょう。そうしたら、そのどこかはまたどこに存在しているのでしょうか? と、こういうふうに果てしなく決して終わるということがありません。つまり、宇宙には終わりがないのです。つまり、宇宙には形がないのです。  また、もし仮に、宇宙に何らかの形があるとします。そうしたら、その形のある宇宙はいったいどこに存在しているのでしょうか? どこかに存在しているとしましょう。そうしたら、そのどこかはまたどこに存在しているのでしょうか? と、こういうふうに果てしなく決して終わるということがありません。つまり、こうしても宇宙には形がないのです。  (右手を出して、こぶしを握る)このこぶしを現在私たちが暮らしている惑星だと思ってください。まわりが宇宙です。ほら、この惑星は形のない中に浮かんでいるんですよ。もし仮に宇宙が段ボール箱のような形をしていて、その中にこの惑星が浮かんでいるとします。そうしたらその次には、この段ボール箱はいったいどこに浮かんでいるんだという話になりますからね。やっぱり宇宙は果てしなく決して終わることがないんです。つまり宇宙には形がないんですよ。  これはつまり、形のないものも存在するということではないでしょうか。形のないものがなければ地球は存在しません。地球は形のない宇宙の中に存在しているからです。しかし、地球はたしかに存在しています。これは形のないものも存在するということだと思います。 (2)形のないものとは、形が目に見えない、形をさわれない、形の色が判別できない、形をはかりではかれないなどです。形がないんだから、当然そうなります。 (3)形のないものをイメージしてみて下さい。形のないものは果てしなく決して終わるということがありません。 (4)私の心が、確かに存在するということのあかしです。  例えば、私が何か善い行いをしてプラス心情になったとします。すると、遠くにいるZさんは何もしていないのに、同じくプラス心情になるかと言えば、そうはなりません。  また、例え、一緒に善い行いをして、同じくプラス心情になったとしても、心の中まで一字一句何から何まで正確に同じでしょうか。それはありえません。つまりこれが、私の心が確かに存在するということのあかしなのです。  心とは、うれしいや幸せといった気持ちや感情、そして、そのおおもとの自分自身の意識です。 (5)形のないものは、同じ、形のないものの中にしか存在できないということです。  なぜなら、形のあるものの中にあったら、まわりを形のあるものに囲まれてしまい、形のあるものになってしまいます。  また、違う形のないものの中にあったら、まわりを全て違う形のないものに囲まれて、形のあるものになってしまいます。  わかり易く説明すると、まず、形のないものをイメージしてみて下さい。それが、違う形のないものの中にあるのです。まわりを全て違う形のないものに囲まれてしまい、形のあるものになってしまいます。  例えば、形のない赤色をイメージしてみて下さい。それが、違う形のないものの中にあるのです。例えば、形のない黒色をイメージしてみて下さい。形のない赤色が、形のない黒色の中にあるのです。まわりを全て黒色に囲まれてしまうことにより、形のない赤色は形のある赤色になってしまいます。よって、形のないものは、違う形のないものの中には存在できないのです。形があることになってしまいますから。  形のないものは、同じ、形のないものの中にしか存在できないのです。 (6)宇宙についての認識です。宇宙は果てしなく決して終わるということはありません。形のあるものも、形のないものも、存在するものは全て、宇宙の中にあるということです。宇宙からはみ出したりするものは一つもないということです。 以上から、 私の意識・心=形のないもの(宇宙)=相手の意識・心 となりますが、私の意識・心が考えたり思ったりしていることと、相手の意識・心が考えたり思ったりしていることとかは違います。それゆえ、 (形のないものは、違う形のないものの中には存在できないにより) 私の意識は、相手の意識の中には存在できません。 (形のないものは、同じ、形のないものの中にしか存在できないにより) 私の意識は、私の意識の中にしか存在できません。 永遠に。皆不死です。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 意識が消滅する可能性はこの中には書かれていませんね? あるいは消滅したと同義と言える程の変貌を遂げる可能性も。 そういう訳で、この文章は皆不死を示す事にはならないと思うのですが、如何でしょうか。 ※私は人間は不死だと思っています。

  • P0O9I
  • ベストアンサー率32% (693/2146)
回答No.1

私はホーキング氏の話は、ごく当たり前と思いました。 逆にあなたの考えが理解できません。 いろんな人がいるのです。人それぞれで良いのでは?

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >人それぞれで良いのでは? それでは元も子もありません。 可能性の問題です。 脳以外の要素がある可能性を否定できないでしょう? 存在を証明するのは比較的簡単ですが、存在しない事を証明するのは至難の業の筈です。 それをスキップしてよく言い切るなと。。。 これほど簡単な思想を理解できませんか?

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