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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:複文の文法で、従属節中の「主格」につく「ハ/ガ」の選択理由)

複文の文法で従属節中の主格は「ハ」か「ガ」か?

cxe28284の回答

  • cxe28284
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回答No.2

回答などおこがましい事は無理ですが、 去年使った「どんなときどうつかう日本語表現文型200」初 中級 に該当する部分があるかと思いますので抜粋させていただきます。   まとめ2はとが項目9 複分では主文の主語→は 副分の主語→が 例文  1わたしは、春さんが来てからいっしょにたべます。  2あなたがパーティーに出席すれば、パーティーはにぎやかになるでしょう。  3わたしがいくら頼んでも、リーさんは手伝ってくれませんでした。  4私は、ゆみさんが泣いたので びっくりしました。 項目10「…と思います。」、「・・・と言いました」などの文では、「…」の中のは、がは、    もとの文のまま  例文  1あの人は、きょうカンさんは来ないと云いました。  2わたしは、田中さんはもう帰ったと思います。  3わたしは、妹はアメリカで勉強したほうがいいと考えています。 ポイント「…と思います」、「…といいました」の「…」の部分は、引用であるから 独立した文と考える。だから項目9は使わなくてもいい。

Anseigenji
質問者

お礼

助言ありがとうございました。   項目9(複分では主文の主語→は 副文の主語→が) 1-4の文は、主文と副文で主格が異なる場合で、 私が読んだ複文の文法によると、節の性格が、 1-時間節、2、3-仮定節、4―従属度の高い理由節 だと理解します。ご指摘に異存ございません。 項目10(「…と思います。」、「・・・と言いました」などの文) 1-3の文は、引用される節中では「ハ」と「ガ」が許される 場合と理解します(「ハ」と「ガ」の選択は単文の性格によって 決まる)。ご指摘に異存ございません。 以上、有り難うございました。

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     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • 《ぼくハ 〔注文ガ〕 うなぎだ。》は 非線形だ。

     和文と英文とを 人びとのその内面における発想のあり方にかんして くらべてみたい。  まづ和文の特徴を述べます。   ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  あるいは   ( b ) 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらのハ格およびガ格のはたらきについて捉えようとするなら そこには《非線形》の構造が横たわる。という見方を提出したい。  そうして仮りに英文が   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ハ 持つ ひとつ・長い・鼻‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のごとく表わされるとしたら これらの文型は いわゆる《 S-V-O 》などとしての一本の線形の論理で固められている。と見られます。  ぎゃくに和文は ( b )の文例が ( b-1 )にも( b-2 )にも相転移し得て その元の文が 非線形の構造を有していると推し測られます。  このとき 端的に言うかたちで問うのですが:  【Q‐1】  この線形論理にしたがう英文を母語として用いる場合には その発想(もしくは 自己の思いの表出)のあり方は どんなふうになっているのか?  【Q‐2】 あるいはつまり 英文をも和文をも使いこなす場合には その発想のあり方は 違っていると思われるが それは どのようにか?   【Q‐3】 延いては 日常生活における態度や暮らし方・生き方は 違って来ると言えるか? 思想の次元にまで影響はおよぶか?  《A‐ハ B‐ガ C》なる構文と《 S-V-O 》文型との比較対照になります。      *  作業仮説です。  (あ) 発想ないし始原的な自己表出について。   (α) A B C なるぞれぞれの語を 裸のまま 繰り出すことにおいて ひとは始原的な自己表出をおこなっているのではないか?    ( a-0 ) ぼく・・・〔注文〕・・・うなぎ    ( b-0 ) 象・・・鼻・・・長い  (い) これらの幼児のごとき表現のかたちが ひとの始原的な自己表出につうじており それは 人びとを言わば理性ないし論理の一辺倒に落ち入る罠からすくっている。のではないか?  これは 言ってみれば《聖なる甘え》という現象ではないか?    (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。ハ格やガ格やヲ格といった格活用をしていない《無格》の語のありさまを 絶対格に活用していると見なす。  (え) つまり ハ格やガ格は 取り消しても よい。つまり( a-0 )や( b-0 )の文例のごとく 格活用の標識がなくても あたかもなお文(判断もしくは意思表示)を成すかに見える。  (お) そうして ほかの見方からすれば むろんそれでいて     (ω) 論理的な意味連絡  をも示すことが出来る。そこから 相転移した意味として《ぼくは うなぎを 注文する。⇒ S-V-O. の文型》にまで伸びる。  (か) まとめて次のようです。    ( a ) ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  について見れば:           ( a‐α) 《ぼく》も《注文》も《うなぎ》も みな 話題として単純に推し出された恰好である。       つまり あたかも幼児ことばのごとく 主題の羅列である。       ただしこれが全体として 文=意思表示であるなら そこに話し手の判断があり意味がある。すなわち 次のような文意を示すことも出来る。      ( a‐ω) 示し得る論理的な意味連絡として:        ( a-ω‐1 ) 〔ぼくについて言えば〕 ぼくが注文するのは うなぎだ。        ( a-ω‐2 ) ぼくの注文は うなぎだ。        ( a-ω‐3 ) ぼくは 注文する。うなぎを。(⇒ いわゆる S-V-O の文型)  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。構造的に同時にそう成っているというところが ミソである。  (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも 自己の中にふくみ持っている。  ぎゃくに言えば 英文の用いている文型というのは (ω)の線形による論理を示すような意味連絡のみを示すかたちに成っている。  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?      *  参考までに いまの仮説をさらになるべく理論的にのべます。  1. 日本語は 次の基本構文として成るというのが 骨子である。     A‐ハ  B‐ガ  C‐ナリ。 / C‐スル。  2. A・B・Cは 話し手が話題にしたい主題です。文が問答だとすれば Aが《問い》としての主題であり Bは そのAに関連することがらとして引き出された主題であり それらの筋道を経てCという《答え》を 話し手は――おのれの主観として――提出します。  3. 問いと答えで ひとつの文において話し手の思想ないし意思表示が――最小の単位としてのひとまとまりとなって――表わされる恰好です。  4. 《答え》も それは《問い》に対する論述を構成しますが 論述主題です。  5. したがって 日本文は すべて主題を提示する(提示し続ける)というかたちで文をつくっていると見られます。これが 基本構文でありその成り立ちだと見ます。  6. この日本語の構文は もし英語で S-V-O 型式がその基本文型だとしますと この文型を内蔵している。こう見ます。  7. 文例( b ): 象‐ハ 鼻‐ガ 長い。 について《論理直接的な》意味連絡を捉えるならば 次のようになりましょうか?   ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。   ( b-1-E ): Elephant's nose is long.   ( b-2 ): 象‐ガ 〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。   ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  8. 単純な比喩としては 和文は 非線形の構文であり 英文は 線形の文型である。  9. 非線形というのは あたかも主題の提示を尺八の音を一つひとつ響かせながら重ねて行くような姿を言う。  こうして成った基本構文が S-V-O 文型という線形の意味連絡による成り立ちへと みづからを保ちつつしかも相転移していくことになるのではないか。(α)のアソビと(ω)の筋道とを同時にふくむ。  10. 和文における論理――語句のあいだにおける論理直線的な意味関係(ω)――は その超論理(α)の宇宙の中に潜在性として内包されていたのだ。尺八のひと吹きごとにつくられて行く。    11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  12. 英文では すでに発想の初めから その論理のきづなは こしらえられているであろうか? 線形のごとき S-V-O文型は 窮屈ではないだろうか?

  • 英語:従属節だけで完結する文について

    英文には、主節が必ずあると教わった記憶がありましたが、 最近こんな英文にで出会いました。 This, however, is not easy, even if it could be done at all. For there are far more working parts to the earth than to a watch or any other precision instrument. 2文目には、主節がなく、Forの従属節の文で終わっているように見えます。このようなことは文法的にあり得ることなのでしょうか? (この場合、全文の理由になっているから、従属節だけでもよい?って解釈をしました。)) 従属節だけの文?は、文法としては間違っているのでしょうか? また、日常(英字新聞やチャットなど)でもよく見かけるでしょうか? 主節が必ずあると教わったせいか、従属節だけで終わっている文を見ると違和感を覚えます。 また、似たような事例を他にも考えてみれば、疑問文で始まる文も主節が無いように見えます。 例えば、 Why is our earth the kind of planet (that) it is? これにも主節がありません。 疑問文は日常ありとあらゆる場面で出会うにも関わらず、 「主節が必ずある」というルールに反しております。 これにも何か理由があるのでしょうか? 主節:接続詞のついていないSVのかたまり 従属節:接続詞がついているSVのかたまり  と認識しております。 英文引用:「英文長文ハイパートレーニングレベル2」の1題目より

  • 複文の分類法の学校文法と学者の意見の違いについて

    学校で学ぶ国語文法にはいろいろな問題があることを学びました。 (たとえば日本語は「主語」と「述語」からなると教わりましたが、日本語に「主語」はないという学者もいますよね) 今、複文について整理しているのですが、学校文法では英語の文の分類(単文か複文か)方法をそのまま適用して、日本語の文も分類しているため、不都合なこともあるようです。 たとえば、「象は鼻が長い」という文は学校文法では複文になるそうです(文のある部分が節でできているため)。この「象は鼻が長い」は複文ではなく単文だ、と主張している学者はいますか?? もしいたら、どういう理由でそのように主張しているのか、教えてください。 よろしくお願いします。