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イエス・キリストの磔上での言葉について

イエスが十字架に磔になった後、「神よ、どうして私を見捨てられたのですか」と言われたとのことですが、この意味がわかりません。イエスは人類の罪を背負って自分が処刑されることを前もって知っており、弟子たちにも話していました。自分がどうなるかわかっていてそれを受け入れていたのならば、この処刑について神に訴えるのはおかしいと思えるのですが。別の意味があるのでしょうか?

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  • drmuraberg
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回答No.2

この言葉は新約聖書マタイ伝27章に見られ、原語では Eli,Eli,lama sabachatani? となっています。 同じ言葉がマルコ伝15章にも見られ、 Eloi,Eloi,lama sabachatani? となっています。 キリストがこの言葉を叫ぶのを聞いた人々は彼が大昔の予言者Elijahの 助けを求めて叫んだと思ったと言われています。 しかし、マタイ伝より古く成立したマルコ伝ではElijahとは響きも違う Eloiになっているので真偽の程は不明です。 新訳聖書は原典がギリシャ語なので、ヘブライ語から翻訳不明な語を そのままにしたとも考えられています。 この文は昔から問題の多い文と考えられていたようで、ルカ伝23章には EliもEloiも有りません。代わりに Father, into thy(your) hands I commend my sprits. 「父よ、御手に私の霊を委ねます」となっています。 「神よ、どうして私を見捨てられたのですか」を旧約聖書の「詩篇」第22章第1節の文 「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れて わたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」 と関連付け解釈したキリスト教の公式解釈がNo.1の方の回答です。 小生の解釈では、キリストは実在した宗教的使命感に溢れ、当時としては 革新的な普遍性のある教えを説くオーラに溢れた若者です。 その彼が、暗い予感通りに処刑の身になったとき思わず 「神よ、どうして私を見捨てられたのですか」と叫んでも何も不思議では 無いと思います。ただ彼がその時に後世で「神の子」と呼ばれることに なるとはつゆ知らずにです。 新約聖書の各伝はキリスト処刑の数十年後から纏められ出しています。 事実の誇張、齟齬、修正が有ってもなんら不思議では有りません。 人間キリストとしての絶望的な叫びが好きで、魔女(男)狩りにあう 立場からのコメントでした。

dylan1114
質問者

お礼

この叫びは、文字通り考えれば、「神の子」よりも「人間」イエスの部分が前面に出た、本能に基づく嘆きに聞こえますね。自分の運命を知りながら、心のどこかで処刑を回避できる可能性や、現世に残りたいという気持ちがあったのではないかと思えます。(冒涜でしょうか?) また、いっそ後世の人が聖書編纂の時に誇張、脚色をしたと考えれば「神の子」イエスの姿を理解できますね。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • Z31
  • ベストアンサー率37% (735/1957)
回答No.1

この言葉は、旧約聖書の「詩篇」第22章第2節にある言葉です。 この詩篇の中の言葉をイエスは十字架上で叫ばれたのです。 詩篇22節は、虐げられる正しい人の嘆きと祈りののち、救いを得てからの感謝の祈りに変わります。 イエスはこの後、「すべてはなしとげられた」「父よ、私の霊を、み手にゆだねます」と叫んで息絶えられます。 イエスは神を「父」と呼んでいますんでいます。「神よなぜ私を見捨てられたのですか」と言う叫びは失望ではなくて、おん父への信頼の叫びです。 この3日後に、かがやかしい復活の朝が来ます。

dylan1114
質問者

お礼

なるほど、神への嘆きではなくて信頼の言葉なんですね。それならば理解できます。ただ個人的には、表現だけを見るとなかなか「信頼」ととらえるのは難しいですね。聖書の言葉の使い方には本当に悩まされます・・・

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  • キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

     =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。

     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。

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    今、キリストについて学んでいます。 神がいて、神を人間と似たてイエスという人間の身体として他の人間に神の愛をつたえたのですよね? しかし、わからないことがあります。 どうしてイエスは‘私たちの罪のために十字架に担がれ殺されてしまった‘のですか?? これが‘私たちのに対する愛とするならばなぜ殺されることが愛なんですか??‘イエスは神なんですか??‘