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悟りのために何故修行しなければならいのか?
悟りを得るために何故修行をしなければならないのでしょうか? 悟りというのは、何か悟る必要性のある状態がある場合に(人生の無常を感じて悩むとか、自分の存在意義が無いのを悩むとか)、それが解決した場合に、それを悟ったということであって、わざわざ悟るために修行をするというのはおかしいのではないでしょうか。 身体的に苦痛になるような修行をして悟るというのは、 単なるランナーズハイの状態で恍惚感を得て、それを悟ったと 思い間違いをしているのではないかと思います。 修行をして恍惚感を得ても、それが悟りだと決め付けるのは全く 間違いではないでしょうか?
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私は無宗教ですが、般若心経について少し興味があるので教えてください。 「悟りとか煩悩の克服にこだわると悟れない」とあるサイトに書いてありました。経を唱えるとか、写経とか、修行とか座禅などは悟りの境地に近づくためにするもの、つまりこだわっているものだと思っていたのですが、このへんがよく理解できません。 また、「悟りを得るための仏教の教義にこだわることも間違い」という説明もありました。仏教の教えを守ろうとすることも間違いという意味なのでしょうか? 「一切のこだわりがない状態が良い」というのが教えだとしたら、般若心経の教えを理解しようとする気持ちもない状態が良いということになるのでしょうか。また、仏様を崇拝する気持ちもない方がよいということなのでしょうか。
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にわか仕立ての立論です。 批判・修正・そしてさらなる展開を よろしかったら 思う存分おこなってください。 1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。 2. さとりとは 池は要らないと気づくことである。すでに洪水が地を蔽っているというのに という場合を言う。(ヱ゛-ダだか何だったかの請け売りです)。 3. 客観は ただ人間が世界を認識したと思い 〔じつはそれは世界の一部なのだけれどそれを〕言葉の論理と表現のあやとで何とか説明しようとしたその見方である。 4. そのような池は 要らない。(池のために人間があるのではない)。となれば――その境地にあれば―― まづさとりを得ていると言えるのではないか? (4-1. ただし その溜め池を――覚え書きとしてのように――つくったりすることは なおも怠らない。必要であろう)。 5. 人間は 世界についての全客観には及ばないけれど 見方によっては そのかよわいささやかな主観がすでに世界を超えてものを見ることができると どういうわけか なれば――それは けれども なおも時間的存在たる者の部分的な動態でしかないゆえ―― そのような人間たちが相い集まって力を合わせて どこまでも話し合いをとおして一緒になおも問い求めを欠かさず 世界をともにいとなんで行くこと これが さとりである。つまり 動態だ。 6. 単純には 縁起共生と言うと思われる。業もこれを共業(ぐうごう)として捉えているということであろう。 (これは ここで ぼんぼにえさんたち専門家におそわりました)。 (6-1. ゴータマくんら ブッダはどうでもよいでしょう。いかにブディズムに通じているという人たちのあいだに 過去にとらわれている場合が多いことか。つまり いわゆる精神論が 大雨を降らしたごとく崖崩れをもたらして世界を蔽っている。あぁ うっとうしい)。
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お寺に修行に行きたいなぁと考えているのですが、 必然的にお寺に修行にくる。 → 何かしら人生に迷いを感じている 生老病死に対して強い関心を抱いているわけですよね。 となると、他人の状態に対して善意でない善意にかかわらず口を出そうと するおせっかいな人がいるかもと考えます。 お坊さまならば長年業界にいるから扱いになれているかもしれませんが、 迷いがあって寺で修行して少し解決してきたぐらいの信徒さんに 熱心に勧誘されたりこうしろああしろといわれるとつらいです。 こういっちゃなんですが、アウトローだったりいろいろと札付きで ゼンカモンの人とかも修行に通われていたりするので 変な縁ができても困ると考えて修行に二の足を踏んでいます。 二の足踏んで修行できないでいるのと変な人とめぐりあう可能性の 天秤にかけたら 修行しないでいるデメリットの方が大きいですかね? 悩みどころです。 よろしくおねがいします。
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みっつのことを挙げます。 まづ さとりのついての前提として 情報公開が大事だという点が来ます。 情報が不足していたり間違っていたりすれば さとりの知恵も出にくいというものです。 確かにさとりは 存在の全体としての――既知と未知とをあるいは無知をもふくめての――境地です。全体を隅々までひとつ残らず知っているということではないはずです。 けれども そのときそのつど知恵を発揮するには 関連することがらについての必要で十分なただしい資料や情報がなくてはならないと思われます。 生活日常でのこともフクシマなどの社会一般のこととしても 情報公開が前提になると考えます。 次には ひとりの人の主観内面にかかわったことがらとしての情報の獲得になると思います。 あのとき A さんはわたしにひどいことを言った なぜかを聞きそびれてしまって時も経った。と思っていたとき ふとヒラメキが得られる。ということがあると思います。--あぁ なるほどあれは しかじかかくかくの事情があってのことだったか。という心の問題としての情報の獲得です。 つまりは そういった過去のことがらだけではなく いま現在の人間関係におけるわだかまりや諍いなどなどについても あの人の心はこれこれこういうふうであるのかと知り得れば ずいぶんと互いのコミュニケーションは なめらかに行くのではないか。 日本ではよく《無私》ということを聞きます。それは こういう場合に当てはめるとよいのではないでしょうか? すなわち 劣等感や優越感 あるいは孤独とその不安といった《わたくしごと》よりも まづそのいまの情況に就きその内容を知る。そしていまの問題としては殊に 相手や当事者の心を知る。 これは さとりの問題だと思います。三人よれば文殊の知恵と言いますが 互いに自由な自己表現が出来るようにお互いが心を開きつつ臨む。 特に心の問題を互いに解決しておくこと。あの人この人などなど世間との和解を得ておくこと。なかんづくわたし自身との和解を得ること。心がやわらがしめられてあること。こころのまどが明けられていれば よいのではないでしょうか。 三つ目は 聖書から引きます。長いです。 ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~ ――ルカによる福音書8:26-39 ―― 26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。 27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。 28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。 ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。 頼むから苦しめないでほしい。」 29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。 30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。 31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。 32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。 33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。 34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。 35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。 36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。 37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。 38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。 39 ――「自分の家に帰りなさい。 そして、神があなたになさったことを ことごとく話して聞かせなさい。」 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわちイエスなる男は このゲラサの人の心の中の状態が分かった。それは この人がイエスを見て 自分の心を――無言のうちに――開いたからである。イエスは その心のさまを無言のうちに知った。に過ぎない。 たとえばこのようにして 世間との・そしておのれみづからとの和解を得るということ。 それは 必ずしもほかの人に依存するのではなく 自分自身を自分自身のこととしてたもちつづける。おのれにとって固有のおのれみづからのとき(時)をまもる。そうすれば より高い境地の人に出会ったなら おのづとわが心が開かれる。窓は全開。すでに 日本晴れとなり わが心はやわらぎとやすらぎを得る。 これが 《さとり》――という動態――だと考えます。 この《さとり革命》をとおして おのおの内発的にわれらが社会の――ひいては世界の――衣替えが成るのではないでしょうか? ご見解をお寄せください。
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【悟りを開いた人は一様に「シンプルに生きよ」と言う】 このシンプルにとは、生きる目的を早く見つけろと言っている気がします。 空港や駅のトイレ掃除のおばさんを見ていて、私ならこんな仕事はしないだろう。何でこんな便所掃除という誰もやりたがらないことを仕事に選んだんだろうとずっと不思議に思っていた。 けど、このおばさんはトイレ掃除を仕事に選んだことで生きがいを得た。 要するに仕事=生きる目的ができたので、毎日単調な仕事でもそれがシンプルに生きる。生きる目的が出来ている状態なのだと思った。 人生はシンプルに生きろというのは早く人生の目的を見つけよと言っているんですよね。 仕事だったり育児、子育てだったりしますが、育児、子育てはいずれ子は親から離れていくので親離れして生きがいの生きる目的であった子がいなくなって女性は生きる目的を失い、新たな生きる目的が必要になる。 子供が親離れしてすぐに子供を作ってくれると次は孫の成長という新たな生きがいが生まれるので問題がないが、子供が親離れして子供がいなくなって孫も出来ない場合、それを女性の更年期障害、うつ病と言っている気がする。 子供は勉強の学業や友達と遊ぶことでいっぱいで人生とは何ぞやと考える間もなく成長していく。 一部の子供は子供時分に気付く。人生とは何ぞや。 人生とは何ぞやと子供時分に気づく子供は大概が不幸になる。 子供時分に人生とは何ぞやと考える時間もなく成長した子供の方が幸せに生きている。 人生とはシンプルに生きよという教え通りである。
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「法華経」に違和感を感じてしまいました。 私は、仏教に興味を持ち「スッタ・ニバータ」、「アーガマ」、「仏教の思想1~8」(角川ソフィア文庫)、「この人を見よ=ブッダ・ゴタマの生涯」(増谷文雄著)その他諸々の仏教関係の本を読み独学している者です。この度、現代語訳「法華経」(中村元著)を読んだ時に、かなりの違和感を感じてしまったのです。 原始仏教の経典等からは、ブッダ・ゴータマは、仏陀であるけれども正しく「人間」であると感じられます。また、悟りを開くには縁起を良く理解し、四諦八正道を実践する事だと説いています。また、晩年自らの死を前にしては、自分も諸行無常の理から免れる事はないので、やがて死ぬであろう。しかし、死後は「法」を拠り所として、修行せよと弟子たちに語っています。 しかし、「法華経」に登場する仏陀は、自分は「久遠仏」であり、過去、現在、未来において永久に存在する、とか。仏国土は永遠である、とか。法華経のみが真説であり、他の経は方便だ、とか。法華経を読んだり仏像を作ったり、礼拝すれば仏の慈悲により悟りを開ける、とか。甚だ原始仏教の内容とは矛盾しますよね。諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。 よって、「法華経」は、仏陀を人間ではなく神格化して信仰の対象とすることによって、仏教の大衆化及び教団の強大化を目指すために当時の弟子達が創作したものではないのだろうかと考えるようになりました。悟りを開くには、難解な法を理解し大変な修行が必要と説けば、一般庶民には受け入れられませんからね。 ここで、質問です。 (1)「法華経」は、弟子の創作だと思いますか。 (2)最澄、道元、日蓮などは、「アーガマ」等の原始仏教の経典を読む機会が無かったのでしょうか。 念のため、言って置きますが、私は「法華経」は宗教的には優れた本だと思っていますし、法華経を信心している人を批判しようという意図は全くありません。
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