• 締切済み

赤石路代先生の『AMAKUSA1637』について

 早弓夏月(はゆみ・なつき)が親友・春日野英理(かすがの・えり)や生徒会の仲間と共に1637年の島原に飛ばされ、既に殺されていた天草四郎に瓜二つの夏月が彼に祭り上げられ戸惑いながらも、闘いの末に3代将軍・家光の徳川幕府と共存の道を勝ち取り作られた南幕府から繋がる未来を見届ける為に選ばれた英理だけは、その未来へと飛ばされるというラストを迎えた『AMAKUSA1637』は全部で、何話だったのでしょうか?

みんなの回答

  • rimewmamu
  • ベストアンサー率50% (5/10)
回答No.1

コミックスが手元にあります。 全12巻 第56話の次に最終話がありますので 全部で57話になるのではないでしょうか。

rosetta
質問者

お礼

ありがとうございました。  なにしろ、目次が無いので「これは何話だろう?」と考えながら読むしかなくて、最終話が「第57話」として欲しかったと心から思います。  本当にありがとうございました。

関連するQ&A

  • 江戸中期以降の江戸幕府内では「四郎」か「時貞」か?

    【質問】 “天草(益田)四郎時貞”は、江戸中期以降の江戸幕府内では何という名前で知られていたのでしょうか? 「四郎」か「時貞」か、どちらだったのでしょうか? 徳川実記では『四郎時貞』、細川家の記録では『益田四郎』だったそうですが、 江戸中期以降の江戸幕府内では、「四郎」か「時貞」か、どちらの名前で知られていたのでしょうか? 島原の乱で出てきた“天草(益田)四郎時貞”という人物は、江戸中期以降の江戸幕府内では、一般的に、「四郎」か「時貞」か、どちらの名前で知られていたのでしょうか? “天草(益田)四郎時貞”という人物は、江戸中期以降の江戸幕府内では、「四郎」か「時貞」か、どちらの名前で、また、何という名前で知られていたのでしょうか? “天草(益田)四郎時貞”という人物は、江戸中期以降の江戸幕府内では、“四郎”か“時貞”か、どちらの名前で、また、何という名前で知られていたのかを教えてください。

  • こんな昔話聞いたことありませんか?

    当時、中学生だったのですがこんな話を聞かされました。 天草の乱で有名な「天草四郎」は実は豊臣家の一族だった。 という話です。この話を友人にすると「地方特有の昔話じゃないの?」 と笑われたました。自分もそうなのかなと思うようになってきました。 私の記憶に残っているので ・豊臣家の滅亡をたくらみ追い掛け回していた徳川幕府から逃げる為にはキリシタンに成りすますのは都合が良かった。 ・天草四郎が「豊臣一族」と知ったからこそ、わざわざ徳川幕府の本体がわざわざ長崎まで出向き、たかが農民の一揆1万人ぐらいに対し12万の軍隊をぶつけてのだ。 ・原城総攻撃跡地には大阪城と似た瓦礫が多くみれた。 ・農民一揆の資金源は実は消えた豊臣一族の財産で賄われていた。 こんなものです。こんな話を聞いたことがあるかたいませんか?

  • 徳川秀忠

    江戸幕府(徳川幕府)の歴代将軍のには、全般的に「家」のつく名前が多いですね。それから他に特徴のあるところといえば「よし」のつく名前も結構ありますね。 でも何故、二代目将軍の名前は「秀忠」なんでしょうか?「秀」も「忠」も徳川家には馴染みがないように見受けられるんですけど…これについて僕はずっと腑に落ちないでいるんですが(「家康」と「家光」の間が秀忠というのも、なんとも不自然だし…) これには何か歴史的背景があったんでしょうか、それとも特に深い理由はないんでしょうか? そこらへんのところがよくわからないんで、この僕の疑問について「…だと思う」といった回答でもいいんで教えて下さい。

  • 松平忠輝と忠直は失脚しなかったら徳川姓を名乗れていたか

    松平忠輝は初代将軍・家康の実子で、2代将軍・秀忠の異母弟で、御三家の始祖の異母兄で、3代将軍・家光の叔父です。 松平忠直は初代将軍・家康の孫で、2代将軍・秀忠の甥で、3代将軍・家光の従兄弟ですが、その父の秀康は秀忠の異母兄で幕府から特別待遇を受けていた人です。忠直も正室が秀忠の娘で、将軍家との縁も深い人です。 もし、忠輝と忠直が幕府に従順で将軍から勘気を被らなかったら、徳川姓を与えられていた可能性はあったのでしょうか。

  • 吉宗は、最も朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたか?

    8代将軍・徳川吉宗は、江戸時代の歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった、のでしょうか? 8代将軍・徳川吉宗は、歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった様に思うのですが、どうでしょうか? 朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたからこそ、徳川吉宗は、(秀忠ー家光からの)宗家の血筋ではないのに、将軍になれたのではないでしょうか? 江戸幕府も初期の頃は、対外的には朝廷や天皇を重んじている姿勢を見せていたと思います。さもなくば、外様大名たちに付け込まれる原因となりますから。 しかし、あの頃(徳川吉宗が将軍になった頃)は、大坂夏の陣から100年が経っており、もはや、そのような事を心配して、朝廷や天皇を重んじている姿勢を見せる必要はありませんでした。 寧ろ、大坂夏の陣から100年が経過して、なまってきて、公家寄りになってきた(特に、6代将軍・家宣は、自身の御台所の父を始めとする公家と仲が良かったようです。)江戸幕府を引き締めて、はっきりとした武家政権である事を示す必要がありました。 それで、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしていたからこそ、徳川吉宗が将軍に選ばれたのだと思います。 8代将軍・徳川吉宗は、江戸時代の歴代の徳川将軍の中で、最も、朝廷や天皇を軽んじて馬鹿にしている将軍だった、でしょうか? どうかを教えてください。

  • 徳川(一橋)宗尹の幼名について

    一橋徳川家(御三卿の一つ)の初代当主であった、徳川 宗尹(とくがわ むねただ)の幼名が、"小四郎"ではなくて、"小五郎"であった理由は、"小四郎"だと、島原の乱の時の"天草 四郎(あまくさ しろう)"の"四郎"に"小"の字を付けた名前になってしまうからでしょうか? 一橋徳川家(御三卿の一つ)の初代当主・徳川 宗尹(とくがわ むねただ)は、徳川家重の夭折した同母弟を入れると、五男と見る事もできますが、 その夭折した徳川家重の同母弟を入れた場合、徳川(田安)宗武は三男とみる事になりますが、徳川(田安)宗武の幼名は"小次郎"です。 また、同じく、その夭折した徳川家重の同母弟を入れた場合、徳川(一橋)宗尹の同母兄は四男になりますが、徳川(一橋)宗尹の同母兄の幼名は"源三"です。 この事から、『徳川(田安)宗武(幼名は"小次郎")と、徳川(一橋)宗尹の同母兄・"源三"に関しては、夭折した徳川家重の同母弟をカウントせずに、順番を数えて、幼名を付けていた。』様に思われます。 しかし、徳川(一橋)宗尹の幼名が"小五郎"である、という事は、この徳川(一橋)宗尹の幼名を付けるに当たっては、夭折した徳川家重の同母弟をカウントに入れていた事になります。 これは、徳川(一橋)宗尹の幼名を"小四郎"にすると、天草四郎の"四郎"に"小"の字を付けた幼名になってしまうからでしょうか? それで、夭折した徳川家重の同母弟をカウントに入れて五男という事にして、幼名を"小五郎"にしたのでしょうか? そう思われるかどうかを教えてください。

  • 徳川家重が女性だったという説に信憑性はあるのか?

    「徳川吉宗の長男で9代将軍の徳川家重が女性だった。」とかいう説に信憑性はあるのでしょうか? https://okwave.jp/qa/q9477085.html ↑ ここで回答している方が、『徳川家重が頻尿だった理由を、「実は女性だったから」という説もあるようです。』と回答されていますが、 その、「徳川家重が実は女性だった。」という説に、信憑性はあるのでしょうか? そもそも、歴代将軍の中でも、3代将軍徳川家光と並んで、徳川家康のことを崇拝していた徳川吉宗が、その崇拝している徳川家康が創った幕府の将軍に女を立てたりするでしょうか? さらに言えば、徳川吉宗には家重の他にも2人の息子がいます。 そして、家重の欠点を列挙して諌奏したという理由で、大御所となっていた吉宗は、次男の徳川宗武を謹慎させたりしています。(↓) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%AD%A6 果たして、もし家重が女性であるのなら、自分の息子に対してそんな事をするでしょうか? もし、家重が女性であるのなら、徳川宗武は家康の教えを守った正論を述べていた事になります。 吉宗は自分の力で将軍になったわけではありません。 吉宗は家康のひ孫であり、尾張は家康の玄孫であったので、家康に1世代近かったために将軍になれたのです。 その分家から将軍になった吉宗が、自分の勝手な思いで、男性候補がいっぱいいるのに、女を将軍になどできるでしょうか? それに6代将軍家宣も長福丸(後の家重)のことを認めていたはずです。 その家重が女とかいうのは、おかしくないでしょうか? 徳川家重が女性だったとかいう説に少しでも信憑性はあるのでしょうか?

  • 英語に訳して下さい😂

    徳川家康は、関が原の戦いで勝利の後は政権基盤を築き、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開府する。将軍職を3男秀忠に譲った後は 駿府にて大御所として政治の実権を握り続けた。やがて大坂冬・夏の陣の2回の戦で豊臣家を滅ぼし、徳川260年の礎を築いた。死後は日光東照宮に祭られる。

  • 明智光秀と天海

    明智光秀と南光坊天海は同一人物という説 山崎合戦で秀吉に敗れ落ち武者狩りで死んだはずですが生きていたんですね?  天海が光秀とする証拠は天海は後に徳川幕府のブレーンになりますが、二代将軍が秀忠(この場合の秀は秀吉から一字もらった)なので後継の竹千代に自分の名を一字とって家光とつけさせた という話 家光は後に なぜ自分の名は 祖父家康と父秀忠からとった家忠ではないのか? と秀忠に尋ねた際に秀忠は 公家に家忠と言う人がいてかぶるから…と苦しい言い訳をしていましたね

  • 豊臣秀頼公の生存説及び島原の乱について

      大坂夏の陣において、名城大阪城とともに運命を共にされたと言われている豊臣秀頼公ですが、 次のような伝説・伝承があります。  ※秀頼公は、密かに大阪城を脱出し、   (1) 真田幸村公達とともに薩摩へ逃れ、子供も授かり、島津氏の庇護のもと天寿を全うした。   (2) 備中足守(?)へ逃れ、木下家の庇護のもと密かに天寿を全うした。(幕府も黙認)   というものです。私は、当時は写真やビデオなど映像が皆無の時代であり、城からの脱出さえ上手くいけば…ありえないことではないと思うのですが、皆様のお考えやそのような説を唱える学者の方がいらっしゃるのかご教示頂きたくお願いします。   また、島原の乱について「天草四郎は、秀頼公の子供か孫であり、真相は豊臣家の残党が彼を旗印にして、幕府に一矢報いたものであり、いくつかの外様大名が支持すれば幕府の存立にかかわる大事件(単なる一揆ではない)であったという話を聞いたことがあるのですが、真相はどうだったのでしょうか…   併せて、お考え等をご教示くださればありがたく存じます。   どうか、宜しくお願い申し上げます。