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昔見た街角の傷痍軍人

noname#36179の回答

noname#36179
noname#36179
回答No.2

不謹慎な回答になるやも知れませんが。 当市では6月に、毎年恒例の「えんま市」が立ちます。 現在も香具師がメイン道路を縦横に埋め尽くし、盛大に賑わいます。 当時はもっと凄く、「おばけ屋敷」は当たり前で、「サーカス」やおどろおどろしい看板の「見世物小屋」、「小人と女子プロレス」、巨大な樽の中を真横になりながらバイクで疾走する「サーキット」。 都会から持ち込まれた目新し玩具。 全てが「異世界」に感じられるお祭りの中にその方たちはいました。 「えんま堂」の境内で、半袖の大振りな軍服を着て、杖を傍らに置き、 軍歌のような音楽を鳴らし、顔が見えぬよう絶えずうつむきながら、 慈善の寄付があるとお辞儀していました。 戦中生まれの父に、「あの人たちは?」と尋ねると、「傷痍軍人。戦争で手足の無くなった人たちだ」と、教えられました。 「でもな、あいつらは違う。手も足もある。騙されるなよ」 でも、寄付しながら手を合わせている人もいました。 戦争により親族を亡くされた方たちに取っては、例えそれが「嘘」と分かってはいても、私などがうかがい知れない思いに突き動かされての事だと、大人になって気付かされました。 昭和50年初頭位までは、まだ存在したかもしれません。 「遠い過去の記憶」です。 今も政府は、戦死した夫の妻たちが   やっぱりやめますね。

bambino302
質問者

お礼

昔は見世物小屋があったことは子供の頃、祖母から聞いた記憶があります。人権もなにもあったものじゃなかったのですね。そういったところでしか働けなかった背景の人の心情を思うと悲しい話だと思います。 戦中世代の人がどんどん少なくなり、そういう方と接触のない子供たちが増えている中、最近平和を守り伝えることの重要さを痛切に感じています。 ありがとうございました。

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