playmate1 の回答履歴

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  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 霊能力開眼について

    バカな話かもしれませんが聞いてください 最近霊感・霊能力に関心を持ち始めました。もちろん霊など見たいし、コミュニケーションなどもしてみたいと思っています。霊能力開眼について色々調べましたが、僕の場合だと強い霊能力者によって無理やり開眼する方が早いと思っています。しかし誰にして貰えばいいかわかりません。知人に霊感とか持っている人はいないですし、もちろんお金を払うとかそういう金銭的な余裕もありません。なので、東京都内で開眼させてくれる人、または場所などがあったら教えてください。もちろん開眼したら毎日怠らず修行するつもりでいます。こんな軽い気持ちでやると悪霊とかに取り憑かれると言う人もいるかもしれませんが、僕は真剣です。 正直今の自分の生活に、他人から見たらちゃんと充実した生活に見えるかもしれませんが、自分では今の生活がとてもつまらないです。平和はいいことです。しかし、それでも毎日が同じでつまらないとよく思います。ちょっとしたことでこの人生が少しでも変わるなら、もちろんそれをします。そして、出会ったのが霊感・霊能力です。もともと神とか陰陽などに興味を持っていました。それでそれに関係しているものを調べていたら霊能力について書いてあったので興味を持ち始めました。 これを見ている人に無理やり理解してくれなんて言いません。同じ境遇、体験した人いたらどうかこの質問に答えてください。もちろん理解してくれる人なら誰でも構いません。  お願いします

  • 秀吉の死後

    仮に前田利家があと2年生きたとしたら、歴史はどうなったとおもいますか?

  • 指に埋まった芯を放っておくと壊死しますか。

    1週間前シャープペンシルの芯が親指に刺さり、埋まっているように思われます。今日、医院に行きレントゲンを撮りましたが、写りませんでした。写らなかったものの、埋まっているように思われるので、次回、麻酔をかけてとると言われました。取らないでこのままにしておくと化膿し、果ては壊死してしまうと言われました。 帰ってきてネットで色々調べたところ、レントゲンに写るという意見や写らないという意見もありました。 ただ、そのまま放っておいて長い年月が経った人も多くおられるようですし、芯は無機物なので壊死するようなことはないという意見もみました。そこで次の3つの質問をしたいと思います。 1.芯はレントゲンに写るのでしょうか、写らないのでしょうか。写らなくても埋まっている可能性が   あるのでしょうか。 2.放っておくと壊死するのでしょうか。 3.壊死することはないにしても、どんどん中に入っていくのでしょうか。 とっておくにこしたことはないと思いますが、レントゲンに写る性質のものであり、それが写らなかったというのであれば、わざわざ痛い思いをして傷をつける必要もないと思いますし、仮に埋まっていたとしても、壊死をするということが医学的に誤りであるなら、そのようなことを言う医師が信用できるのかという疑問があります。 ご回答よろしくお願いします。

  • 風呂に長く入ると痩せるでしょうか。

    風呂に長く入ると痩せるでしょうか。

  • 犬がネズミかモグラを捕まえました(グロ注意)

    最初に、多少画像がグロテスクかもしれないので苦手な方にはすみません。 ですが、緊急なので済みません。 どなたかこれがネズミかモグラか判別つく方いらっしゃいませんか。 我が家の犬がモグラかネズミかよく分からないものを捕まえてきました。(画像がそれです。少しグロテスクかもしれませんがごめんなさい) 気付いたらその死体は消えていたのでもしかしたら食べたのではと心配です。 予防注射はしています。 いつも外で放し飼いにしていて、よくじゃれつく犬です。雑食でミミズなども食べているのですが、お腹壊したりしないですか?ネズミだと菌が一番心配です…。 何より犬がネズミかモグラを捕ったということであまりよく聞かない話過ぎて心配です。 猫ならよく聞くのですが…。 緊急ですのでお答えお願いします。

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • 無報酬ですか

    週に二回公園の バラの花木の手入れを主にボランティアに 行っている奥さんがおります。 それも朝十時から四時までお弁当持ちです、役所の方から多少のお金は貰えるのでしょうか みんなの為に無一文で 働いてあげていると聞いております。 本当でしょうか詳しい方教えてください 東京都です。

  • 八百屋さんで買う野菜、スーパーで買う野菜。

    皆さん、どちらで買う方が好きですか? 元々、昔から近所に八百屋さんが無かったせいか、利用した事が一度も無かったのですが、結婚を機に引っ越した際、家から徒歩30秒の所に大きめの八百屋さんがありました。 お客さんもまあまあ多く、1ヶ月前までたまに行ってました。 最後に利用した日、にんにくを買ったのですが、お店の一番奥にあって誰も買わないのか、ほとんどのニンニクが傷んでる状態でした。 果物も野菜も、どれもスーパーに比べるととても安く、スーパーで一本100円の長ネギが、ひと束(3本)で100円だったり、種なし皮ごと食べれるブドウが一房250円だったり…。 スーパーの半値、もしくは倍の量で手に入ります。 大好きな果物や野菜が安く買えるのが嬉しくて、たまに行ってたんですが、ニンニクの傷み加減が衝撃的でそれから怖くてあまり行かなくなりました。 (以前も、ブドウにフィルムがかかってましたが、埃がかぶってたり…) スーパーが必ずしも安心とは限らないですし、私も神経質な方ではないと思うのですが、目に見えてしまうと何だか行く気が失せてしまいました。 みかんが美味しい季節になり、旦那も私もみかんが好きなので、きっと八百屋さんだと安く大量に手に入るんだろうな~とは思うのですが、なかなか行けず…。 八百屋さんが安いのはどこもそうなのでしょうか? 値段相応の物が売ってるからですか? また皆さんは、野菜が傷んでる、品物に埃が被っててもあまり気になりませんか? 回答お願いします。

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • どんな《神は死んだ》のか?

     どんな《神は死んだ》のか?  主題は ふたつです。  神とは何か?――あるいはつまり 神とは何でないか?  ニーチェのたましいをやすらかな眠りにみちびくことばをかけるとしたら それは何か?  まづ 三島憲一のニーチェ論の一端を引きます。あとで 具体的に問います。  ▲(三島憲一:ニーチェが戦ったもの) ~~~~~  ニーチェが『喜ばしき知識』の中で《神の死》を宣告した話はよく知られている。    寒くなってきてはいないか?    これからはますます夜に 夜が深くなっていくのではないか?    昼前から行燈を灯す必要はないのか?    神を埋葬する墓掘人たちの音がまだなにも聞こえないというのか?    神が腐る臭いがまだしてこないのか?    ――神々といえども腐るのだ。    神は死んだ!    死んでしまい 蘇ることはない!    しかも 我々が殺したのだ!    殺しの中の殺しをしたの我々は いかにして自分たちを慰めたらいいのだろうか?    これまで世界が持っていた最も聖なるもの 最も強いもの その神が我々のナイフによって血を流して死んだのだ。     (『喜ばしき知識』125番)  大方の思想史では このいささかパセティックで安っぽいレトリックに溢れた文章によって ニーチェはプラトニズムとキリスト教がその根拠となっていたヨーロッパの道徳の自己崩壊を確認したということになっている。形而上学の完成と解体が告げられている とされている。  しかし 考えてみれば 変な話である。すでに一八世紀の啓蒙主義以降 知識人は 家庭のつきあいを別にすれば キリスト教の神は信じていなかったはずである。プラトンのイデアとなればなおさらで 大学の哲学科の訓古注釈の営みの外で そんなものを信じている銀行家や工場主や労働者や農民や そしてなによりも将校たちが多数いたとは到底考えられない。なぜ キリスト教の神の死を ニーチェはいまさらのごとく触れ回ったのだろうか。  実際には・・・ニーチェはいわば 自己の議論の正当化のために 当時において標準化されていたヨーロッパの思想の歴史を逆転して 新たに構築しただけであって 実際に闘っていたのは一九世紀の自分の周囲の生活形式(あるいは文化)であり それへの抵抗の中で このようなキャッチフレーズを生み出したのである。  《我々が殺したのだ》ということは 神を生かしておくも 殺しておくもこちら側 つまり我々の思うまま 我々のさじ加減一つということである。すでに神は我々によって構築されていたことが含みとしてある。つまり 神を構築してきた当の我々が葬られるべき存在なのである。ニーチェが闘った相手は 神の語をむやみに重視する一九世紀の生活形式であり 文化なのであった。  ひとことで言えば この生活形式の中核は ナポレオン戦争の終結とともに だがさらには一八四八年革命以降 特に顕著になったヨーロッパの再キリスト教化 そしてそれとタイアップした市民階級の再封建化といわれる現象である。ニーチェはその知的生涯においてそれと闘う中で 彼の《破綻の美学》を生み出したのだ。  ・・・  再キリスト教化自身が ニーチェには神の死を意味していたのである。  (三島憲一:『ニーチェ以後――思想史の呪縛を越えて』 2011 第五章 破壊的理性の美学――素描の試み   pp.149-151 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~  一九世紀の《再キリスト教化》について三島は きちんと例証していると思います。  そこでそのことに深入りはせずに 全体としてこの三島の議論に 必要な注釈をつけたり あるいはちょっと違うのではないかという批判を加えたり 言うべきことがありましたら まづそれらをおしえてください。  と言っておいて あとは 神とは何か? を問います。  三島も触れていますが 《われわれが構築した神をナイフで殺した》のなら それは《観念の神》であって・あたまの中の想念の中に描かれた思いや考えであって 劣ったものであったり時代遅れになったりしたら ナイフで切り殺されても当たり前です。ただの想像の産物を相手に闘った。またそういうたぐいの〔ニーチェの〕文章である。  つまり そんな《ただの観念の構築と抹殺といったお遊び》のことを どうしてそんなに熱情を燃やして闘ったりしたのか? それは どこから見ても《神》ではなかったというのに。  いったいニーチェとは何だったのか?  レクイエムを書いてやってください。

  • ロリ系の女の子をあからさまにえこひいきする神父様

    聖書講座に通っています。 中年のおばさんと数名の男性ばかりのクラスに最近ロリっぽい若い女性が入ってきました 。途端に神父様の態度が激変し、その方がいらっしゃらないと講座中もずっと電話とメールしたりして彼女の心配ばかりで講座なんてそっちのけです。 他の男性が休んだりおばさんが休んでも「別にこなくても大丈夫だから」とはっきり仰って全く無関心。 聖職者をある意味神格化していたので あまりに素直すぎる神父様の態度に不愉快通り越して唖然としています。聖職者と言えども所詮は人間だからこういうことには目をつむって気にしないことが一番でしょうか?

  • 冷凍蟹の賞味期限

    業者から購入した冷凍蟹の賞味期限は家庭用冷凍庫の場合は1ヶ月と言われますが、 業務用の場合はどうなのでしょうか? 我が家には小型の業務用アイスストッカーがあります。 直冷式、上開きです。 庫内を空の状態で温度を実際に12時間測定してみたところ、 平均-30度で、変動幅が-34度~-25度でした。 このスペックの冷凍庫だと、どれくらいの期間美味しく保存出来ると考えれば良いのでしょうか。

  • 野球と地上放送しか見ない

    スポーツとたまに時代劇や西部劇を見るぐらいで、外国TVは見てないので、それをカットして料金そのままで他の有料チャンネルにかえることはできませんか。(例えばグリーンチャンネルなど) ※OKWaveより補足:「J:COMのサービス」についての質問です。

  • 野球と地上放送しか見ない

    スポーツとたまに時代劇や西部劇を見るぐらいで、外国TVは見てないので、それをカットして料金そのままで他の有料チャンネルにかえることはできませんか。(例えばグリーンチャンネルなど) ※OKWaveより補足:「J:COMのサービス」についての質問です。

  • コイン洗車機のあるところ(広島市近郊で)

    コイン洗車機のある場所を探しています。 広島市内ではネットで探してもあまり出てきません。 手洗い洗車だとガソリンスタンドとかでしてもらえますが、高いですよね。 500円以内くらいでセルフでできる洗車場を探しています。 ちなみに水や泡が出る設備のあるコイン洗車ではなくて、鳥居状の乗ったまま機械が自動で洗ってくれる洗車場のことです。 水洗いのみでも構いません。 料金も合わせて教えてもらえると尚助かります。 よろしくお願いします。

  • 80年頃のヒーロー物カセットテープ

    幼い頃に父親からヒーロー物のカセットテープを買って貰い 車の中で連日聞いていましたが、そのカセットは何だったのかを知りたいです。 80年~83年頃に買って貰ったと思います 入っていたと思われる曲は 闘将ダイモス・太陽戦隊サンバルカン・銀河鉄道999? もう手に入らないと思いますので 入っていた曲と曲順さえ分かれば オリジナルCDでも作って懐かしみたいです

  • 冷え性の女性にパイナップルは本当 ?

    冷え性の女性には朝、パイナップル一切れの半分を食べれば体が温まります。と聞きましたが本当ですか、ご存知の方教えてください。

  • 万引きを強要するイジメ

    イジメの中には万引きを強要するものあります。それで、「万引き(窃盗)しないとイジメるぞ」などと脅されて強制的に万引きをしても、盗んだ時点で犯罪です。危険回避とはいえ、やったことには変わりありません。 脅されてやろうが、わざとだろうが・・・。 万引きをすれば、犯罪です。 じゃあ、どうしたらよいか・・・。 店の人に事情を話すべきです。そして、親か先生を呼んで貰うことです。 そうすれば、万引きをすることなく、逃げることも可能になるのではないでしょうか? それでも、いじめられっ子は その場しのぎで、あとで いじめっ子から仕返しされることを恐れるかもしれませんが、これは、その場しのぎにはならないはずです。 だって、店の人に事情を説明して親か先生に連絡するんですから。 と、いうことは、いじめのことが周りに知られる訳です。 そこまで、出来る人間ならば、いじめる側に仕返しができる賢い人間だと思います。 確かに、酷い先生なら「このことは黙っておこう」等と馬鹿げたことを言うかもしれません。先生から、親に話さないかもしれません。 でも、店の人は“万引きに使われる”という事を知って、警戒すると思います。それだけでも成果だと思います。 あと、いじめに関してですが、逆に、大事にすれば良いと思いませんか? いじめられている側が、何もしないから相手は思い上がってやってくるんです。 いじめる側が、いじめられてる人間の反応が面白いと思うから、いじめるんです。 だったら、予想外な行動を起こしてやればいいと思います。 そこで質問ですが、いじめられっ子が いじめっ子に万引きを強要された場合、 確実に いじめっ子の仕返しを回避するには、これで OKですか?