sk479722のプロフィール

@sk479722 sk479722
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  • 登録日2011/04/04
  • タバコと男らしさ?

    私には恋人がいます。 誠実で安心感があって、頼りになる人です。 彼は背が高くゴツい体つきですが、生まれつきノドが弱く、うがいやエアコンに気を使っています。 無論、タバコの煙など論外で、昔は肺が痛くなるほどダメだったようです。 私も非喫煙者で、タバコは生理的に無理なのです。昔、大好きな祖父が肺がんで亡くなりました。とても苦しんで亡くなったのです。祖父は非喫煙者でしたが、戦時中に軍隊でタバコを強要されていたと聞かされたとき、祖父が肺がんになったのは半分タバコのせいだと思ってしまい、それ以来タバコ嫌いになりました。(喫煙者の方ごめんなさい。遺族としてはそういう気持ちになってしまうんです。) もちろん、喫煙者の方でも、尊敬できる素晴らしい方を何人も知っています。多忙でハードな仕事ゆえストレスで吸ってしまうというのもわかります。マナーさえ守れていれば、喫煙者の方を批判する気はありません。 でも、ある友人に「お前の彼氏はタバコの煙を吸うだけで体調が悪くなるなんて、男としてダメだな」と言われたことがあります。その場では軽く流しましたが、時々思い出すと本気でムカムカしてしまいます。 その友人、良い所もいっぱいあるんですけどね。若いからそんな考えになるのでしょうか。 喫煙者の方にお聞きします。 実際、喫煙者の方には、「タバコはカッコいい、男らしさの象徴」「タバコが吸えないやつは女々しい」とか思ったり、非喫煙者の男性を見下すような人が多いのしょうか? (大変失礼な質問で申し訳ありません) 正直な意見をお願いします。

  • 遊ぶとはどのようにすればいいですか?

    いつもお世話になっております。二十代後半(女)です。 とても疲れてしまいました。 よかったらアドバイス宜しくお願いします。 長年(10年近く)あらゆる身体の不調に悩んできましたが、先日やっと病気がわかりました。 治療をすれば、どんどんよくなるそうです。嬉しかったです。 痛み止めと、不安を和らげる薬を処方してもらいました。 なぜかというと、「原因のひとつはあなたに遊びが足りてないから」と医師に言われ、「仕事ばかりしたらいけない」とも言われ、身体の不調も精神的な理由が大きいそうでした。 (そこは、心療内科、精神科ではありません) それで、気づいたのですが、私には遊ぶというのがどうすればよいものかわからないのです。 もちろん友人や恋人とは遊びますが、自分が楽しいというよりも、相手が楽しめているかどうかのほうが大切で、リラックスしていないような気がします。 そもそも、リラックスすることがよくわからず、「のんびりしてていいよ」と言われても、くつろぐという感覚がわからないんです。 身体の緊張(それがひどいらしいので)をとるためにストレッチを毎日しています。 でも、さらに、遊ばなければいけません。 遊ぶことを自分が楽しむって、どうすればよいのか… しかも、働いたお金を自分の好きなことにつかうのが苦手です。 欲しいものはたくさんあります。 それを、実際に「欲しいから」というだけで買えません。(高額でなくても) 理由がないと、罪悪感がひどいです。逆に、人へのプレゼントなどは、全然抵抗がありません。 昔から、稼いだお金は実家に渡すか、医療費か、生活費かの使い道が大半だったため、「お金を遊びにつかう」というのが、気がねなく出来ないです。 自分の家族にも、なぜ私だけ…という気持ちがあります。 そんなこと思っても仕方ないのだけど、ときどき激しい怒りが湧き、支配されます。 弟は、必要なものはすぐに買ってもらえます。(なんでもというわけではないですが) 予備校にも行けて、この夏は車を買ってもらい、事故の修理代も両親の負担。 立派な学部に合格したため、アルバイトは勉強が忙しくて卒業まで出来ないそうです。 私は、貧乏だったので、高校を中退して働きました。 学生の頃から心療内科に通うような不安定な状態でしたが、なんとかお金は稼いでいました。 いろいろ経て、身体を壊して実家に戻らせてもらい、実家にもいられなくなり、今は恋人の実家にお世話になっています。 遅いですが、人生を始めたいと思っているところです。 なのに、普通のことがとても困難です。 日々のちょっとしたことに動揺し、一気に昔の辛かったときの自分に戻ってしまい、今がいつなのかわからないほど混乱し、落ち着くまでやるべき作業を中断してじっとしておくしかありません。 それは、周囲には「やるべきことを放り出している」と映るようです。 恋人は、いちばん理解してくれていますが、やるべきことを出来てないのは事実なので、自分の弱さがとても悔しいです。 親戚付き合いにも参加しなければ…と思いますが、学歴もなくスキルもなくまともな職についていない私は、会話に参加しても傷つくだけで、不安的になって帰宅することになるので、やっぱり行きたくないと思ってしまいました。 「散々親に反抗して、好きなことをしてきた弱くてだらしない人」というふうにしか見られないし、ほんとうにそうなのだと思います。 自分になんの価値もない気持ちに溢れます。 それでも、遊んだら、いつか楽しく思えるでしょうか? どのように遊ぶのがいいでしょうか? 昔はたくさん趣味がありましたが、いまは好きなことがなにかわからないため、どうすればよいかわかりません。いろいろ手をつけてみましたが、楽しいとか好きとかいう感情が出てこないです。 おかしな質問だと思いますが、宜しくお願いします。

  • ノートの提出を成績に加味するというやり方

    私は今23歳なのですが、中学3年のときのある成績について疑問を感じていました。 学期末に三社面談が行われ、そこでその学期の成績一覧を見せてもらいました。 ですが、中間、期末共に90点くらいとった科目の成績に3をつけられていたのです。 私の中では、最低でも4!いや・・・5でもおかしくない!と思っていたくらいです。 なので、担任の先生に「これは何で3なんですか!?」と言うと、 「これは私も何でかな?と思ったんだよね・・・。今度、先生に聞いてみるよ!」と言ってくれて、 後日、その先生の回答では「ノートを出していないからみたいだよ」と言われました。 私はノートを出していないだけで、そんな影響が出るのか!?と思いましたが、 出してないのは事実なので、そのときは自分が悪いと思い、諦めました。 しかし、最近になってたまたまこと頃のことを思い出し、疑問を持ち始めました。 ノート提出を課しているということは生徒が全員授業中、ノートを書いているのが前提ですよね。 私も一応は書いていました。といっても、それを勉強に使う気はさらさら無く、 書いていないと、授業中にやるこもなくて暇だし、何もしていないと注意されそうだったからです。 しかし、私はその科目の勉強は全て教科書のみで行っていました。 ノートについては、先生の書き方が悪いのか?私のまとめ方が悪いのか? 見てもさっぱり分からない。教科書の方が圧倒的に分かりやすく、 教科書のみの勉強で、私はあの点数を出したのです。 なので、もし今の私があのときいたら、教科書のみで十分足りるんだから、 真面目にノートをとっても、どうせ使わない!時間の無駄!と考えてノートをとらず、 成績を下げられても、「私にはノートが要らないから、出すノートがそもそもありません」と、説明するでしょう。 私は高校に行ったら、ほぼ一切ノートはとらなくなりましたが、 卒業もできましたし、それなりの大学に進学できました。 私は教科書が1番安心できるタイプなので、こういう勉強が合ってるんだと思います。 いろいろな勉強のやり方がある中で、ノートが重要と考える人間もいると思いますが、そうではない人間もいるでしょう。 片一方のタイプしか想定していないというか、ノートは書くのが当たり前みたいな、 このようなこの成績の付け方に、未だに納得がいきません。 ノートをとるというのはあくまでも、テストで良い点数をとるための手段の1つと考えます。 ノートを強制的にとれ!というこのような成績のつけ方は、 私のような人間にとっては、非効率な勉強の仕方をしろ!と言っているようなものです。 こういう成績のつけ方をしてるのは私の中学校の”あの先生”だけではなく、 全国各地で今でも行われていることだと思います。 それなら、勉強に役立つか以前に、ノートを書くという行為自体にに何かしらの意味があるということでしょうか? 私は未だにこのやり方が理解できていないので、皆さんはどうお考えですか?

  • 仮免に2回落ちました。

    20歳女です。 題名通り、 仮免に落ちました。 さすがに2回落ちると 諦めた方が良いのではないかと思ってしまいます。 担当の教官からは 普段通りにやれば 受かると言われてますが その『普段通り』が 私にとっては難しいです。 私は強度のアガリ症で 1回目の検定では 検定が終わっても 手足の震えが治まらず、 顔も真っ青になってしまい、 血が引いていくのが わかりました…。 しかも、 衝動的に泣いてしまいました。 …本当にこの性格の自分が嫌になります。 『焦らずに』と言われると なぜか余計に焦ってしまいます。 人前で歌うのは 全然平気なのですが、 車やピアノ演奏などの 実技になるとものすごくアガリます。 ちなみに、マニュアル車で 何回もオートマに 変えた方が良いと言われましたが 最初は全然だったのに 今では普通に乗ることが できるので、 引き下がりたくないんです。 それに、 今日の検定は落ちたけど 1回目よりは確実にマシになりましたし…。 明後日には三回目の検定があります。 私と同じような経験をした方や アガリ症克服など知っている方は アドバイスよろしくお願いします!!!

  • 人がうたがうのは おのれの思いや考えと違うからだ。

     疑問質問を投げかけるのは 自己主張でないものはない。  ――と知るべきである。  その自己主張をやめよという自己主張は ほんとうにはあり得ない。生きるのをよせと言っていることでしかないからである。  多少とも自己主張がよわまっているという場合がある。それは 自分の考えが成熟していないときである。  けれども どの場合にも 人はつつしんでおのれの疑いについて晴らしたいと思っている。ゆえに問いかける。  もしこれをしないという人は すでにすべてを知っているということになる。  そのことを指摘してやるのだけれど 耳を貸さない。ゆえに放っておくしかなくなっている。それだけである。  成熟した思想を持っている場合にも 人それぞれであり 世の中には互いに違った考えがある。だから 互いに自由に自己主張をおこない合い その交わりの中からよりよい方法を編み出してゆく。  これしか おのれと社会のためになる道はないではないか。  何を血迷ったことを 人びとは言っているのだろう。  ご教示ください。  * まったく知らないことについておしえを乞うのは おのれの考えをつくる前段階のことである。  哲学以外のカテでは そのような前段階にとどまる質問がありうる。  いわゆる価値判断をひかえてまづ事実認識に徹するという段階のことでもある。  哲学もその認識作業の段階で とどめるべきだというのも 自己主張である。  だから 互いに交わりを持って その結論を模索しなければならない。  さもなければ全知の人が その答えをずばりと明らかにすればよい。  ただし《全知》の人の言うことが すべてただしいとは限らないというのが 人間のおもしろさではなかろうか。