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  • 吉良上野介は悪人でしたか?

    忠臣蔵の契機となった浅野内匠頭による吉良上野介襲撃事件に関して、 吉良上野介が悪人とされていますが、それは特に根拠がないという説もあります。 1.吉良上野介は事件前から評判が悪い人物だったのでしょうか?   性格が悪いとか、賄賂を要求するとか。 2.吉良上野介が赤穂藩の朝廷使節接待に関して邪魔した事実がありますか? 3.事件後、江戸住みの赤穂藩士への聞き取り調査は行われましたか? 4.たしかNHKの番組で、赤穂浪士が世論操作のために江戸で吉良上野介の悪口を触れ回ったということをいっていたと記憶していますが、事実ですか? よろしくお願いします。

  • お茶屋さんて

    旧街道を歩いたりすると古いたたずまいの旅籠屋、とかお茶屋さんがあ りますが、お茶屋さんであげはんぺんをかって食べた時にふと思ったの ですが、二階の窓から長じゅばんの女の人が窓からのぞいていたりして、 子供がいったらいけないのがお茶屋さんだったはずのようなそんなあやふ やな知識がぽかんと浮かびました。 お茶屋さんていうのは、一階では団子やお茶も飲めて、ニ階はそういう 禁断エリアでしたのでしょうか、お茶と海苔は保存方法がにてるから、 海苔も一緒に売っていたという話も聞いたことがありますが、お茶屋さん の始まりから分岐の歴史が分かりましたら教えてください。 なにぶん無知なものですいませんがよろしくお願いします。

  • また忠臣蔵関係の質問です

    1.「南部坂雪の別れ」は芝居だけだと聞きましたが、南部坂の屋敷には瑤泉院は住んでいなかったのでしょうか。 2.吉良上野介が呉服橋から本所に引っ越した引っ越し先は、前にどんな人が住んでいたのでしょうか。ある本では近藤登之助と書かれているし、別の本には松平登之助と書かれていました。  同一人物なのでしょうか。  もし近藤登之助と松平登之助が別人だとしたら、二つの説はどんなところからでたのでしょうか。 3.討ち入り事件のとき、本所吉良邸の隣の屋敷ではちょうちんを出したといわれていますが、どんな人の屋敷だったのでしょうか。

  • 江戸時代の統治制度が上手く機能した理由?

    江戸時代の統治制度 ・士農工商その他の身分制度 ・農民を相互監視させたこと ・参勤交代などの各大名に反乱を起こさせない工夫 等があると思いますが、人口の大多数を占める農民が 統治制度に従った理由は、なんでしょうか? それなりに生活が安定していた反乱を起こす必要がなかった、 もしくは、反乱を起こす気力を奪う恐怖の刷り込みで等が行われていたからでしょうか?

  • 江戸時代の夜の街の照明事情について

     時代劇などでは江戸時代の夜の花街を描写する時、決まって現代の繁華街のようにそこらじゅうが明るくて歩くのにも何不自由ないような場面をよく見ます。  しかし、実際のところは菜種油などを燃料とした照明はかなり暗かったのではないでしょうか?  資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます(笑)  本当のところ歩くにも不自由ないくらいの照明であったのでしょうか?  江戸時代に詳しい方のご教授をお願いいたします。

  • 武士の頭

    月代?いわゆるちょんまげですが どうしたらあんな独創的な髪型になるのでしょう? 前髪を剃りおとして、ちょこんとちょんまげを乗せるって。 誰が考えたのか?不思議でたまりません。 非難してるわけじゃないんです。 ただいつから、誰がそうしたのかが気になります。 うちの母親は、髪の薄い天皇か大名が、『この方が良いではないか』って 言ったんじゃない?って言ってました(笑) 歴史に詳しい方教えて下さい。

    • ベストアンサー
    • 白雪
    • 歴史
    • 回答数2
  • 江戸時代の夜の街の照明事情について

     時代劇などでは江戸時代の夜の花街を描写する時、決まって現代の繁華街のようにそこらじゅうが明るくて歩くのにも何不自由ないような場面をよく見ます。  しかし、実際のところは菜種油などを燃料とした照明はかなり暗かったのではないでしょうか?  資料を見ますと遊郭も結構遅い時間まで営業していたようですが、店をひやかしつつ歩きまわるにしても暗くて遊女の顔も良く見えなかったのでは?などと余計な心配までしてしまいます(笑)  本当のところ歩くにも不自由ないくらいの照明であったのでしょうか?  江戸時代に詳しい方のご教授をお願いいたします。

  • 元禄時代の忠臣蔵の事件について

    よく考えるといろいろわからないことがたくさんあります。 1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。 2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。 3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。 4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。 4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。 5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。 6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。 以上、いろいろ書きましたが、よろしくお願いいたします。

  • 元禄時代の忠臣蔵の事件について

    よく考えるといろいろわからないことがたくさんあります。 1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。 2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。 3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。 4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。 4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。 5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。 6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。 以上、いろいろ書きましたが、よろしくお願いいたします。

  • 元禄時代の忠臣蔵の事件について

    よく考えるといろいろわからないことがたくさんあります。 1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。 2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。 3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。 4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。 4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。 5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。 6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。 以上、いろいろ書きましたが、よろしくお願いいたします。

  • 元禄時代の忠臣蔵の事件について

    よく考えるといろいろわからないことがたくさんあります。 1.四十七士は事件当日3ヶ所に分かれて集合して吉良邸に向かったそうですが、表門隊と裏門隊の二つにわかれたとすれば、どこかで全員集合したと思います。そういうことはなかったのでしょうか。 2.江戸の町には木戸があったし自身番とか辻番がいたるところにあったようです。吉良邸に向かうときや事件後に泉岳寺までいくときにはお咎めがなかったのでしょうか。 3.討入事件のときに野次馬は出なかったのでしょうか。 4.事件のあと四拾七士は泉岳寺に向かいましたが、怪我人や老人は駕籠に乗っていったと書いた本がありました。早朝6時に駕籠屋はやっていたのでしょうか。 4.隣の屋敷では討入を応援して提灯を掲げますが、こういうことについて幕府は何もいわなかったのでしょうか。 5.町奉行や火付け盗賊改めが動いた形跡はないみたいですね。事件後に泉岳寺に行く途中に2人の浪士が大目付の屋敷に自首したということですが、こういう事件は大目付があつかっていたのでしょうか。 6.四十七士のうち吉良邸前で逃亡した寺坂吉衛門以外の46人は大名屋敷にお預けになりましたが、こういう場合は小伝馬町の牢屋に行くのではないでしょうか。 以上、いろいろ書きましたが、よろしくお願いいたします。

  • 困っています 泣 岡山県藩主 池田綱政について

    岡山県藩主池田綱政の江戸と岡山の生活について教えてください。 レポート課題がでたのですがインターネットや資料を見てもよくわかりませんでした 泣 さわりだけでもよりのでご存じの方よろしくお願いします

  • 公方様の呼び名

    1・公方様は上様と呼びますが、でも、時々、ウマと呼ぶ人もいるんですか?。 2・甲府、館林、駿河は親藩ですか?。 3・参議が殿様になっていたのは甲府と館林だけですか?。

  • 栄養計算

    チューハイの栄養計算をしたいのですが 何を代用として計算するのがベストでしょうか?

  • 吉良邸討入前にそば屋の2階に集合

     あれはウソだったのでしょうか?

  • 天ぷらそば

    「鬼平犯科帳」のなかに、小柱のかきあげをのせた天ぷらそばが出てきます。また赤穂浪士のうち数人が討ち入り前におそばを食べたといいますが、当時はどんなおそばだったのでしょうか。

  • 吉良邸討入前にそば屋の2階に集合

     あれはウソだったのでしょうか?

  • 吉良邸討入前にそば屋の2階に集合

     あれはウソだったのでしょうか?

  • 吉良邸討入前にそば屋の2階に集合

     あれはウソだったのでしょうか?

  • 武士とは何をしてたの?

    江戸時代に士農工商の身分制度があったことは小学生の時に習いました。農民、工作人、商人などは読んで字のごとくでどんな仕事をしていたのか良く分かりますが、武士とは具体的にどんな仕事をしていたのですか?刀を差して道を闊歩するだけで何に対してお金を得ていたのですか?

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    • agekoba
    • 歴史
    • 回答数9