ENERGEIA の回答履歴

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  • 『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないの

    『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないのか?』  ネット苦手人間なので リニューアル後のタイトル文(上記のような)を書く場所が解かりません^^。 あとで重複箇所が出来てしまう場合は 取り消せるなら上記の部分を消すことにしてともかく書いてみますね。 私はアカデミックな哲学の世界にたいへん無知な人間なのですが 現在 アカデミックな哲学の世界に失望しています。 なぜ、 諸学問を統合して、 人間に役立つ論理の構築をしてくれないのでしょう。 同じ生涯の意識内の世界であるならば、すべて学問はすべて有機的なカタチで結びついているはずです。 それをより生き生きと 私たち人間の生涯に役立つように総合的に考察して そこに その礎(いしずえ)となるような精神的バックボーンを与えてくれ、そこに、現代の問題がいかに大きく複雑でも それを解決する糸口や見通しをつけるべく、すくなくとも その実践のための土台を提供し、 そこにコミュニティなり 社会なり 政治なりに実践をともにしてくれる哲学が、    なぜ、 いままでの哲学を多く総合的に学んでこられた方の中から出てこないのだろうか? それが、アカデミックな過去の哲学への 私の疑問です。 現代は情報化時代であり、 昔より多くの人間の問題を よりリアルに認識し、考え抜き、迷い、解決の糸口を求めつづける端緒が私たちの生涯の意識の中には、 そこから目をそらさない人であるかぎり、 育ち膨らんでくるということもあるかとは思います。(昔の哲学よりも、現代から生まれつつある哲学を重視しようという考えです) が、そのための、学問の総合化への意思を、 哲学の質疑に、今のところは見出せないでいます。 建築の図面を描けば、それは建築物を作るときに役立ちます。 その建築が どのように私たちの生涯と関っているのか、より大きく関れるのかを分析すること(哲学すること、総合的に現代の諸学問、科学を活用して考えること)は、さらに役立ちます。  それだけよりよい図面を描けるようになるからです。   が 同時に そこに人間に役立つ諸学問、諸学問の成果とは関係ない、 無数の線を引いてその意味?を問い続けることもおそらく論理的には可能でしょう。  でも 哲学ってそれでいいのですか?  痛みや、幸せへの希求の世界が私たちの意識の内奥にこんなにも 痛々しく、せつせつとして流れているのが現代文明社会なのに、  なぜ、経済を 苦しみをできるだけ少なくしてさらに発展させる産業や商品アイデアの基盤を総合的に誰も哲学者は考えてくれないのでしょう? なぜ、医療がこんなにも矛盾の内に存在を余儀なくされて医療自体すらも苦しんでいる時に哲学は何も答えられないのでしょう? いくらでも 切々とした問題は山済みですが、本来総合的な力を持った思索の世界が 言行一致した実践ととにもあるというのならば、哲学は、この現代にこそ必要な学問(思索)だと思うのですが、 それとも、 例えば事実とか現象とか言う言葉で それを語るのに難しく考えようとすることにこだわっているのが現代哲学者ということであるというのならば、 もはや、わたしは哲学者たちには期待しないで済むのですが(かなり皮肉となってしまいましたが) みなさんは、 このへんをどうお考えですか? 実践派なので^^、 ゆったりとしていられず、 『すぐに回答を!』を選ばせていただきます。 宜しくお願いいたします。

  • 『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないの

    『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないのか?』  ネット苦手人間なので リニューアル後のタイトル文(上記のような)を書く場所が解かりません^^。 あとで重複箇所が出来てしまう場合は 取り消せるなら上記の部分を消すことにしてともかく書いてみますね。 私はアカデミックな哲学の世界にたいへん無知な人間なのですが 現在 アカデミックな哲学の世界に失望しています。 なぜ、 諸学問を統合して、 人間に役立つ論理の構築をしてくれないのでしょう。 同じ生涯の意識内の世界であるならば、すべて学問はすべて有機的なカタチで結びついているはずです。 それをより生き生きと 私たち人間の生涯に役立つように総合的に考察して そこに その礎(いしずえ)となるような精神的バックボーンを与えてくれ、そこに、現代の問題がいかに大きく複雑でも それを解決する糸口や見通しをつけるべく、すくなくとも その実践のための土台を提供し、 そこにコミュニティなり 社会なり 政治なりに実践をともにしてくれる哲学が、    なぜ、 いままでの哲学を多く総合的に学んでこられた方の中から出てこないのだろうか? それが、アカデミックな過去の哲学への 私の疑問です。 現代は情報化時代であり、 昔より多くの人間の問題を よりリアルに認識し、考え抜き、迷い、解決の糸口を求めつづける端緒が私たちの生涯の意識の中には、 そこから目をそらさない人であるかぎり、 育ち膨らんでくるということもあるかとは思います。(昔の哲学よりも、現代から生まれつつある哲学を重視しようという考えです) が、そのための、学問の総合化への意思を、 哲学の質疑に、今のところは見出せないでいます。 建築の図面を描けば、それは建築物を作るときに役立ちます。 その建築が どのように私たちの生涯と関っているのか、より大きく関れるのかを分析すること(哲学すること、総合的に現代の諸学問、科学を活用して考えること)は、さらに役立ちます。  それだけよりよい図面を描けるようになるからです。   が 同時に そこに人間に役立つ諸学問、諸学問の成果とは関係ない、 無数の線を引いてその意味?を問い続けることもおそらく論理的には可能でしょう。  でも 哲学ってそれでいいのですか?  痛みや、幸せへの希求の世界が私たちの意識の内奥にこんなにも 痛々しく、せつせつとして流れているのが現代文明社会なのに、  なぜ、経済を 苦しみをできるだけ少なくしてさらに発展させる産業や商品アイデアの基盤を総合的に誰も哲学者は考えてくれないのでしょう? なぜ、医療がこんなにも矛盾の内に存在を余儀なくされて医療自体すらも苦しんでいる時に哲学は何も答えられないのでしょう? いくらでも 切々とした問題は山済みですが、本来総合的な力を持った思索の世界が 言行一致した実践ととにもあるというのならば、哲学は、この現代にこそ必要な学問(思索)だと思うのですが、 それとも、 例えば事実とか現象とか言う言葉で それを語るのに難しく考えようとすることにこだわっているのが現代哲学者ということであるというのならば、 もはや、わたしは哲学者たちには期待しないで済むのですが(かなり皮肉となってしまいましたが) みなさんは、 このへんをどうお考えですか? 実践派なので^^、 ゆったりとしていられず、 『すぐに回答を!』を選ばせていただきます。 宜しくお願いいたします。

  • 『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないの

    『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないのか?』  ネット苦手人間なので リニューアル後のタイトル文(上記のような)を書く場所が解かりません^^。 あとで重複箇所が出来てしまう場合は 取り消せるなら上記の部分を消すことにしてともかく書いてみますね。 私はアカデミックな哲学の世界にたいへん無知な人間なのですが 現在 アカデミックな哲学の世界に失望しています。 なぜ、 諸学問を統合して、 人間に役立つ論理の構築をしてくれないのでしょう。 同じ生涯の意識内の世界であるならば、すべて学問はすべて有機的なカタチで結びついているはずです。 それをより生き生きと 私たち人間の生涯に役立つように総合的に考察して そこに その礎(いしずえ)となるような精神的バックボーンを与えてくれ、そこに、現代の問題がいかに大きく複雑でも それを解決する糸口や見通しをつけるべく、すくなくとも その実践のための土台を提供し、 そこにコミュニティなり 社会なり 政治なりに実践をともにしてくれる哲学が、    なぜ、 いままでの哲学を多く総合的に学んでこられた方の中から出てこないのだろうか? それが、アカデミックな過去の哲学への 私の疑問です。 現代は情報化時代であり、 昔より多くの人間の問題を よりリアルに認識し、考え抜き、迷い、解決の糸口を求めつづける端緒が私たちの生涯の意識の中には、 そこから目をそらさない人であるかぎり、 育ち膨らんでくるということもあるかとは思います。(昔の哲学よりも、現代から生まれつつある哲学を重視しようという考えです) が、そのための、学問の総合化への意思を、 哲学の質疑に、今のところは見出せないでいます。 建築の図面を描けば、それは建築物を作るときに役立ちます。 その建築が どのように私たちの生涯と関っているのか、より大きく関れるのかを分析すること(哲学すること、総合的に現代の諸学問、科学を活用して考えること)は、さらに役立ちます。  それだけよりよい図面を描けるようになるからです。   が 同時に そこに人間に役立つ諸学問、諸学問の成果とは関係ない、 無数の線を引いてその意味?を問い続けることもおそらく論理的には可能でしょう。  でも 哲学ってそれでいいのですか?  痛みや、幸せへの希求の世界が私たちの意識の内奥にこんなにも 痛々しく、せつせつとして流れているのが現代文明社会なのに、  なぜ、経済を 苦しみをできるだけ少なくしてさらに発展させる産業や商品アイデアの基盤を総合的に誰も哲学者は考えてくれないのでしょう? なぜ、医療がこんなにも矛盾の内に存在を余儀なくされて医療自体すらも苦しんでいる時に哲学は何も答えられないのでしょう? いくらでも 切々とした問題は山済みですが、本来総合的な力を持った思索の世界が 言行一致した実践ととにもあるというのならば、哲学は、この現代にこそ必要な学問(思索)だと思うのですが、 それとも、 例えば事実とか現象とか言う言葉で それを語るのに難しく考えようとすることにこだわっているのが現代哲学者ということであるというのならば、 もはや、わたしは哲学者たちには期待しないで済むのですが(かなり皮肉となってしまいましたが) みなさんは、 このへんをどうお考えですか? 実践派なので^^、 ゆったりとしていられず、 『すぐに回答を!』を選ばせていただきます。 宜しくお願いいたします。

  • 『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないの

    『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないのか?』  ネット苦手人間なので リニューアル後のタイトル文(上記のような)を書く場所が解かりません^^。 あとで重複箇所が出来てしまう場合は 取り消せるなら上記の部分を消すことにしてともかく書いてみますね。 私はアカデミックな哲学の世界にたいへん無知な人間なのですが 現在 アカデミックな哲学の世界に失望しています。 なぜ、 諸学問を統合して、 人間に役立つ論理の構築をしてくれないのでしょう。 同じ生涯の意識内の世界であるならば、すべて学問はすべて有機的なカタチで結びついているはずです。 それをより生き生きと 私たち人間の生涯に役立つように総合的に考察して そこに その礎(いしずえ)となるような精神的バックボーンを与えてくれ、そこに、現代の問題がいかに大きく複雑でも それを解決する糸口や見通しをつけるべく、すくなくとも その実践のための土台を提供し、 そこにコミュニティなり 社会なり 政治なりに実践をともにしてくれる哲学が、    なぜ、 いままでの哲学を多く総合的に学んでこられた方の中から出てこないのだろうか? それが、アカデミックな過去の哲学への 私の疑問です。 現代は情報化時代であり、 昔より多くの人間の問題を よりリアルに認識し、考え抜き、迷い、解決の糸口を求めつづける端緒が私たちの生涯の意識の中には、 そこから目をそらさない人であるかぎり、 育ち膨らんでくるということもあるかとは思います。(昔の哲学よりも、現代から生まれつつある哲学を重視しようという考えです) が、そのための、学問の総合化への意思を、 哲学の質疑に、今のところは見出せないでいます。 建築の図面を描けば、それは建築物を作るときに役立ちます。 その建築が どのように私たちの生涯と関っているのか、より大きく関れるのかを分析すること(哲学すること、総合的に現代の諸学問、科学を活用して考えること)は、さらに役立ちます。  それだけよりよい図面を描けるようになるからです。   が 同時に そこに人間に役立つ諸学問、諸学問の成果とは関係ない、 無数の線を引いてその意味?を問い続けることもおそらく論理的には可能でしょう。  でも 哲学ってそれでいいのですか?  痛みや、幸せへの希求の世界が私たちの意識の内奥にこんなにも 痛々しく、せつせつとして流れているのが現代文明社会なのに、  なぜ、経済を 苦しみをできるだけ少なくしてさらに発展させる産業や商品アイデアの基盤を総合的に誰も哲学者は考えてくれないのでしょう? なぜ、医療がこんなにも矛盾の内に存在を余儀なくされて医療自体すらも苦しんでいる時に哲学は何も答えられないのでしょう? いくらでも 切々とした問題は山済みですが、本来総合的な力を持った思索の世界が 言行一致した実践ととにもあるというのならば、哲学は、この現代にこそ必要な学問(思索)だと思うのですが、 それとも、 例えば事実とか現象とか言う言葉で それを語るのに難しく考えようとすることにこだわっているのが現代哲学者ということであるというのならば、 もはや、わたしは哲学者たちには期待しないで済むのですが(かなり皮肉となってしまいましたが) みなさんは、 このへんをどうお考えですか? 実践派なので^^、 ゆったりとしていられず、 『すぐに回答を!』を選ばせていただきます。 宜しくお願いいたします。

  • 美術や音楽は進歩していますか。

    美術や音楽は進歩していますか。 今の時代、ダビンチやベートーベンの時代よりも進歩している(上である)と言えますか。

  • エロは生存本能だって言うのに、なぜ隠すのか?

    いいっすかぁ!? 目を見開いて、よーく質問を読んでくださいよ! 本質的なことを書きますからね。 あまりに本質的過ぎるので、面食らうかもしれませんが、そこをもう一段掘り下げるととんでもなく人間存在の不思議について突き当たります。 なぜ人は、自分の性を隠したがるのか? 人が存続していくためには実に大切な本能欲求です。 それを、エロ本をもっているのを隠すとは、なんと矛盾した行動なのでしょうか? そろそろ読むのもいやになってきたかもしれないので、ここからは蛇足です。 小学生のとき20代のおじの家に行って、そのときおじの棚にいろいろ面白いものがあったので、借りてみていたのですが、その中にまぁちょっとエロっぽいものがあった。それをみられたとわかったおじは、いつも機嫌がいいのに急に険しい雰囲気になったのです。「そんなにエロなものってもっていちゃいけないの?」と小学生ながら根本的な疑問を感じて、恐怖というか嫌悪と言うか、大人社会の中でのエロと言う物がそんなに忌避すべきものなんかという戦慄を味わいました。そういうトラウマって誰にでも多かれ少なかれありますよね。 なぜ、こういうときに「ああ、こんなにエロなんだ!立派!」というような感覚に一般人一般社会はなれないのでしょうかね。そんなにも「隠す」ものでしょうか?

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • 悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。

    愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。

  • カントやヘーゲルの最終ステージは

    十界論によると、カントやヘーゲルなどの哲学者はどのステージに到達した考えますか。アインシュタインはどうですか。 (十界とは地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10ステージ)

  • カントやヘーゲルの最終ステージは

    十界論によると、カントやヘーゲルなどの哲学者はどのステージに到達した考えますか。アインシュタインはどうですか。 (十界とは地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10ステージ)

  • 人々の孤独 繁華街での一光景

    とある、超繁華街の大きな交差点の光景です。 老若男女様々な人々が行きかう。人にぶつからないで歩くのも大変なくらいです。 盛んに宗教宣伝をスピーカーで行っている。 車の騒音、人々の会話、その宗教宣伝が入り混じって、この上ない喧騒に包まれている。 宗教宣伝は「キリストの救い」が趣旨だった。 「紙の申し子であるイエスキリストが、全ての人の罪をあがなったのです…世界は終わりを迎えようとしている…」 というテープを流しながら立て看板を持ってたたずむ男がいます。 サラリーマン風の男がせわしなく歩きながら 「そうか、世界はもうすぐ終わるのか?」 と何気なく復唱していました。このサラリーマンも、仕事とは関係ない哲学にいくぶんかの救いを求めたいのでしょうかね。何らかの影響を受けていた。宗教宣伝の効果は全く無駄でもないらしい。 また、その交差点で移動しない人がもう1人いて、ローン会社の立て看板をもったいわゆるサンドイッチマン(ただ看板を持っているだけ)がその宗教宣伝要員と、大通りをへだてて立っていました。 この男は、おそらく何時間もこの「キリストの救い」を聞いているわけです。 この男の表情はなにか薄ら笑いを浮かべているようだった。 この宗教宣伝要員と、この看板を持ってたたずむ男は、一体どんな経歴を歩んできたんだろうか? そう考えると戦慄をおぼえる。 そのた大多数は、おそらくそれなりの幸せを感じて何気なく毎日を送っている、宗教活動にもローン会社の立て看板にも一顧だにしないで、会話を弾ませて通り過ぎる健康そうな男女である。その対比がすさまじくないでしょうか? こういう光景から、なにか感じるところはありますか? 私は、ああ、世の中って恐ろしいなとどうしても思いますね。そんなことはないのでしょうか?