意地と誇り

このQ&Aのポイント
  • 徳川家康が上杉景勝に槍を向けた理由とは?
  • 上杉景勝が示した義と誇りの結果、会津の領地が減少
  • 前田家は意地と誇りに逆らい、加賀の領地を守り抜く
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意地と誇り

太閤亡き後の天下を狙うに当たり、石田三成の決起を促す為に徳川家康は遥か会津 上杉景勝へと槍を向けました、上杉が徳川に盾突いた理由はまあ一口では語れないでしょう、ただその内の大なるものの一つが、上杉の意地と誇りにあったのは恐らくそうだろうと思います。 結果満天下に上杉の義と誇りを示しはしましたが、会津120万石が 1 / 4 の米沢30万石へと大幅に減知され、その代償は途方も無く大きかった、まあ家名が残っただけ儲けものであったでしょう。 一方対照的であったのが前田家、家康の言い掛かりに対し徹頭徹尾辞を低くしてこれを躱した、当主利長の生母 芳春院 を江戸に人質として差し出す事までしましたが、それが後の加賀100万石に繋がる事となる。 まあ意地・誇り・見栄・・厄介なものです、それを幾らか軽くすれば生きて行く上でどれだけ楽か分からない、ただ男 ( 人間と置き換えてもいいのですが ) からそれを取っちゃうと果たしてどうなのかとの思いも一方ではあります。 さて意地と誇りに関した何かがあればお教え下さい。

  • isoken
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回答No.1

isoken先生こんばんは。 長篠の戦いで、勝頼に撤退を進言するも受け入れられず、 設楽原決戦で戦死した山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、他重臣達。 彼らは信玄に仕えた武田の意地と誇りで戦死をしたのかなぁって思います。 西南戦争で、最前線で指揮を執り戦死した赤マントの篠原国幹、味方の苦戦を知り重症の怪我をおして前線に戻り指揮を執った永山弥一郎、西郷が自決した後も最後まで戦った村田新八・桐野利秋・・・ これはもう薩摩の意地と誇りと思います。 う~ん・・・なんか皆死んじゃってるけど、こういう奴ら嫌いじゃないんすよね~ww

isoken
質問者

お礼

公序良俗違反さん、こんばんは。 バシルーラ ⇒ 性の悩みカテ・・どころか質問自体が削除されちゃいましたね、私の格調高い大作をどうしてくれるんですか、というよりもルートコ話が悪かったのかな?・・との反省も一方では・・。 >長篠の戦いで、勝頼に撤退を進言するも受け入れられず、 設楽原決戦で戦死した山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、他重臣達。 >彼らは信玄に仕えた武田の意地と誇りで戦死をしたのかなぁって思います。 古来より諸説あり私も色々と読み漁りましたが、実は師匠とは若干異なった解釈をしてしまいます。 ・・というのも信玄在世中の武田軍は、山県・馬場・内藤といった優秀なブレーンから吸い上げた意見を下にした決定権は飽く迄も信玄にあり、彼の一存でどうにでもなった、例えば長篠の戦いに於いて、内通を申し出た佐久間信盛がどうも怪しいとなれば、突撃は簡単に中止出来たでしょう。 ところが信玄の死そして勝頼への代替わりを境に、家政内力学の地殻変動が起こっておりましたね、つまり実質的に勝頼・親類衆・重臣の合議制へと移行していたと見るからです、それも穴山梅雪に代表される親類衆の比重が増しており、少なくとも勝頼の専制は許されない状況にあったと・・。 無論山県・馬場・内藤の諸将は設楽原への突撃に懐疑的であったでしょう、但し同時に出過ぎた杭になる事・・穴山梅雪を筆頭とする親類衆に疎まれるのを恐れたんだろうと思います、故に出撃を強く反対出来なかった事に依る敗戦に関して勝頼への負い目があった、それが後の討死に繋がったのではなかろうかと思うのです。 勿論そこには、信玄の死以降予兆が見られた武田の凋落という点、及び長篠の敗戦が齎すであろう決して明るくない未来予想図への絶望感も見逃せませんが・・。 >西南戦争で、最前線で指揮を執り戦死した赤マントの篠原国幹、味方の苦戦を知り重症の怪我をおして前線に戻り指揮を執った永山弥一郎、西郷が自決した後も最後まで戦った村田新八・桐野利秋・・・ >これはもう薩摩の意地と誇りと思います。 果たして 「 戦国最強の軍団は ? 」 ・・、今尚好んで戦わされる議論でありまして、越後の上杉・甲斐の武田・三河の徳川他まあ意見は色々とあるでしょう、但し指を3本折れば必ず入っているのが恐らく薩摩の島津、九州一円を席巻したのみならず、遠く明・朝鮮にまで勇名を轟かせた島津こそ、個人的には最強であったろうと思います。 その証左は枚挙に暇がない、例えば慶長の役に於ける泗川の戦い、関ヶ原の退却戦で見せた捨て奸 ( すてがまり ) 他、師匠にゴマをする訳ではありませんが、もう途方もなく強かったといいますね、加えて関ヶ原の敗戦以降に於いてみせた、天下の軍を向こうに回しても戦おうとする迎撃の意志には島津の意地と誇りが感じられまして、天晴れではなかろうかと・・。 それ以上に驚きなのが、200数十年に渡り、戦国の気風を真綿に包めて純粋培養して来たような島津の在り方・・、決して大袈裟ではなく日本史上の一大奇観でありまして、江戸中期以降の他大名家はほぼ例外なく、幕府の勢威を恐れて武芸よりもむしろ文化や経済の振興に重きを置いておりましたが、ただ薩摩のみは今申し上げた通りです。 その遥か延長線上に討幕があるのでしょうが、西南戦争では自慢の武器を明治政府に拠出した為、旧式の装備で戦わざるを得なかったという背景がある、ただまあ幾多名前を挙げて頂いた通り、それこそ命知らずの勇将が犇めいておりまして、その勝敗は別としてさすがは薩摩と思わざるを得ない、・・と同時に栄光あるその子孫の一部が、武道を捨てエロの道に走ったのもまた興味深いところではあります。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • oya_zico
  • ベストアンサー率19% (398/2007)
回答No.7

isokenさん、おはようこざいます。 (最近、史実と小説が混同しているので、史実に反していたら申し訳ございません。) 意地と誇りで思い出すのは、(あくまで真田丸からのイメージですが)やはり、真田昌幸・幸村親子でしょうか。 小国にもかかわらず、徳川に対し、意地を張り通した姿は、本当に格好良かった。 それから、竹中半兵衛、 遊び呆けている主君『斎藤龍興』を諌めるために城を占領するも「謀反を起こしたわけではない」と織田家からの勧誘になびかず、主君に城を返した行為は、意地と誇りを感じましたね。 最後に、chachaさんでしょうか。 堂々と【スケベ道】を貫くあの意地と誇り、ついに、あの方から免罪符をを入手。カッコイイですね。

isoken
質問者

お礼

zico さん、こんにちは。 >意地と誇りで思い出すのは、(あくまで真田丸からのイメージですが)やはり、真田昌幸・幸村親子でしょうか。 >小国にもかかわらず、徳川に対し、意地を張り通した姿は、本当に格好良かった。 武田崩れそして本能寺の変後の信州は上杉・北条・徳川の草刈り場でした、余程の才覚が無ければ家名を保つのは難しかったろうと思います。 一時の安寧を考え無条件で大勢力に身を委ねるのは容易い事ですが、人質を取られ先手衆として追い使われた挙句、一朝何事かあれば真っ先に切り捨てられる運命にある訳ですから・・。 その点は 『 おんな城主 直虎 』 にも通じるものがありまして、今後井伊家の行き方に要注目ですが、真田昌幸という武将は面白い人で、あれだけ怜悧な計算と表裏常なき反覆を繰り返しながらも、仰る通りで結果的には終始一貫反徳川・・。 そこにあったものが、仮に家名存続を願う上での計算だけであったとするならば、関ヶ原の敗戦に於いてその蠢動を終えたはずですが、そうはならなかった事を思えば、御指摘の通り真田の意地であったという事、故に遥か数百年の後世に生きる我々を惹き付ける真田六文銭の盛名がある、まあ天晴れという他ないでしょう。 さて今年の大河ドラマの故地は 遠州 浜松市・井伊谷ですね、どうだろう信州上田と同程度の距離なのでしょうか、幸い大学時代仲の良かったサークルの先輩が、ウナギの養殖他手広くやっておりまして、一度来いとうるさいものですから、おじゃまして腹がはち切れるほどウナギを食べさせてもらおうかと思っております。 zico さんも行かれたらどうですか、そう遠くないだろうし・・。 >それから、竹中半兵衛、 >遊び呆けている主君『斎藤龍興』を諌めるために城を占領するも「謀反を起こしたわけではない」と織田家からの勧誘になびかず、主君に城を返した行為は、意地と誇りを感じましたね。 竹中半兵衛という、日本の諸葛孔明にも例えられる伝説的な軍師も、本来であれば歴史の片隅に眠るはずの武将であったろうと思います、元々西美濃の小領主でしかなかった上、本能寺の変以前僅か36歳で天に召されておりますから・・。 ところが秀吉が天下を取った事で一躍クローズアップされる事となる、その存在は日本史というよりもむしろ、子供の頃太閤記に慣れ親しんだ者にとっては、蜂須賀小六辺りと並んで無くてはならないキャラクターである訳で、彼に関しては逸話の部分が多く、どの程度秀吉の天下取りに関わったか今一つ不明な部分が多い、まあその業績を深く掘り下げるのは無粋というものでありましょうね。 ただ御指摘の稲葉山城奪取というのは確かに史実にある、戦国の世に似合わぬ無欲な青年であったという事でしょう。 ところで 釈由美子 ( ⇐ 結構好きです ) は蜂須賀小六の子孫らしいですね、一方 泉元彌 が竹中半兵衛の末流というのは本当のところどうなんでしょうかねぇ。 >最後に、chachaさんでしょうか。 >堂々と【スケベ道】を貫くあの意地と誇り、ついに、あの方から免罪符をを入手。カッコイイですね。 chacha 師匠は、何れ「 薩摩エロ示現流 」 の始祖となるお方です、 その特徴は一の太刀で女を倒す・・先手必勝のその鋭い斬撃にある。 もっとも時々滑って、 「 性の悩み 」 カテに飛ばされる事もあるようです、こないだは削除されたし・・。 回答ありがとうございました。

noname#246288
noname#246288
回答No.6

日本そのものですね。 日本は、当時無敵と言われたロシアのバルチック艦隊を撃破し、アジア筆頭国への道を歩み出しましたが、有色人種の台頭を許さない白人至上主義のアメリカがハルノートを突きつけ日本叩きを行おうとしました。 だが、ハルノートを受け入れたら三流国へ転落するのが明白となるため、これを拒否。しかし正面切ってアメリカと戦ったら勝てないと分かっていた日本は、真珠湾奇襲という手を打った。 しかし、次第に物量に勝るアメリカに押され、降伏という屈辱だけは避けたい日本は人間爆弾と化した特攻機まで投入しましたが、原爆2個の投下という決定打により敗戦。 我が国は焦土と化し、多くの人々は家も食料も失い、連合国は日本は、もはや再び這い上がってくることはできないだろうと思われてましたが、国民は復興を夢見て一致団結し、努力した結果、再び繁栄し先進国になることができました。 この戦争が良いか悪いかは別として、これこそがまさに意地と誇りだと思います。

isoken
質問者

お礼

soliob さん、おはようございます。 >日本は、当時無敵と言われたロシアのバルチック艦隊を撃破し、アジア筆頭国への道を歩み出しましたが、有色人種の台頭を許さない白人至上主義のアメリカがハルノートを突きつけ日本叩きを行おうとしました。 第32代大統領フランクリン・ルーズベルトに見え隠れするレイシストとしての側面・・、仮に交渉の当事者が西欧の国家であれば、ハルノートの如き一方的な最後通告は有り得なかった・・、私も同感です。 >我が国は焦土と化し、多くの人々は家も食料も失い、連合国は日本は、もはや再び這い上がってくることはできないだろうと思われてましたが、国民は復興を夢見て一致団結し、努力した結果、再び繁栄し先進国になることができました。 当時のあの惨状を見れば、世界の誰もが我が日本の台頭は再びないと疑わなかったとしても、何等不思議な事ではなかったろうと思います。 ところが軍事大国という重石を捨て去った戦後の歩みは、極めて勤勉な国民性と相まって、経済に特化した最適な環境を作り上げ見事に再生を果たした、一方軍隊という組織・規律をそれは見事に会社・経済へと転化させた点、及び主として軍需産業から引き出した潜在的テクノロジーも見逃せない、そして何より一つの方向性を見出せばただひたすらそこを目指す国民性・・、その全てが嚙み合った結果今の日本があるのでしょう。 何せ戦後日本は、共産主義国家群が夢見て果たせなかった、ほぼ理想的な均等社会を築き上げました、もっともその後若干の紆余曲折はありますが・・。 >この戦争が良いか悪いかは別として、これこそがまさに意地と誇りだと思います。 先ずは始まった明日を生き延びようとする足掻が、このままでは終われないという国民の総意に徐々に変わって行ったのでしょう、つまり喰うという個別の現実から国家の意地・誇りへと・・、その延長線上にこそ経済大国へと至る一筋の光明が見えたのではなかろうかと思います。 何はともあれ、先人達は世界に我が日本のポテンシャルを見せつけた、我々はその果実を喰らっている訳で、同時に後世に繋げる責務を負うのでしょう。 さてあの戦争も紛う事なき我が国の歴史の一部です、そしてその全てを受け入れざるを得ない、一方で未来に於ける糧としてその総括は必要不可欠ですが、今更良い悪いの議論はさしたる意義を持たない、そう考えるところです。 回答ありがとうございました。

回答No.5

意地と誇りを示した島津は家康と戦って負けたのに薩摩七十万石を安堵されました… 関ヶ原で四方を囲まれた島津が意地と誇りを掛けて東軍の中央突破を試みて戦場を離脱したのは意地と誇りだと思います

isoken
質問者

お礼

azuki さん、おはようございます。 >意地と誇りを示した島津は家康と戦って負けたのに薩摩七十万石を安堵されました… 先のお礼でも述べましたが、仰る通りで関ヶ原後の島津の覚悟は小気味良いばかり・・、国境を固めて一戦も辞さずと家康を恫喝すらしましたからねぇ。 福島・加藤その他太閤恩顧の大名を、家康は全く恐れておりませんね、彼が恐れたのは島津のように長きに渡りその地を治め、いざ事があると上下一体となって必死の戦いに及ぶあろう地付きの大名です。 だから漸く手に入れた天下を思い、不承不承でも許さざるを得なかった・・。 >関ヶ原で四方を囲まれた島津が意地と誇りを掛けて東軍の中央突破を試みて戦場を離脱したのは意地と誇りだと思います 捨て奸 ( すてがまり )・・痺れます。 回答ありがとうございました。

  • kamejrou
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回答No.4

こんにちはisoken さん 下書き保存は良いことを教えていただいた 適当な段落で保存を繰り返していけば少々時間はかかってもショックで倒れない 誰かさんにお詫びを 三馬鹿兄弟とは私もいささか言葉が過ぎた、申し訳ありません 頭がおかしいんじゃないか?そう思えなくもない三人と言うべきでした ただ私にしては褒め言葉でもあるのですがね 見栄を張る、見得を切る虎親分の御高説まことにごもっとも❗ 親分もたまにいい事を言う ただ、見栄を張るについて少し補足させていただけば 男は心のうちで泣いて見栄を張らなければいけない時もある 親分の言うのはそれはただの「見栄っ張り」、 私に言わせれば男たるもの見栄を張れなければ男ではない❗ 見栄を張れてなんぼとも言える 「武士は食わねどたか楊子」と言う言葉もある 男は痩せ我慢が出来なければいけない 虎親分、女を連れて「オラは今日持ち合わせが少ないから割り勘にしてクンロ」、 そうは口が腐っても言うまい、私も言わない 家財道具全部売り払っても 「女が財布に手をかけるでネ❗オラにまかせてケロ」胸を叩いて、それでさすがに上州の虎 男じゃないかと言われる フーテンの寅さんが言う男はつらいのです さて、虎ちゃんとの馬鹿話で長くなりましたが キャプテンハーロックは知りませんが誇りと言うものの本質的なものを知ってる 何時も馬鹿なことばかり言ってるが本当は誰よりも賢いのかも知れない❗ 恐ろしい奴だ❗ Isoken さんは虎ちゃんのような人間はおそらく好きでしょうね?アハハハハ Isoken さんが歴史絡みの質問をされるのは久し振りでしょうが 上杉が徳川に楯突いたのは意地と誇りである 仰るとうりでしょうし私もそう思いますが ただ一面、五大老の一人としては前田利家亡き当時の状況下では 家康の専横ぶりは実に目にあまる立たざるを得なかっとも言えるでしょうか? おそらく上杉景勝、徳川家康何ほどのことがある? それは意識のなかに当然あったでしょうし たかだかに出来星大名ではないか? 謙信公の大上杉であれば本来歯牙にかける相手でもないのでしょう 長くなりますので少し端折りますが 上杉景勝、意地を通したまでは私は頷きも出来る 家康、三成の挙兵の知らせを聞くや引き返すわけですが あれを追撃すればおそらく日本の歴史は少し変わったものになったかも知れませんね 景勝の武将としての誇りがそれを潔良しとしなかった Chacha さんが武田の撤退進言について言っておられる おそらく直江兼続、追撃については強硬に進言もしたでしょう でなければ兼続の「直江状」の説明がつかない さて結論ですが意地と誇りは我々は身をどのような境遇におこうと それは持たなければいけないし、でなければ人間でなくなる 「一寸の虫にも五分の魂」と言う それなくばただの虫ケラに堕ちてしまう人も同じでしょう 長くなったついでです、最後にもう少し勘弁していただく 私はisoken さんが好きな武将が伊達政宗であることは承知しております長いお付き合いだ 私も嫌いではないし好きな武将ではありますが やはり上杉景勝、 一日何も言葉のないこともあったほど寡黙な殿様であったと言います 身体は小太り、決して大きな人ではない ただ、家臣領民への情愛は滲むがごときものであったと言う 仰るように景勝の誇りはとてつもなく大きな代償ではあったが まことに厄介ではあるがこれほど魅力的な男もおりませんね 政宗、秀吉のように舞台で見得を切ることも出来ませんが むしろそのけれんみのないところに私は好感を持つ Isoken さんはもちろんご存じですが 前田慶次郎、数千石であまた声があるなかで「我が主は景勝しかおらぬ」、 捨て扶持で生涯を終えた 直江兼続、この馬鹿殿と思ったでしょうかねえ でも涙が出るほどに好きであったに違いない私はそう思うのです 前田のことは又機会でもありましたらお話したいものです ここいらで

isoken
質問者

お礼

kamejrou さん、こんばんは。 >私に言わせれば男たるもの見栄を張れなければ男ではない❗ >見栄を張れてなんぼとも言える 仰る通りだと解釈します。 >Isoken さんは虎ちゃんのような人間はおそらく好きでしょうね?アハハハハ これもまたその通りです。 >おそらく上杉景勝、徳川家康何ほどのことがある? >それは意識のなかに当然あったでしょうし >たかだかに出来星大名ではないか? >謙信公の大上杉であれば本来歯牙にかける相手でもないのでしょう 謙信公の最盛期には軽く300万石はあったでしょう、かの信長ですら靴を舐めんが如く腰を低くして機嫌を取り結びました、それこそ島津と並んで日本最強の軍団でありましたから、如何に260万石 大老首座にあるとはいえ、徳川何するものぞ・・という気概はあったろうと思います。 >上杉景勝、意地を通したまでは私は頷きも出来る >家康、三成の挙兵の知らせを聞くや引き返すわけですが >あれを追撃すればおそらく日本の歴史は少し変わったものになったかも知れませんね 会津の上杉を軸に展開された、あの当時の北関東~南奥羽に至る角逐は本当に興味深いものがあります、煮ても焼いても食えない諸将が顔を揃えましてね、伊達・最上そして佐竹・・。 一方関ヶ原がああいう結果に終わりましたから、彼等の動向は歴史の必然と思われがちですが、仮に西軍有利の長戦になれば、佐竹はもとより伊達・最上も恐らく上杉を盟主に押し立てて、江戸を突く程度の選択肢は用意していたろうと思います、彼等は心地良いほどに完全な面従腹背ですから・・。 そして何より御指摘の追撃・・、仰る通りで或いは歴史を変えたかも知れません、ただ背後の伊達・最上、そして対上杉の抑えに残された結城秀康の存在を思えば、挟み撃ちに合うよりは最上併呑の後、兵を返して徳川を追うというのもあながち間違った選択ではなかったとも思えます。 関ヶ原後矛を収めたのもそう、そこには直江兼続とは違った立場があった・・つまり名家の当主であるが故、現実的な選択肢を取らざるを得なかったのでしょう、それこそ何時ぞや kamejrou さんが言われた一所懸命。 >やはり上杉景勝、 >一日何も言葉のないこともあったほど寡黙な殿様であったと言います 身体は小太り、決して大きな人ではない >ただ、家臣領民への情愛は滲むがごときものであったと言う >仰るように景勝の誇りはとてつもなく大きな代償ではあったが >まことに厄介ではあるがこれほど魅力的な男もおりませんね 謙信公とはまた違った魅力があります、どういうんでしょうね、不遇に負けない逞しさとでもいう趣きが景勝にはある。 そもそも戦国乱世の中にあってすら、最も激流動乱のあの時代を生き抜いたのが不思議なほどです、何しろ御館の乱に於いて何とか上杉の名跡を継いだ頃、景勝の所領は30万石あったかどうか・・。 肝心の越後は完全に内乱・・つまり虫食い状態にありましたし、謙信の時代服従した他国への影響力は、ほぼ無いに等しい状況にありましたから。 それがあの苦境を乗り切り、太閤を魅了し且つ諸侯を憚らせる訳で、遥か後世に生きる我々にとって、カッコイイ上杉という印象を植え付ける上で彼の功績は誠に大きいでしょう。 >政宗、秀吉のように舞台で見得を切ることも出来ませんが 慧眼ですね、秀吉と政宗は同種の人間であると感じておりました、つまり似過ぎているが故の近親憎悪・・。 器量に大きな開きがあったのはそうでしょう、何せ往時の秀吉は何百年に一人出るかどうかの人物、一方の政宗に天下を取る器量は恐らく無かった、それはその通りだろうと思います。 ただの若き独眼竜にはワルなりの爽快感がある、やった者勝ちという価値観もそう、太閤引き立ての諸侯には無い、転んでもただでは起きない逞しさと魅力があったのではないでしょうか。 >前田慶次郎、数千石であまた声があるなかで「我が主は景勝しかおらぬ」、 >捨て扶持で生涯を終えた >直江兼続、この馬鹿殿と思ったでしょうかねえ >でも涙が出るほどに好きであったに違いない私はそう思うのです 前田慶次郎・・面白い人であったのでしょう、と同時に家名を残すという責任を放棄した武将でもあった、故に好き放題に生きる事が出来た側面が無いではないのだろうと思います。 回答ありがとうございました。

回答No.3

こんばんは はーい3おバカトリオの1人どえーす 他の2人に失礼だろっ オラが言ったんじゃないやーい :オラなんて意地と誇りの間に生まれたんじゃなかろうかというほど :いじっぱりだんべぇ、 見栄、外見を気にして自身以上に魅せようとする者 :オラじぇんじぇん自分の見てくれなんて気にしないもんねぇ :オサレじゃないしぃ ;たぶんみえっぱりじゃぁねぇーとおもうだんべ ミエは張るものじゃない。切るものだ。”見栄を張る”という言葉と、”見得を切る”という言葉がある。 :おおー 前者は、自分の身の丈以上のことをしようとして、背伸びしている状態。こういう人は往々にして、よく失敗し、後悔する。こういう人は、弱いのを包み隠すのがそもそものその態度の理由だから、いざという場面では実はすぐに音を上げて、役に立たない。 :オラは何が起きても負けねぇーど ;しっぱいしたってぇぇ役に立たねぇーって言われたってぇぇ ;負けねぇーどぉぉぉー :だって男の子なんだもの :アタックゥゥーあたっくぅぅーナァァーンバァァーわぁぁーん 後者は、歌舞伎で使われる言葉だ。いざという場面で、格好をつける。自分がどんな状況にさらされていようが、やるべき場面で、やるべきことをしっかりとやる。これが、その言葉の意味だ。 :オラは仕事だきゃぁやるだんべぇ ;だんちょ・・座長にも言われてるだんべぇさー 見栄っ張りだからな。これからはミエの在り方を理解したはずだ。ミエは張るものじゃない。切るものだ。 :はーい •俺様は偉い •私は称賛されるに値する •俺のセンスは抜群だ •僕は大事に扱われて当然だ :だ・か・らオラ見栄だきゃぁねえだんべぇー :だってオサレじゃないしぃお馬鹿なんだもの :ちっさい事は気にしないっわかちこわかちこぉぉ これらの見栄を持っていると、そうでない現実に直面するたび、怒りが自分を支配する。これを、プライド誇り、矜持だと誤解してしまっている。 これが見栄ならどうだろう。これが、プライドでなく見栄だったと知ったら、どうだろか。 本当にプライドが高い、誇り高い人間とは、自分のことを一番最後に考えることが出来る、矜持のある、高潔な人間のことを言うのではないだろうか。 :オラはそんなキャプテン・ハーロックになるっ。 :そうなりてぇぇぇーどえーす。 またまたKJ座長様のQを逃してしまいましたぁー しばらくは、めっちゃんこいそがすぅぃーんだもの うほほぉぉーい

isoken
質問者

お礼

虎ちゃん、こんばんは。 >はーい3おバカトリオの1人どえーす 愛情の裏返しという事ですね、 kamejrou さんにそこまで言ってもらえる人はそうはおりません、勲章なんじゃないですか。 >:オラじぇんじぇん自分の見てくれなんて気にしないもんねぇ 少しは気にしましょうよ、その方が生きてゆく上で楽な事もありますから・・。 >前者は、自分の身の丈以上のことをしようとして、背伸びしている状態。こういう人は往々にして、よく失敗し、後悔する。こういう人は、弱いのを包み隠すのがそもそものその態度の理由だから、いざという場面では実はすぐに音を上げて、役に立たない。 いやいや 痛いとこを突くなぁ~、私はそれです、全てが当てはまるもの・・。 ただ男って背伸びしてナンボだとも思います、弱さを見せられない事もある、泣く泣く財布を逆さに振る事だってあるはずです。 >これらの見栄を持っていると、そうでない現実に直面するたび、怒りが自分を支配する。これを、プライド誇り、矜持だと誤解してしまっている。 怒りとはポテンシャルを引き出す為の導火線だと思います、人間を突き動かす最大の動力でもある、自分を高みに置いて追い込む事もたまには必要なんじゃないでしょうか。 >本当にプライドが高い、誇り高い人間とは、自分のことを一番最後に考えることが出来る、矜持のある、高潔な人間のことを言うのではないだろうか。 生きる上での基本線が違う人が稀におられる、高倉健さんみたいな人でしょうねぇ、余りに自分と違うものだから魅かれてしまうんです、私なんて。 回答ありがとうございました。

回答No.2

isoken大センセお邪魔します 私の意地と誇りですが、公文式算数教室に小1~高3まで通ったことです 幼少の砌にはスイミング・習字・そろばん・ピアノと色々やっていました が、どれも続かず、最後に残ったのが公文式でした あれは確か小2のときです 「公文式まで辞めるって言ったら『おかんに中途半端な奴って思われる』んだろなぁ」と幼心にピンと来て、辞めると言い出せなかったんです 先生も優しかったし、私には向いていたんでしょうね おかげで今は小さな学習塾で算数教えています

isoken
質問者

お礼

ミッタン、こんばんは。 >私の意地と誇りですが、公文式算数教室に小1~高3まで通ったことです >幼少の砌にはスイミング・習字・そろばん・ピアノと色々やっていました が、どれも続かず、最後に残ったのが公文式でした 意外や意外、お嬢でしたか・・。 もっとも私の頃は既に塾の時代でした、算盤もやったピアノも嫌々・・唯一ものになったのが習字です、お陰で今でも達筆と言われますが・・。 >あれは確か小2のときです >「公文式まで辞めるって言ったら『おかんに中途半端な奴って思われる』んだろなぁ」と幼心にピンと来て、辞めると言い出せなかったんです 子供だってそれ相応の意地はある、辞めなくてようござんしたねぇ。 >先生も優しかったし、私には向いていたんでしょうね >おかげで今は小さな学習塾で算数教えています ごめんなさい、ミッタンと算数というのが私には結び付かない、色の道なら分かるのですが・・。 回答ありがとうございました。

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     石田三成は結局負けてしまいましたが、 彼はどうすればよかったのでしょう。  質問の条件として、家康が史実と同じ寿命として。  もし、仮に上杉討伐の時に蜂起しなかった場合、 どうなったでしょう。上杉討伐のときより、 条件が悪い条件で蜂起せざるをえなくなったのか、 とにかく、我慢して他大名の大部分が徳川に屈服させられるとしても、 秀忠の代まで待つべきだったのか。  秀吉死後、そして、利家死後、三成が取れる選択肢は どんなものがあって、どれが正解といえるものだったのでしょう。 ただし、正解の条件として豊臣安泰、秀頼が安定して天下を 掌握するとして。  いろいろと考えると、利家死後ではあのタイミングが 最後にして最大のチャンスだったのでしょうか? 上杉討伐の裏をかいての蜂起にかんしては、 三成蜂起の時期が早すぎたとの説がありますが。  

  • 秀吉 対家康プラン

     豊臣政権は秀吉死後、家康に簒奪されてしまいますが、 秀吉も生前、家康を潜在的な仮想敵、かなり上位な敵として、 認識していたはずです。それで、晩年までに、 秀吉なりに家康封じ込めの対応策を練り、実施していたはずです。 が、実際には簒奪されてしまいました。何がまずくて、 何が足りなかったのでしょうか?何が誤算だったのでしょうか?  かなり長いので暇な人向けです。お暇なときに読んでお暇なときに 回答どうぞ。  対家康プランとして、 三河から関東に移封し、領内統治に手間暇をかけさせる。 東北仕置きの後の葛西一揆のようなものがおこれば、 それを理由に減封・改易。 実際には難癖をつける隙がなく、逆に土地から一度切り離された 三河家臣団に対して、家康の影響力アップ。  徳川領の周りに徳川とはあまり仲が良くない、または、 徳川を見張る役目の大名を配置。会津には初め大の徳川嫌いの 蒲生、次に、反徳川の石田三成と親しい上杉を移封。水戸には やはり三成と親しい佐竹をそのままに。東海道には豊臣子飼いの 山内、堀尾、中村を配置、尾張には七本槍の福島正則。中山道には 五奉行の浅野長政を配置。岐阜には織田秀信を配置。 蒲生は秀吉より先に病死、上杉は見込みどうり徳川とぶつかり、 逃げませんでしたが、徳川本軍が東海道に行ったのに関東平野に 攻め入らず。いろいろと事情があったかもしれませんが。 佐竹は三成、生前の秀吉からしたらまさかの中立。東海道組は 秀次関連の恨みと時勢を読んだか雪崩を打って徳川へ。おまけに、 武功派の福島正則まで徳川方についてしまい、織田秀信の岐阜城は あっさり落城して降伏。浅野長政はもとより親徳川だったらしいですが。  婚姻政策では秀忠にお江を嫁がせ正室にし、秀頼と家光を従兄弟、 秀頼と秀忠を義理の叔父甥の関係に。豊臣家と縁戚とすることで、 飴を与えると同時に母親同士が姉妹ということでいざという時の 外交ルート、また、衝突防止策になれば、と。実際、そういう動きに なりかけたけど、あまり、役に立たず。お江が正室として秀忠に 働きかけて姉のいる豊臣家への攻撃をやめさせようとしても、 家康・秀忠二重権力のため、効果が薄かった。史実ではあまり 聞かない話だけど、お江の腰回りに豊臣家のモノを紛れ込ませて、 徳川家の情報収集という計画があったかもしれないけど、お江が いる江戸ではなく、家康がいる駿府で政治が決まっていたので、 あまり意味がなし。お江の子が徳川家の家督を継げば、 母親つながりで親豊臣なってくれるかもと思いきや、その世代が 家督を継ぐ前に豊臣家滅亡、というか、正室お江の影響力が 強かったといわれる秀忠が継ぐ前に滅亡。さらに、お江の 影響力が強かった忠長でなく、お江があまり眼をかけなかった、 家康が直々につけた多分あまり豊臣家を好きでない春日の局が 乳母の家光が将軍候補になり、将軍に。  豊臣家中の地位において、秀次死後ではあるけど、五大老の 一人に任命。重要ポジションではあるけど、五人のうちの一人で 集団合議制でさらに五奉行という集団もあり、そもそも、五大老筆頭は 前田利家。枠組みの中にはめ込んでやろうと思っていたのかもしれませんが、 家康より先に利家が死去。前田家が親徳川に。上杉家は立ちふさがってくれたけど、 敗退、減封。毛利家は関ヶ原では本軍が参戦せず、参加した家中の一部が勝手に徳川に寝返って徳川を勝たせてしまう。 さらに空約束で大阪城を退去してしまって後に大規模減封。宇喜多は ガチで徳川と戦ってくれたけど、果たせず、お取りつぶし。五奉行筆頭の 浅野長政は最初から親徳川。石田三成は利家死後に謹慎、上杉討伐の裏をかいて、反徳川を結集させて徳川を滅ぼうとするも、逆に、反徳川をほぼ一掃の結果に。そのほかの奉行も それほど。中には徳川に内通していた者も。     秀吉の病床の本当に最後のほうの時に、家康に豊臣に弓を引かないとの 誓紙を書かせ、「秀頼のこと、お頼み申す、秀頼のこと、お頼み申す」 と涙ながらの哀願をしたそうです。もしかしたら、歳で本気で 哀願したかもしれませんが、あの秀吉の性格と経験上、そんのものはあの 家康には何の意味もないとわかっていたはずですし、誓紙も意味などないとも わかっていたはずです。加藤清正、福島正則等の豊臣恩顧で最後のほうまで 家康より秀頼を優先しようとした大名たちは家康が秀頼忠義の振りを している限り、家康につきしたがっていましたが、そういう意味で 二重三重に家康を縛ろうとしたのでしょうか?実際は秀頼忠義の 振りをして、清正、正則等を反徳川の戦いに利用し、利用価値が なくなれば、時間をかけて削り潰していました。清正たちも内心 ウソ臭さを感じていただろうけど、時勢を読んだのと、三成憎しと、 武功派を中心として自分たちが家康に対しても結束していれば、 秀頼さまを含めて無碍にはできまいと予想して、従っていたのかもしれません。  質問にもどりますが、秀吉が対家康プランとして考え実施しただろう ものを書いてみましたが、間違えているところ、足りないところ、 少しは効果はあったものがあれば、お願いします。  また、多分、こうすれば、もっと家康を封じ込めれた、というものが あれば、お願いします。    多分、予想より利家が早く、家康が長かった。三成の辛抱が足りなかった。 清正、正則は家康を甘く見すぎていたけど、秀吉は清正・正則は家康について きちんと判断できると思っていた。秀吉の予想以上に唐入りの負担が 諸大名にとって重く、その恨みが三成に向かうだけでなく、豊臣家、秀頼にも むかってしまった。秀次粛清で秀次家臣、秀次関連の大名たちの恨みが 予想以上に深く、いくら恨んでいても、豊臣家より徳川家を優先しないだろう 思っていたけど、実際は、ということでしょうか。    

  • 家康は何故 関ヶ原で勝ったのに

    家康は関ヶ原で勝ったのに なぜ島津を処分しなかったのでしょうか? 毛利は安芸広島130万から長州萩30万石 上杉も会津米沢120万から30万石など 西軍の主だった大名は減封 または蟄居や処刑などにされています しかし島津だけは薩摩 大隅75万石を安堵されました しかも毛利や上杉とは違い 最前線で戦い家康の本隊に突撃し直前で退却するという ことをしました また島津を頼った 宇喜田秀家も処刑はされず八丈島への配流で済んでいます 豊臣家でさえ65万石の一大名に成り下がったぐらいなのになぜ島津は無事だったのか? さらに佐竹家も常陸25万石から出羽久保田(秋田)25万石へと転封でした これも石高が減っていないので実質国替えです 家康は東軍の大将だったのだから島津や佐竹を潰せたはずですが なぜ助けたのでしょうか?

  • 余りにも見事な、男の散り際

    或いは歴史カテかとも思いましたが、敢えてこちらで・・。 「男の散り際」 と聞いて、先ず私が思い浮かべるのが、巷間余りにも有名ながら、関ヶ原に於ける大谷刑部少輔吉継その人、幼名を紀之介又は平馬。 御存知の通り彼の怜悧な頭脳は、明確に東軍の勝利を予想しておりました、加えて家康との関係も決して悪くなく、天下は器量人の持ち回りに帰すべし、つまり徳川の天下を許容する程度の順応性も持ち合わせていたようです。 一方東軍へ加担する恩賞といった意味合いではない、新知12万石の加増が関ヶ原以前の段階でほぼ決まっておりまして、上杉征伐へと至る途上、黙って佐和山城を後にしてさえいれば、彼自身の敦賀5万石・親族の3万石と併わせて20万石を超える身代となり、子々孫々を繁栄へと至らせた可能性は高いはず。 ところが最終的にはその全てを捨て、石田三成との友情に殉じた訳で、当然そこには西軍が勝利すればという打算は微塵も感じられず、恐らく友情という概念が希薄なこの時代に於いて、誠に稀有な例であったのでしょう。 その最期もまた見事、西軍を裏切り松尾山から駆け下った金吾中納言1万数千の大軍に僅か600の寡兵を以って立ち塞がり、且つ3度までこれを押し返して、西軍最後の意地を見せ見事戦場に花と散ったくだりは、涙無くしては語れないものです。 ところがこの話には余談がありまして、吉継直系の子孫こそ途絶えたが、孫に当たる人物が越前徳川家に仕官し後年その家老に列せられた由、一方この話を聞いた時の大老土井利勝が、「家康が知ったらさぞ喜んだだろう」 と語ったという。 そこには、関ヶ原で敵の主将となった人物へのバイアスは微塵も無く、家康自身が戦国の気風と男の侠気を愛した人物であったとの証左に他ならず、加えて天下を取った草創期の徳川家に人なしとは言えないエピソードでしょう。 大谷刑部に限らず、その種の逸話は決して少なくないはず、古今東西及びジャンルを問いません、或いは映像の世界でも結構、皆様が感動する 「男の散り際」 を教えて下さい。

  • 貴方が下す、石田三成への評価

    豪華絢爛たる戦国乱世の人材の内、長らく低い評価に甘んじていた代表的人物となれば、何と言っても石田三成ではないでしょうか。 私が子供の時分、まるで聖人君子の如く扱われていた加藤清正辺りがいる一方で、さながら権臣・佞臣としてそれはもう散々な評価が下されておりました石田三成、もっともその後両者に対する風向きが、少々変わったとの印象もありますが・・。 或る意味、徳川家康が側面支援そして企画・監督して、三成がキャスティング・主演した感のある関ヶ原、結果のみを考えれば、単に豊臣家の滅亡を早めただけとの御指摘もある一方で、彼のみが故秀吉への餞・レクイエムを手向けた唯一の子飼いであった、そうも取れるはず。 その後の歴史を知り得る我々から見れば、大坂の陣は付け足しに過ぎず、徳川政権成立へと至った最大のエポック・メイキングはやはり関ヶ原でして、豊臣の天下に別離を告げる或る種のセレモニーであった事は明確でしょう。 そもそも宇喜多秀家・上杉景勝といったごく稀な例外を除き、殆んどの大名家は家康の権勢に及び腰であった事実を見れば、彼が尻を叩かねばとても西方に10万もの大軍(もっとも実際に参戦したのは、その内の3割程度ではありましたが)を掻き集める事は不可能でした。 一方、人間の功利性を知り尽くした家康との比較に於いて、余りに正義・忠義といった倫理面のみを世を計る物差しとして捉え過ぎた甘さがあり、且つ敗れはしたが、東西20万もの大軍を参集せしめ、関ヶ原の戦いという後世に残る一大イベントを催して、なし崩しに徳川へという流れだけは食い止めた訳で、どうにかこうにか豊臣家の体面を保ったとの印象を持ちます。 さて前置きが長くなりましたが、主観・客観の如何に関わらず、皆様がお持ちの三成に対する評価・印象を御聞かせ下さい。

  • 戦国武将などを強い順に並べて

    以下のキャラで格闘ゲームを作るとして強く(ジャンルはばらばらですがトータルで)設定する順番に並べて見てください。全員じゃなくてもいいです。それとこいつは入れときたいとかもドシドシ(ヒットラーとかw)おねがいします。 前田利家・細川ガラシャ・佐々木小次郎・石田三成・徳川家康・立花闇千代・風魔小太郎・宮本武蔵・真田幸村・明智光秀・前田慶次・武田信玄・上杉謙信・服部半蔵・伊達政宗・小田信長・豊臣秀吉・カコウトン ・リクソン・チョウウン・リョフ・宮本武蔵・塚原ト伝・坂本竜馬・斉藤一・佐々木小次郎・近藤勇・沖田総司・土方歳三・平将門・徳川家康

  • 上杉謙信の信者って

    上杉謙信の信者って、軍記や家譜のデタラメを妄信し、関東(北条以外)、東北(出羽庄内)、佐渡、信濃、飛騨、加賀・能登・越中・越前も?、越後本国の大領土があったと思っているのか? ゆうに、400万石くらいあるぞ。 徳川家康は、250万石で天下取っているのだが。。。。。 敵の敵=勝手に与力扱いして、勢力圏という曖昧な定義で、領土化しているのではないのか?????? その論理だと、関が原の家康は、日本の8割方支配していたことになるな。 なお、佐渡、出羽庄内、越後内乱統一は、景勝以降である。 学研の歴史群像などには、関東・北陸・東北・信濃の大領土があったみたいに書いていますよ。まともな同時代史料を読めば、上杉家の主張は、大ウソだって、わかりますよ。謙信死後に、なんで崩壊して、一気に越後だけになるの?もともと越後だけだからでしょ。

  • 関ヶ原の合戦で、家康は勝利を確信していたのですか?

    関ヶ原の戦いですが、山岡荘八の小説によると、「家康にとって大博打であった」としながらも、家康自身は、平地に陣取っていることを確認してから「戦闘は半日で終わるだろう」と言っています。当日は雨が多く土がぬかるんでいるので、山から降るのには時間がかかる。戦は臨機応変に動くべきで、その点(戦略)での勝利を確信していたという描写です。 また、西軍は毛利輝元を総大将に担ぎながらも東軍と全面対決するのは本意ではない、という書状を家老の吉川広家が送っていることや、有名な小早川秀秋の裏切りなどあり、一致団結とは言い難い状況にありました。対して家康は、関ヶ原の一ヶ月前に奥州の上杉景勝を攻めるという名目で大軍を動かしますが、わざとゆっくり進軍し石田三成が大阪で決起することを待ちました。そうすることで自分についてきた日和見の諸大名を一致団結させ、東軍に従わせることが出来た、という描写になっています。 数字の面で行くと、両軍の総勢では大差なかったといいます。しかし西軍から東軍に寝返った軍一万五千、成り行きを山上から見守っていた軍は二万五千ということで、東軍の中で実際に戦闘に加わっていたのは半分に満たなかったとのことで、これが勝負を決めたようです。 こうして見ると、決戦が開始される前にすでに勝負はついていたという見方も出来ますが、実際はどうだったのでしょうか?家康および徳川の重臣たちは、この決戦に対してあらゆる手を打ち尽くした上で臨んだから、勝利の自信があったというこでしょうか? あるいは、周到に準備していたとはいえ、博打であるには変わりなかったでしょうか? 徳川家康が政治の手本としていたのは武田信玄で、戦の手本としていたのは山県昌景だったと言われ、部下の井伊直政に赤備えの軍団を作らせ、大久保長安に武田家の政治のやり方を真似させたのは有名な話ですが、信玄本人は「戦闘が開始する前に八割方決まる」みたいな発言をしていたと思います。(ナポレオンも言っていたような) 関ヶ原に臨む家康も、そうした準備があったということでしょうか? また、このあたり(関ヶ原の事前の駆け引き・攻防)に詳しい書籍などありましたらご紹介頂けますと助かります。よろしくお願いします。

  • 豊臣政権、秀吉死後のIF

    関ヶ原の合戦が起き、徳川政権が興ったのはなるべくしてなった結果だと後世から観たら思います。豊臣秀長や前田利家といった豊臣政権内での調整役の死。それによる文治派(近江派)と武断派(尾張派)の対立。豊臣秀吉自身、有力な武家出身でないために死を覚悟して尽くしてくれる譜代の家臣(徳川家康でいう鳥居元忠や本多忠勝ら)もいません。また秀吉・秀長ともに継子に恵まれず秀吉の晩年に秀頼が生まれましたが、8歳の子供に政権が担えるわけがなく、秀吉の死後、有力な大名からなる五大老・五奉行による合議制によって政治が執り行われました。(秀吉の天下統一の過程でほとんどの有力大名を残し、滅亡したのは関東の北条氏ぐらいでした。それにより豊臣政権は大名による連合政権ともいえ、それを秀吉自身の能力やカリスマでまとめ上げていたといえます。)また、2度の朝鮮半島出兵により西国大名、特に豊臣恩顧の大名が疲弊してしまいます。結果、政権を担うことができるのは関東に250万石以上の領地を持ち、朝鮮出兵を経験せず戦力・財力を温存でき、戦国武将として桶狭間合戦以来の経験を持つ徳川家康しか残らなかったと思います。(この時代大名はすでに経験の浅い2世世代に移っていた。秀吉死後、残った人物の中で家康がNO1であるという評価が当時あったのかもしれない。)さて、ここで質問です。豊臣秀長や前田利家が秀頼が成人するぐらいまで元気で長生きしていたら歴史はどうなったでしょうか。(1610~1615年ぐらいまで。政権内で発言力があり、親豊臣政権・親秀頼が絶対条件)また、蒲生氏郷・堀秀政や小早川隆景らも元気に長生きしていたらどうなっていたでしょうか。例えば、秀吉死後の五大老が徳川家康・豊臣秀長・前田利家・蒲生氏郷・堀秀政・毛利輝元・小早川隆景(これでは七大老)ならば、家康もあれほど好き勝手はできず、史実のような政権奪取の野望も持ったなかったかもしれません。また、史実どおり合戦が起きたとしても、西軍総大将兼現地総司令官が豊臣秀長で現地副司令官が蒲生氏郷と堀秀政(蒲生・堀の領地は史実と違い近畿・中部・北陸で50万石以上が望ましい。)、軍監は黒田如水(説得して西軍に親子共々協力させる。大谷吉継は黒田の補佐。)で前田利家は西軍副大将兼大阪城留守居として大阪城に入城させる。石田三成は大阪で兵站奉行として全軍の兵站に専念させる。上杉は史実通り会津で挙兵させる。(蒲生が会津で、上杉が越後で挙兵でも可。その場合、関ヶ原現地副司令官は堀秀政のみ。水戸で佐竹も挙兵させるのが望ましい。)歴史のIFになりますが、その後どうなったと思われますか?皆さんのご意見を聞かせてください。