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祈る事に意味はあるのだろうか?

eroero4649の回答

  • eroero4649
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回答No.7

日本人のほとんどはあまり宗教というのを意識しないで生きているのですが、それってつまるところ幸せなんだと思うんですね。滅多に外国が攻めてくることもないし、お米を作っていれば飢えることも少ない。つまり無理やりよその民族から略奪しないと生きていけないというわけでもない。さらに現代は病気になることも少なく「死」は日常にほとんどありません。最近は生まれてから成人するまでの間に身近な人の死は飼ってた犬が死んだくらい、という人だって少なくありません。 だからつまり、宗教に心の救いを求めないとやってられないということがないのだと思います。 これがユダヤ人辺りとなると、イスラエル(パレスチナ)っていうのはエジプト文明とギリシャ文明とチグリス・ユーフラテス文明の交差点になるような場所にあってつまり異民族が行き来する。しかも死海みたいなとんでもないところもあって砂漠だらけでその所々にあるオアシスにしがみつくように生きてるわけです。だからカリスマティックな神様でも使って民族を束ねないとすぐに異民族にやられてしまうなんて背景を持った人たちもいるわけです。 仏陀の説く初期仏教に関しての知識はあまり詳しくないのですが、仏陀は元々インド人ですから我々とは根本の価値観が違います。インド人にとってカースト制度は今も残る強烈なものですが、日本人も身分差別はありますがカースト制度ほど強烈じゃありません。そうすると輪廻転生(すなわち命の平等感)の感じ方が根本から違うんですね。 だから仏教自身も日本に入ってきて日本人に広めるために日本人向けのアレンジをしてきて、それで今の形に落ち着いているというのもあると思います。そして「今の教団のあり方は間違っている。教祖様が唱えた初期のスタイルに戻るべきだ!」というのは古今東西どこの宗教でも一定のリズムで起きていることです。 あの激烈なユダヤ教でも、ときどき人々の信仰が揺らぐ時期があって、その度に神の言葉を託された預言者が現れて「原点に戻れ」と神の怒りを伝えています。神はソドムとゴモラの町を滅ぼしましたが、その理由は信仰を忘れて堕落した暮らしをしていたからです。 ユダヤ教史上最大の宗教改革運動がイエスによるものでした。イエスはユダヤ教のラビ(お坊さんみたいなもの。教師と訳されることもあります)で、宗教改革を説きまして、これがキリスト教の誕生に繋がります。 そのキリスト教も度々原点回帰運動は起きていて、プロテスタントが生まれたのも「今のカトリック教会がやってることはイエスが言っていたことと違う」からでした。 あのイスラム過激派の運動もある種の原点回帰運動ですね。コーランに「偶像崇拝はいかん」とあるのでせっせと仏像や昔の神殿を破壊して回っているわけです。 そして日本仏教が単なる儀式宗教と化している点ですが、よくよく考えてみたら日本古来の宗教(?)である神道は教祖もいなければ経典や教えさえなく、単なる儀式だけが存在する儀式宗教です。そして仏教は日本に入ってくるにあたり神道との衝突を避けるために神仏習合をしました。そんな歴史的経緯があるので、仏教が単なる儀式になってしまったのは、日本人が扱うと自然にそうなる流れになってしまうような気もします。

noname#217235
質問者

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