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江戸時代あたりの 小規模な寺について

neil_2112の回答

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  • neil_2112
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回答No.2

本尊が立派なのかどうか、その価値はそれこそ信心次第ですから、建物中心に回答します。 寺の建物は、檀家制度が施行されてから少しずつ立派になってきたと言えます。 檀家制度(寺請制度)が施行されたのが確か寛永年間、1638年あたりだったと記憶していますが、それ以前の地方の寺というのは、おしなべて小さなものです。 もちろん藩主の菩提寺だとか祈祷寺といったものはまた別の話ですが、そういう例外を除けば大体どこも立派な本堂を持つものは少なく、4坪から8坪、せいぜいで10坪程度の“お堂”とか“かまや”といった程度のものが主流です。掘建て小屋もようなものも多くあったでしょう。 そもそも意外と歴史の深い寺というのは少ないもので、転宗も含め、現存する寺の大半が16世紀から17世紀前半頃(新寺建立禁止令が徹底する頃)にかけて創建されたものだと思われます。 その成り立ちにはいろいろのパターンがありますが、代表的なのは、村の中の清浄な場所に段々と詣り墓が集まって建つようになり、そこに僧が住み付く格好で自然とお堂が建てられるようになるといったケース、それから庄屋とか長者といった上層農民が持仏をまつるお堂を建て、僧を住まわせて自分の家の法要を勤めさせていたりしたのが発展して村の寺になったケース、などが挙げられると思います。 いずれにしても、当初は小さなものからスタートしたのがほとんどでしょう。生活が安定しないわけですから、僧のほうもかたわらで農業もやっているような例がざらにあったようです。寺になりつつあるがまだ正式な寺ではない、といった状態の小さな建物が村にひとつはある、といった状態が寺請制度導入の前後の状態です。 やがて「寺院法度」が制定され、本寺と末寺の関係が規定されたりするなかで、徐々に「寺」というものの全国的な枠組みが整えられていきます。その後にいよいよ檀家制度が確立し、つまり寺の経済基盤が安定するようになってから徐々に伽藍が大きくなり、整えられていきました。 特に全国で安定的な発展をみた18世紀以降は各村落に大工が定着する時期でもあるそうで、この時期に家屋敷のみならず寺院のほうも専門的に間取りをした建物ができ始めたと言われています。大型化したのも当然この頃以降が主ではないでしょうか。 鐘の方は、伽藍に比べるとかなり重要性は低いわけですし、現在でも地方寺院で鐘を持たない寺は沢山あることからもわかるように、まず伽藍の整備が優先され、追って村の気運や有力者の存在といった要因次第で整っていったのでしょう。

num
質問者

お礼

回答ありがとう御座います 新寺建立禁止令なんてな物があったんですね。知りませんでした・・ 最近のお寺を見ていると、なんだか寺がどうやって出来てきたかと言うのが全く見えなくて。。。そんな展示会とか無いもんですかねぇー それにしてもインターネットっていっぱい情報あると言うけど、探すのってホント難しい。。最近痛感しております

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