pantomana の回答履歴

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  • キリスト教について

    キリスト教についてどのようなイメージを持っていますか? 無宗教、もしくは他の宗教を信じている方回答よろしくお願いします。

  • 他宗派・他宗教からの隔離のため情報統制をする宗教

    あれば教えて下さい。 てか、なんでカテゴリに宗教がないんですか?世界の根幹ではないのですか?

  • エホバの証人または聖書の神を愛だと信じてる人に質問

    私は論理的に考えて、全知全能の神様が作った世界が、今こんな体たらくになっている時点で、愛の神とは思えないんですが…。 それはサタンが招いた結果?人間がサタンの誘惑に負けた結果? そういうサタンや人間を生んだのも神様なわけですがその点についてはどうお考えなのでしょうか? 結果ばかり見ないで今まで神がどんなことをしてくださったか、どんな方法で愛を示してくださったか考えるべきといわれますか? 私は神が最初に世界を作ったとき、み使いを作ったとき、人間を作ったとき、神は現在のような結果も予知できたはずだと思います。だって全知全能ですから。私だったら愛しているなら作りません。私が全知全能の神様だったら復活しない人間、み使いが出てきてしまうなんて悲しすぎるので、それしか一番いい方法が無いならいっそ世界は作りません。まぁできない時点で全能じゃないですけど…。そう考えると今の結果を容認しながら世界を創造した神が、どんなに愛を示してくれたとしても手のひらの上で転がされているような気しかしません。これが不完全な存在(例えば人間)ならね、良いんですよ。至らないながらも善処したんだと言われれば素直に感謝できるかもしれません。しかし、神は全知全能です。その割には不器用というか、なんと言うか…本当に全能なのか?と疑問符を打ってしまいます。もしこれで全能というのならとても愛の神とは思えません。 第一、なんで完全な状態でこの上ない幸せな世界に住んでいたならサタンとかエバは神様に反抗してしまったんでしょうね?自分のほうが上手く世界を統治できると思ってしまったのは、神様に何か至らないところや疑問に思うところがあったからでは?サタンや人間だけが攻められるのも腑に落ちません。まぁ神様の世界なんで好き勝手したら良いんですけど、それなら自分のことを全能だとか至高の存在だとか公正で愛の神だとか言うなと思ってしまいます。 確かに、優しい面も神様にはあると思います。自分のわが子を生贄に差し出したことなんて最大の愛の表れだとよく言われていますね。そんな愛の証明さえも、もともと世界を作った動機に愛なんてあったのかと思ってしまう私にとっては???です。所詮何でもできる完全無欠で公正な間違いを何一つ犯していない神様にとっては創造するときに容認した一つの予想できたプロセスであって、茶番なんじゃないのと思ってしまいます。 ちょくちょくノアの洪水とか、カナンの人たちを侵略したりしますけど、まさに信じるものは救われるといった感じで、「信じる人には」優しい神様ですね。最後に大掃除して信じている人のみは復活もさせてあげるそうですし。でもそれって自分に賛同しない人は死ねってことじゃないですか?それって愛なんでしょうか? などなどの事がありまして、私には神が愛だと信じる人の気がしれません。どうかこんな私にも少しは理解できるように説明してくださいませんか? 色々失礼なこと言ったかもしれませんが、神が愛だと信じている人はどういった理屈で信じているのか純粋に知りたいだけなんです。ごめんなさい。 よろしかったら神が愛だ。と論理的に説明できるほど確信を持っておられる方、お答えいただけると幸いです。

  • エホバの証人または聖書の神を愛だと信じてる人に質問

    私は論理的に考えて、全知全能の神様が作った世界が、今こんな体たらくになっている時点で、愛の神とは思えないんですが…。 それはサタンが招いた結果?人間がサタンの誘惑に負けた結果? そういうサタンや人間を生んだのも神様なわけですがその点についてはどうお考えなのでしょうか? 結果ばかり見ないで今まで神がどんなことをしてくださったか、どんな方法で愛を示してくださったか考えるべきといわれますか? 私は神が最初に世界を作ったとき、み使いを作ったとき、人間を作ったとき、神は現在のような結果も予知できたはずだと思います。だって全知全能ですから。私だったら愛しているなら作りません。私が全知全能の神様だったら復活しない人間、み使いが出てきてしまうなんて悲しすぎるので、それしか一番いい方法が無いならいっそ世界は作りません。まぁできない時点で全能じゃないですけど…。そう考えると今の結果を容認しながら世界を創造した神が、どんなに愛を示してくれたとしても手のひらの上で転がされているような気しかしません。これが不完全な存在(例えば人間)ならね、良いんですよ。至らないながらも善処したんだと言われれば素直に感謝できるかもしれません。しかし、神は全知全能です。その割には不器用というか、なんと言うか…本当に全能なのか?と疑問符を打ってしまいます。もしこれで全能というのならとても愛の神とは思えません。 第一、なんで完全な状態でこの上ない幸せな世界に住んでいたならサタンとかエバは神様に反抗してしまったんでしょうね?自分のほうが上手く世界を統治できると思ってしまったのは、神様に何か至らないところや疑問に思うところがあったからでは?サタンや人間だけが攻められるのも腑に落ちません。まぁ神様の世界なんで好き勝手したら良いんですけど、それなら自分のことを全能だとか至高の存在だとか公正で愛の神だとか言うなと思ってしまいます。 確かに、優しい面も神様にはあると思います。自分のわが子を生贄に差し出したことなんて最大の愛の表れだとよく言われていますね。そんな愛の証明さえも、もともと世界を作った動機に愛なんてあったのかと思ってしまう私にとっては???です。所詮何でもできる完全無欠で公正な間違いを何一つ犯していない神様にとっては創造するときに容認した一つの予想できたプロセスであって、茶番なんじゃないのと思ってしまいます。 ちょくちょくノアの洪水とか、カナンの人たちを侵略したりしますけど、まさに信じるものは救われるといった感じで、「信じる人には」優しい神様ですね。最後に大掃除して信じている人のみは復活もさせてあげるそうですし。でもそれって自分に賛同しない人は死ねってことじゃないですか?それって愛なんでしょうか? などなどの事がありまして、私には神が愛だと信じる人の気がしれません。どうかこんな私にも少しは理解できるように説明してくださいませんか? 色々失礼なこと言ったかもしれませんが、神が愛だと信じている人はどういった理屈で信じているのか純粋に知りたいだけなんです。ごめんなさい。 よろしかったら神が愛だ。と論理的に説明できるほど確信を持っておられる方、お答えいただけると幸いです。

  • エホバの証人の教理について質問

    エホバの証人は神は定められたときに悪い人を一掃して良い人だけを助けて その人を地上で永遠に生きるようにさせてくれると言っているけど、 そんなことってあるのかな? だってさ、もし地上で人間が永遠に生きて、その人間が子供を生んだら 地球が人間でいっぱいになってしまうよね。 そのことに関してエホバの証人の説明はこうなんだ。 神はある時に人間の生殖能力を調整して子供が増えないように するんだって。 でもさ人間て生物だよね生物の定義は子孫を残すことだよ。 子供を生まなくなるって事は人間が生物じゃなくなるってこと? そんなのおかしいよね。教理に無理があるでしょ。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • イエスが なぜキリストか。

     イエスが なぜキリストか。  次に掲げる聖句に集中します。  その中で特には  ○ 人の内から生きた水が湧き出る  に焦点を当てます。  ▲ (ヨハネ福音7:37-39) ~~~~  37: 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。     「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。  38: わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり(*)、その人の     内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」  39: イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。  ~~~~~~~~~~~~  * 《聖書に書いてあるとおり》 ~~~~~~  ▲ (イザヤ書55:1) 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。  ▲ (イザヤ書44:3) ~~~~~~~~~~~~  わたしは乾いている地に水を注ぎ  乾いた土地に流れを与える。  あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ  あなたの末にわたしの祝福を与える。  ▲ (イザヤ書 58:11) ~~~~~~~~~~  主は常にあなたを導き  焼けつく地であなたの渇きをいやし  骨に力を与えてくださる。  あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ◆(α) イエスが なぜキリストか。  すなわち問題は 渇いた者に水を飲ませるだけではなく その人の内から水が湧き出るようにさせる。と言っていることにある。  闇を光があかるくするだけではなく――これは 人間の思いやりや科学の光がよく成し得る―― その人の内において心の燈心をともす。と言っている。  このゆえに イエス(人間)が同時に キリスト(神の子であり神)であると。  教義やその認識や人間としての努力や助け合いあるいは科学としての認識やその応用 これらすべての宗教や人智を揚棄し 個人の内側に火をともした。  ◆(β) イエスがキリストであるということは 宗教が揚棄されることであり キリストのキの字も言わないで済むようになることである。  それは かたちとして言えば ただひとつの信仰の類型を指し示した。神についてその名を何と言おうと 関係ないというところの《非思考の庭》がわが心に成るという問題。  この旨をキリストのキの字も言わないことによって われわれは 実現してゆけるはずだ。すべてわが主観の問題なり。  おそらくこの結果起こる世界のすべての宗教の解体については われら日本人がもっともよく成し得ることではないであろうか。  どこまで哲学の議論に耐え得ましょうか?  ご教授ください。

  • エホバの証人または聖書の神を愛だと信じてる人に質問

    私は論理的に考えて、全知全能の神様が作った世界が、今こんな体たらくになっている時点で、愛の神とは思えないんですが…。 それはサタンが招いた結果?人間がサタンの誘惑に負けた結果? そういうサタンや人間を生んだのも神様なわけですがその点についてはどうお考えなのでしょうか? 結果ばかり見ないで今まで神がどんなことをしてくださったか、どんな方法で愛を示してくださったか考えるべきといわれますか? 私は神が最初に世界を作ったとき、み使いを作ったとき、人間を作ったとき、神は現在のような結果も予知できたはずだと思います。だって全知全能ですから。私だったら愛しているなら作りません。私が全知全能の神様だったら復活しない人間、み使いが出てきてしまうなんて悲しすぎるので、それしか一番いい方法が無いならいっそ世界は作りません。まぁできない時点で全能じゃないですけど…。そう考えると今の結果を容認しながら世界を創造した神が、どんなに愛を示してくれたとしても手のひらの上で転がされているような気しかしません。これが不完全な存在(例えば人間)ならね、良いんですよ。至らないながらも善処したんだと言われれば素直に感謝できるかもしれません。しかし、神は全知全能です。その割には不器用というか、なんと言うか…本当に全能なのか?と疑問符を打ってしまいます。もしこれで全能というのならとても愛の神とは思えません。 第一、なんで完全な状態でこの上ない幸せな世界に住んでいたならサタンとかエバは神様に反抗してしまったんでしょうね?自分のほうが上手く世界を統治できると思ってしまったのは、神様に何か至らないところや疑問に思うところがあったからでは?サタンや人間だけが攻められるのも腑に落ちません。まぁ神様の世界なんで好き勝手したら良いんですけど、それなら自分のことを全能だとか至高の存在だとか公正で愛の神だとか言うなと思ってしまいます。 確かに、優しい面も神様にはあると思います。自分のわが子を生贄に差し出したことなんて最大の愛の表れだとよく言われていますね。そんな愛の証明さえも、もともと世界を作った動機に愛なんてあったのかと思ってしまう私にとっては???です。所詮何でもできる完全無欠で公正な間違いを何一つ犯していない神様にとっては創造するときに容認した一つの予想できたプロセスであって、茶番なんじゃないのと思ってしまいます。 ちょくちょくノアの洪水とか、カナンの人たちを侵略したりしますけど、まさに信じるものは救われるといった感じで、「信じる人には」優しい神様ですね。最後に大掃除して信じている人のみは復活もさせてあげるそうですし。でもそれって自分に賛同しない人は死ねってことじゃないですか?それって愛なんでしょうか? などなどの事がありまして、私には神が愛だと信じる人の気がしれません。どうかこんな私にも少しは理解できるように説明してくださいませんか? 色々失礼なこと言ったかもしれませんが、神が愛だと信じている人はどういった理屈で信じているのか純粋に知りたいだけなんです。ごめんなさい。 よろしかったら神が愛だ。と論理的に説明できるほど確信を持っておられる方、お答えいただけると幸いです。

  • エホバの証人はどのような宗教なのでしょうか?

    下記のような内容が規制されているのでしょうか?妻子が学んでいるので実状を知りたいと思います。これらの質問は私なりに得た知識ですが、これらが、実状であれば子供の将来もあるので心配しています。教えて下さい。 1、ハルマゲドンがくるから、長時間の労働は必要なく、この世での生活ができる範囲の仕事で十分と考えていますか?また、学業も同様ですか? 2、国歌・校歌を歌う事はどうしていけないのですか? 3、奉仕時間の妨げになるから習い事・クラブ活動等を避けたいとお考えですか?子供がしたいと言った場合はどうしますか? 4、エホバに対して否定的な情報は全て迫害されていると思われるのですか? 5、血は避けなさいという言葉が輸血禁止に直結して解釈されているのですか? 6、仲が良かった信者の方が背教者になった場合にその方とのお付合いは辞めますか? 7、我が子が背教者になった場合はどうされますか?子供の考えを尊重しますか? 8、我が子が背教者になった時に精神的なダメージを受けた場合はどのように対処しますか? 9、相手(夫または妻)がエホバ問題で理解してもらえない場合は離婚してもしょうがないと思いますか? 10、エホバの教えでおかしいと思った事はありますか?ある場合にどのような事でしょうか? 11、エホバの教えがおかしいと思っているが、今までの人生をいまさら否定できないと考えていますか? 12、柔道・剣道はだめですか? 13、選挙等も行わないですか?

  • キリスト教の最後の審判後の復活について

    キリスト教で最後の審判とか、復活とか言われますが、最後の審判で復活した場合、普通の人間として復活するのでしょうか?あるいは、全く違う形で復活するのでしょうか? キリストが復活したのは、弟子たちが死体を見に行ったら無くなっていて、イエスに会ったというので、人間の肉体として復活したのだと思います。そしてそのあと天に昇って行ったと記憶しています。すると、肉体の人間が空を飛んで行ったことになります。 しかし、先日牧師さんの話を聞いていたら、死んでも魂は天国で生きている、とのことでした。 すると、死んだ魂は天国に行って安らかに楽しい日々を過ごしているのに、最後の審判の日に地獄の火に焼かれる魂も出て来るのでしょうか?そして、天国に行った魂が、なぜわざわざ復活しなければならないのでしょうか?それがもし、人間の肉体の形で復活するのであれば、天国にそのままいた方が幸せではないか?と思います。 最後の審判後の復活は、人間の肉体を持っているのか、あるいは全く違う生命体の形で復活するのでしょうか?そして、それらと天国にいる魂とはどう違うのでしょう? ご存知の方、よろしくお願いします。

  • イエス・キリストと女性信者

    よく宗教の教祖や教祖的な存在である人が、女性信者に対して性的な関係を要求した、 という話があります。 私はクリスチャンではありませんが、新約聖書に対してずっと特別な思い、愛情のような そんな感情を持ってきていました。 大学の史学科でも、卒論では原始キリスト教を取り上げたくらいです。 時々、TVや本で、イエス様とマグダラのマリアとの関係が取り上げられます。 福音書も、今は4つですが、本当はもっともっと沢山あったと言います。 極端な言い方ですが、イエス様は既婚者だったり、恋人がいたりしたと思われますか? ※仏教の釈迦牟尼がどうか知りませんが、煩悩を断ち切ったと言います。 キリスト教等では、教祖は煩悩を断ち切った、超越した存在だったのか。。。

  • 水による洗礼は 何故なくならないのか

     ◆ 1. 《水による洗礼は 要らない》という命題を問うものです。  1-1. すでに二三度質問しています。このところ質問にあげてやり取りの中から答えが得られるという二度の事例に遭い この問いについてもこころみたいと思いました。  ◆ 2. これまでの経過としましては こうです。  2-1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  2-2. 《要る》の根拠は 《水と霊による》などの記述とそして神秘的なもので おそらくは サクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  ◆ 3. ユダヤ民族の 初めには基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとってもの規範としての律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  3-1. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらの信仰の中の神にもどった。  3-2. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  3-3. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  ◆ 4. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  4-1. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 同じである。と成ったのではないだろうか?  4-2. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学が有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  4-3. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるだろうか。  4-4. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  スサノヲ市民の自由のまったき自由にもとづくご見解を思う存分あきらかにして ご教授ください。