takashians の回答履歴

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  • なぜ才能がないのに努力をしようとするのか?

    なぜ才能がないのに努力をしようとするのか? それとも、才能がないから努力をするのか? しかしいくら好きでも才能がないと、どうしょうもない ものもあるだろう。 僕には高校時代に、野球部に所属している友人がいた。 しかし、彼はいたって野球がヘタであった。 案の定いっこうにうまくなれず三年間玉拾いをしていた。 それでも、彼は野球をやめなかった。 ある意味えらいとは思うが、スポーツの世界は才能が なければ、上達は難しい。ということがわかった。 また、音楽の世界も同じ事がいえるだろう。 モーニング娘に道重さゆみというこがいる。 「私かわいいでしょう」というキャラでよくテレビに でているので、ご存知のかたも多いだろう。 彼女は数年前にモー娘に入ったのだが、そのころから歌がヘタだった。 おそらく歌の才能がないのだろう。 そして先日、最近の彼女の歌を聞いたのだが、やっぱりヘタだった。 数年間、きびしい歌のレッスンを受けているはずなのに。 つまり歌唱力も才能だということを、彼女が証明してみせた。 才能がもろにでるスポーツや音楽の世界では、やるまえから、 あるいはやっている途中で、自分に才能があるかないかは 本人が気づくはずである。 そして、才能があるものしか日のあたる場所にでれない。と、 いうことも、心の中ではわかっているはずではないのか。 それなのに、それでも努力し練習する人が多いのはなぜか? ちなみにモー娘の道重さゆみちゃんは、歌がヘタでも可愛いので まったく問題はないのですが。

  • 日本人の本音と建前は必要な事でしょうか?

    日本人の本音と建前は必要な事でしょうか? 私は珍しく あまり本音と建前のない人間で 大概の事は本音か冗談なのですが 建前を繕いながら本音ではきつい事を言う日本人の習慣 これは必要な事なのかどうか?日本人らしくないと言えばそれまでですが 建前が嘘になることもしばしば 偽善者的でもありますよね?

  • 「人を殺してはいけません」

    「人を殺してはいけません」 なぜですか?

  • あるサイトの週刊スモールトークというのがありますが、

    あるサイトの週刊スモールトークというのがありますが、 物心ついたときから、「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」と教えられた。無口でふさぎがちな息子を励ますための親心からだと思うが、生まれてこのかた納得したことは一度もない。というか、完全に間違っている、とさえ思っている。そもそも天才とは、読んで字のごとし、「天から降ってくる人」である。大地からにじみ出たわれら凡人の中の優等生とは違う。優等生の切り札は努力、つまり、自らの目的意識によって奮い立たせた悲壮な精神力であり、天才の努力とは才能と完全に一体化していて、その接点において間然とするところがない。これは、本質的に異なるものである。 「天才は天から降ってくる炎である」、ナポレオンの言葉である。人目を忍んで積み重ねた努力も、泥水をすすって生きのびた苦労話も、すべて空しく思えるほど、神々しい才能が存在する。 などなどありますが、 天才の努力とは才能と完全に一体化しているとありますがいまいち意味がわかりません。 それに優等生の切り札は努力、つまり、自らの目的意識によって奮い立たせた”悲壮な精神力”というのも なんか難解です。 それに、 この文章を読むとつまり凡人は努力しても無駄だ、所詮人生は才能だ、という文章に捕らえられ、非常に腹が立つ文章に思えました。

  • あるサイトの週刊スモールトークというのがありますが、

    あるサイトの週刊スモールトークというのがありますが、 物心ついたときから、「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」と教えられた。無口でふさぎがちな息子を励ますための親心からだと思うが、生まれてこのかた納得したことは一度もない。というか、完全に間違っている、とさえ思っている。そもそも天才とは、読んで字のごとし、「天から降ってくる人」である。大地からにじみ出たわれら凡人の中の優等生とは違う。優等生の切り札は努力、つまり、自らの目的意識によって奮い立たせた悲壮な精神力であり、天才の努力とは才能と完全に一体化していて、その接点において間然とするところがない。これは、本質的に異なるものである。 「天才は天から降ってくる炎である」、ナポレオンの言葉である。人目を忍んで積み重ねた努力も、泥水をすすって生きのびた苦労話も、すべて空しく思えるほど、神々しい才能が存在する。 などなどありますが、 天才の努力とは才能と完全に一体化しているとありますがいまいち意味がわかりません。 それに優等生の切り札は努力、つまり、自らの目的意識によって奮い立たせた”悲壮な精神力”というのも なんか難解です。 それに、 この文章を読むとつまり凡人は努力しても無駄だ、所詮人生は才能だ、という文章に捕らえられ、非常に腹が立つ文章に思えました。

  • 純然たる観念論というものは決して存在し得ない

    純然たる観念論というものは決して存在し得ない 目に見え、耳に聞こえ、手で掴むことができ、味も匂いもするもの、例えば目の前にある一個のおにぎりは実は存在しないと言い、その一方、目には見えず、耳にも聞こえず、手で掴むこともできないもの、例えば神とか霊などは存在すると言う世界、つまり観念論というものがあります。 しかしながら純然たる観念論というものは決して存在し得ないのです。 なぜならば、観念論に支配された人間であれ飯を食ったり水を飲んだりしないわけにはいかないので、今自分が食っているおにぎりは存在しないのだなどと考えつつ飯を食うはずはないからです。 つまりこのような人間もおにぎりを食っている間は唯物論に支配されているわけであり、飯を食い終わって一息つき、うたた寝を始めるあたりから観念論に戻るという具合なわけです。 すなわち観念論というのは頭の中に一種の切換えスイッチがあって適当な時間帯になると唯物論から観念論に切り換わるようにできている、単にそういう類のものということができましょう。 従って宗教や神学などを含め純然たる観念論というものは決して存在し得ないということです。 さて皆さんはどう思いますか。