gesui3 の回答履歴

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  • 富山のほたるいか漁見学の宿

    4月下旬、富山県滑川市の深夜のホタルイカ漁の見学したのですが、 地元の滑川市のホテルの予約がとれません。 こういう場合、富山市か魚津市の宿をとり、、深夜で車移動など 可能でしょうか。その他対策があれば教えていただけると幸いです。 当方は富山は来訪歴なしの関東人です。

  • プロレタリア文学

    小林多喜二の蟹工船とか、党生活者、 特高警察をテーマにした小説を 読んで思ったんですが、 よく言われている事のようですが、 プロレタリア文学は労働者の置かれた 過酷な労働環境を上手く描いているけど、 それだけならルポを読んだ方が良いと思うし、 他のジャンルより読んでいても 面白味はあまりないなという気はします。 みなさんはプロレタリア文学の存在価値、 読む意味はどこら辺にあると考えてますか?

  • 文節に区切ってください

    等身大の科学としての博物学を大いに広めたいと思っている。  と強調する理由はもう一つある。 (池内了先生の文です) 2行目は1マス空いていますので新たな段落です。 「と」が3個出てきて困っています。

  • 文節に区切ってください

    等身大の科学としての博物学を大いに広めたいと思っている。  と強調する理由はもう一つある。 (池内了先生の文です) 2行目は1マス空いていますので新たな段落です。 「と」が3個出てきて困っています。

  • 不敬罪みたいなニュアンスの言葉

    周りに政治、経済を語る人が多いです。 私と言えば、選挙は欠かさず行きますし、新聞やニュースは見るものの、それよりも休みの時間は趣味に時間を割いてきた人間です。 そして、うっすら感じるのは、政治経済のことを聞かれたからとは言え軽々しく口にすると、不敬罪?にでも問われる空気を感じます。 日本は民主主義国家であり、一市民も大いに政治経済に思いをはせ、論じる姿が好ましいと思います。 しかし、「圧」を感じると辟易しそうになります。 もちろん例えば政治家は国家の命運をかけて政治生命をかけて政治活動しているでしょうから軽々しく語らないでしょうが、僕はナメるのとは違い気軽に語りたいです。 下手に語ると不敬罪?(ナメてる罪?)に問われる一方、語らないと大人じゃないと言われそう。 質問なのですが、不敬罪というのは適切ではなく、この質問の文脈でもっと適切な言葉(○○罪)はないでしょうか? つまり例えば、大人として政治経済に対する適切な発言が出来ていないことを責めるみたいな意味合いです。 よろしくお願いします。

  • 漢字や熟語の勉強法

    効率的な漢字や熟語の勉強法はありますか 工夫していることでも構いません よく書いて覚えろといいますが、ただひたすら書くだけというのは あまり効率的ではないように思えます (ある程度は書いて覚えるべきだとは思いますが…)

  • 卒啄同時ではなくて。。。

    弟子が優秀で師が殻を破る手伝いする必要がない といったニュアンスの諺だったか、慣用句か、表現があるような気がして、ネット検索をしているのですが検索の仕方が悪いのか、しっくりくるものにたどり着きません。 少し皮肉めいた言い方だったような気もするのですが。。。 どなたかしっくりくるお言葉いただけませんでしょうか。

  • 石原莞爾について

    石原莞爾は、なぜ満州事変の首謀者にも拘わらず戦犯にならなかったのですか?また、なぜ他の軍人達は、石原氏が反対したにも拘わらず中国との戦争を拡大してしまったのですか?

  • 地球が丸い認識

    NHKで、伊能忠敬を放送していて、ふと、思ったのですが、地球が丸いという事を日本人が知ったのは何年頃なんでしょうか?

    • ベストアンサー
    • tahhzan
    • 歴史
    • 回答数2
  • 本の一文には理由に相当する文がないこともあるのか?

    本に書かれてる文章は一文一文筆者が意図を考えて書いていると信じるのは間違ってるんでしょうか? 本を読んでいると、なんでそうだと言えるのだろうという文にあたることがあるのですが、その理由もちゃんと文章中に書いてあるか探してみても見つからないことも多いです。 たとえば宮沢賢治の永訣の朝を引き合いに出して感情に対してありあわせの言葉で名付けてしまうのではなく行動の記述を通じて客観的に記述することの大切さが説かれている文があるのですが、そこで「客観的に感情を記述するによって賢治は救われる。賢治が救われることでトシもまた救われる」みたいなことがことが書いてあるわけです。 賢治が救われることはその文章自体がが客観的に感情を記述することの大切さを説いていることからそれとなく分かるのですが、なんで賢治が救われるとトシが救われるのかがまるで分からない。それで文章をくまなく見てみるがやっぱりどう見ても理由にあたる記述がなかったりするんです。 確かに明らかに「なぜなら~だから」という構文などになっているような何かに対する理由を述べた記述にまでは、その理由が無かったとしてもとりあえず不満はありません。だってそうすると無限背進に陥りますから。 しかしそうではない文についてはその文に関連した理由に相当する文があるのではないかと思います。 受験国語では「傍線部について、なぜそうだと言えるのか説明せよ」式の問題がありますが、あれが限られた部分について問うているのはまず試験時間の制約上がありその他種々の制約や事情のせいでそうなっているだけで、原理上は文章を構成する「なぜなら」構文等を除く全ての文に対して同じ問いを設定することは可能なのだと思うわけです。そして受験国語の鉄則としては答えは文章中にあることになっているのですから、なぜそうかとという問いにも必ず問題の文章中から解答になるものを引っ張り出せることになるわけです。そういう問いが全ての文に対して立てれるということは、ということは全ての文には理由に相当する文が存在することになるわけです。 あるいは受験のなかでそういう問いを問われ続けるせいで、まとまった文章には全ての文に対して理由に相当する文が存在するはずなのだとう信念が形成されてしまったとも言えます。 せっかく本を買ったのに、一文でもなぜか分からないところがあったらそれを放置してしまってはせっかく本を読んだ意義が減ってしまうと思って、いままでずっとそうしてきたのですが、実は本当に特に理由もなく筆の勢いでなんとなく書いてしまったという文も普通にあるものなのでしょうか? 私は答えのない問いを自分で立てたあげく探していただけなのでしょうか? 回答よろしくお願いします。

  • 本の一文には理由に相当する文がないこともあるのか?

    本に書かれてる文章は一文一文筆者が意図を考えて書いていると信じるのは間違ってるんでしょうか? 本を読んでいると、なんでそうだと言えるのだろうという文にあたることがあるのですが、その理由もちゃんと文章中に書いてあるか探してみても見つからないことも多いです。 たとえば宮沢賢治の永訣の朝を引き合いに出して感情に対してありあわせの言葉で名付けてしまうのではなく行動の記述を通じて客観的に記述することの大切さが説かれている文があるのですが、そこで「客観的に感情を記述するによって賢治は救われる。賢治が救われることでトシもまた救われる」みたいなことがことが書いてあるわけです。 賢治が救われることはその文章自体がが客観的に感情を記述することの大切さを説いていることからそれとなく分かるのですが、なんで賢治が救われるとトシが救われるのかがまるで分からない。それで文章をくまなく見てみるがやっぱりどう見ても理由にあたる記述がなかったりするんです。 確かに明らかに「なぜなら~だから」という構文などになっているような何かに対する理由を述べた記述にまでは、その理由が無かったとしてもとりあえず不満はありません。だってそうすると無限背進に陥りますから。 しかしそうではない文についてはその文に関連した理由に相当する文があるのではないかと思います。 受験国語では「傍線部について、なぜそうだと言えるのか説明せよ」式の問題がありますが、あれが限られた部分について問うているのはまず試験時間の制約上がありその他種々の制約や事情のせいでそうなっているだけで、原理上は文章を構成する「なぜなら」構文等を除く全ての文に対して同じ問いを設定することは可能なのだと思うわけです。そして受験国語の鉄則としては答えは文章中にあることになっているのですから、なぜそうかとという問いにも必ず問題の文章中から解答になるものを引っ張り出せることになるわけです。そういう問いが全ての文に対して立てれるということは、ということは全ての文には理由に相当する文が存在することになるわけです。 あるいは受験のなかでそういう問いを問われ続けるせいで、まとまった文章には全ての文に対して理由に相当する文が存在するはずなのだとう信念が形成されてしまったとも言えます。 せっかく本を買ったのに、一文でもなぜか分からないところがあったらそれを放置してしまってはせっかく本を読んだ意義が減ってしまうと思って、いままでずっとそうしてきたのですが、実は本当に特に理由もなく筆の勢いでなんとなく書いてしまったという文も普通にあるものなのでしょうか? 私は答えのない問いを自分で立てたあげく探していただけなのでしょうか? 回答よろしくお願いします。

  • 本の一文には理由に相当する文がないこともあるのか?

    本に書かれてる文章は一文一文筆者が意図を考えて書いていると信じるのは間違ってるんでしょうか? 本を読んでいると、なんでそうだと言えるのだろうという文にあたることがあるのですが、その理由もちゃんと文章中に書いてあるか探してみても見つからないことも多いです。 たとえば宮沢賢治の永訣の朝を引き合いに出して感情に対してありあわせの言葉で名付けてしまうのではなく行動の記述を通じて客観的に記述することの大切さが説かれている文があるのですが、そこで「客観的に感情を記述するによって賢治は救われる。賢治が救われることでトシもまた救われる」みたいなことがことが書いてあるわけです。 賢治が救われることはその文章自体がが客観的に感情を記述することの大切さを説いていることからそれとなく分かるのですが、なんで賢治が救われるとトシが救われるのかがまるで分からない。それで文章をくまなく見てみるがやっぱりどう見ても理由にあたる記述がなかったりするんです。 確かに明らかに「なぜなら~だから」という構文などになっているような何かに対する理由を述べた記述にまでは、その理由が無かったとしてもとりあえず不満はありません。だってそうすると無限背進に陥りますから。 しかしそうではない文についてはその文に関連した理由に相当する文があるのではないかと思います。 受験国語では「傍線部について、なぜそうだと言えるのか説明せよ」式の問題がありますが、あれが限られた部分について問うているのはまず試験時間の制約上がありその他種々の制約や事情のせいでそうなっているだけで、原理上は文章を構成する「なぜなら」構文等を除く全ての文に対して同じ問いを設定することは可能なのだと思うわけです。そして受験国語の鉄則としては答えは文章中にあることになっているのですから、なぜそうかとという問いにも必ず問題の文章中から解答になるものを引っ張り出せることになるわけです。そういう問いが全ての文に対して立てれるということは、ということは全ての文には理由に相当する文が存在することになるわけです。 あるいは受験のなかでそういう問いを問われ続けるせいで、まとまった文章には全ての文に対して理由に相当する文が存在するはずなのだとう信念が形成されてしまったとも言えます。 せっかく本を買ったのに、一文でもなぜか分からないところがあったらそれを放置してしまってはせっかく本を読んだ意義が減ってしまうと思って、いままでずっとそうしてきたのですが、実は本当に特に理由もなく筆の勢いでなんとなく書いてしまったという文も普通にあるものなのでしょうか? 私は答えのない問いを自分で立てたあげく探していただけなのでしょうか? 回答よろしくお願いします。

  • 本の一文には理由に相当する文がないこともあるのか?

    本に書かれてる文章は一文一文筆者が意図を考えて書いていると信じるのは間違ってるんでしょうか? 本を読んでいると、なんでそうだと言えるのだろうという文にあたることがあるのですが、その理由もちゃんと文章中に書いてあるか探してみても見つからないことも多いです。 たとえば宮沢賢治の永訣の朝を引き合いに出して感情に対してありあわせの言葉で名付けてしまうのではなく行動の記述を通じて客観的に記述することの大切さが説かれている文があるのですが、そこで「客観的に感情を記述するによって賢治は救われる。賢治が救われることでトシもまた救われる」みたいなことがことが書いてあるわけです。 賢治が救われることはその文章自体がが客観的に感情を記述することの大切さを説いていることからそれとなく分かるのですが、なんで賢治が救われるとトシが救われるのかがまるで分からない。それで文章をくまなく見てみるがやっぱりどう見ても理由にあたる記述がなかったりするんです。 確かに明らかに「なぜなら~だから」という構文などになっているような何かに対する理由を述べた記述にまでは、その理由が無かったとしてもとりあえず不満はありません。だってそうすると無限背進に陥りますから。 しかしそうではない文についてはその文に関連した理由に相当する文があるのではないかと思います。 受験国語では「傍線部について、なぜそうだと言えるのか説明せよ」式の問題がありますが、あれが限られた部分について問うているのはまず試験時間の制約上がありその他種々の制約や事情のせいでそうなっているだけで、原理上は文章を構成する「なぜなら」構文等を除く全ての文に対して同じ問いを設定することは可能なのだと思うわけです。そして受験国語の鉄則としては答えは文章中にあることになっているのですから、なぜそうかとという問いにも必ず問題の文章中から解答になるものを引っ張り出せることになるわけです。そういう問いが全ての文に対して立てれるということは、ということは全ての文には理由に相当する文が存在することになるわけです。 あるいは受験のなかでそういう問いを問われ続けるせいで、まとまった文章には全ての文に対して理由に相当する文が存在するはずなのだとう信念が形成されてしまったとも言えます。 せっかく本を買ったのに、一文でもなぜか分からないところがあったらそれを放置してしまってはせっかく本を読んだ意義が減ってしまうと思って、いままでずっとそうしてきたのですが、実は本当に特に理由もなく筆の勢いでなんとなく書いてしまったという文も普通にあるものなのでしょうか? 私は答えのない問いを自分で立てたあげく探していただけなのでしょうか? 回答よろしくお願いします。

  • 問題発言について

    私は学校のことで色々悩んでいて、一昨日学校を早退することになりました。 早退するときに先生に職員室に入って早退することを伝えてから帰ってと言われたので普通に職員室に入って失礼します〜〜。と先生に伝えました。 ここまではいいのですが、そのあと先生に態度悪いね。だからみんなに助けて貰えないんだよ。と言われました。 これは問題発言ですか? そしてわざと私に向かっていったのですかね? 私がもうめんどくさかったのか、ただ単に追い詰めたかったのか😅 正直もっと学校嫌になりました。来週から行ける気がしません。 ※私は職員室に入る際、いつも通り普通に言ったつもりです。 また、相手は私が悩んでいるのを知っています。 出来れば沢山の方、返信お願いします

  • 日本語について

    「やりたいことに積極的な高校生」というのは日本語的におかしいですか?

  • ことわざ 四字熟語 名言 慣用句 など

    これらに当てはまることわざ、名言、四字熟語、慣用句などを教えてほしいです。 座右の銘として、『どんな人でも相手に関わらず誰もに良いところ尊敬すべきところがあり、それらを見つけて認め、尊敬できる人間でありたい』というようなものをもっています。 〝どんな人でも〟というのは、好きな人嫌いな人、関心のあるなし、親や友達、上下関係など何も関係がないことです。 もとの周りからの評価や人格、成績実績に関係なく本当にまずは一人の人間として扱い、相手の尊敬すべき点はこういうところだと認め尊敬することです。(結果として尊敬すべきところに人格や実績が当てはまるかどうかはまた別としてください) 四字熟語やことわざ、誰かの名言などの言葉にあてはまるものはありますか? 私の持つ意思の中に神はどうとかなど宗教関係はゼロですが、どうしても当てはまるものがあればそちらも教えてください。 とりあえず数知りたいです。当てはまりそうなものよろしくお願いします。 *別質問として扱って頂いても構いません これらを面接時に使うのですが、もし合致する言葉が見つからなかった場合、よく言われるようなことわざや名言等でなく、上記のようにそのまま説明するのでも良いのでしょうか。 また、上記の説明に不十分などなく理解可能な説明でしたか? 不備あればそちらもよろしくお願いします。

  • ことわざ 四字熟語 名言 慣用句 など

    これらに当てはまることわざ、名言、四字熟語、慣用句などを教えてほしいです。 座右の銘として、『どんな人でも相手に関わらず誰もに良いところ尊敬すべきところがあり、それらを見つけて認め、尊敬できる人間でありたい』というようなものをもっています。 〝どんな人でも〟というのは、好きな人嫌いな人、関心のあるなし、親や友達、上下関係など何も関係がないことです。 もとの周りからの評価や人格、成績実績に関係なく本当にまずは一人の人間として扱い、相手の尊敬すべき点はこういうところだと認め尊敬することです。(結果として尊敬すべきところに人格や実績が当てはまるかどうかはまた別としてください) 四字熟語やことわざ、誰かの名言などの言葉にあてはまるものはありますか? 私の持つ意思の中に神はどうとかなど宗教関係はゼロですが、どうしても当てはまるものがあればそちらも教えてください。 とりあえず数知りたいです。当てはまりそうなものよろしくお願いします。 *別質問として扱って頂いても構いません これらを面接時に使うのですが、もし合致する言葉が見つからなかった場合、よく言われるようなことわざや名言等でなく、上記のようにそのまま説明するのでも良いのでしょうか。 また、上記の説明に不十分などなく理解可能な説明でしたか? 不備あればそちらもよろしくお願いします。

  • 3月の富山はどのくらい雪が降りますか?

    受験生です。国公立大学の後期試験の出願先として富山大学を考えています。 北陸のほうへは行ったことがないので、受験当日の移動で降雪によるトラブルがないか心配です。3月ごろでも交通機関に影響が出るような降雪はあるのでしょうか?

  • 解釈

    この文の意味がよく分かりません。なぜ最初で多くの期間日本で過ごしたい。と言っているのに最後に日本のどんな図書館よりも便利となっているのですか?

  • 連体詞「あの」の被修飾語

    あのぼんやり光っている恐ろしい針の山も(蜘蛛の糸より) を単語に分けると あの/ぼんやり/光っ/て/いる/恐ろしい/針の山/も となりますね? あの(連体詞) ぼんやり(副詞) 光っ(動詞) て(助詞) いる(動詞=補助動詞) 恐ろしい(形容詞) 針の山(名詞=固有名詞) も(助詞) となると思いますが合っていますか? 「あの」が修飾しているのは「針の山」 ということになりますか?