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豊臣秀吉

秀吉は関白になったことで、どのような政治的効果を得たのだろうかという問を教えてください

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  • ベストアンサー
  • sebsereb
  • ベストアンサー率19% (68/346)
回答No.2

関白になることで、天下統一を進めた。 圧倒的な権威だったと思います。 本能寺の変の以前の秀吉の領地は、兵庫県と滋賀県の一部でした。 これに+明智光秀一派の領地(家来ごと引き継いだ)と、柴田勝家と信長の領地の一部をとったくらい。それで関白に。 関白になって、勝家の領地の残りや四国も従えて、家康は三河ごと臣従。その後は小田原平定に奥羽地方を動員できた。 信長が無しえなかった天下統一は、「関白を選んで政治を支配したから」とも言えるでしょう。 武力的にではなく政治界で先に天下(関白)を取ったので、他家を動員して小田原や四国、九州を平定したと言えるでしょう。

Ayuyu0920
質問者

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3033)
回答No.7

これ難しいですね。 たいがいの勅許は関白にならなくても実力でとれるし、官位も信長や足利義昭越えを果たしていますね。 将軍職より関白職のほうが高位で血筋にうるさいですし、多聞院日記に「天正12年(1584)10月16日条で、朝廷から将軍になるよう勧められたが断った」という一文があると言われています。 まあ関白になれるのであれば客観的に見れば足利義昭の力を借りずとも将軍にはなれたはずなんですよね。 何が目的だったか、単に低い身分上がりだから実利よりとにかく偉くなりたかったという可能性もありますが、目的があったと仮定してその後の秀吉の事跡を見てみましょう。 四国征伐 関白宣下 九州征伐 豊臣改姓 太政大臣 伴天連追放 刀狩 小田原征伐 朝鮮へ入朝要求 関白辞職し、秀次に譲る。太政大臣のまま 文禄の役 慶長の役 伏見城で薨去。 この中で考えると、たいがいのことって将軍で十分なんですよね。 ここから先完全に私の私見ですが、将軍ではなく朝廷を握らないといけない朝廷の専権事項。 これは対外外交と見ます。 やはり足利義満の前例もありますし、朝鮮や明を服属させたいとか貿易したいといったものが当初からあってその下準備に関白になったとみるべきではないでしょうか?

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  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2200/4872)
回答No.6

>秀吉は関白になったことで、どのような政治的効果を得たの 天皇を頂点とする朝廷内で、天皇に代わって政治を行う事が可能になった事です。 秀吉本人は「将軍職」に就きたかったのですが、足利義昭から「養子は拒否」されましたよね。 将軍就任の必須要件である「源氏の系統」になる事が出来なかったのです。 そこで、源氏でも平家でもない「公家の身分」を秀吉派公家と図って系図を偽造。 「関白」になった次第。 関白は、先に書いた通り天皇に代わって政を行う事が出来る身分です。 もちろん、将軍よりも地位も権力も存在します。 「予の命令は、天皇の命令だ!」と、各地に命令する事が出来ます。 「上官の命令は、恐れ多くも天皇陛下の命令だ」 「虜囚になるより、玉砕せよ!」 戦前の、陸海軍上官と同じです。 ※東京裁判で「陸海軍軍人は、天皇陛下の命令に従って行動する!」と、東条英機被告が述べています。 秀吉も、出自身分が低いので「天皇陛下の名のもとに政治を行った」のです。 ですから、明治維新では(徳川家が朝敵になっても)「忠臣」として神名が復活・豊国神社の再興になりました。

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  • y0702797
  • ベストアンサー率27% (231/839)
回答No.5

>秀吉は関白になったことで、どのような政治的効果を得たのだろうか ・太閤検地 1582年(天正10年)に始まった太閤検地は、豊臣秀吉が没する1598年(慶長3年)まで162回にわたって実施されました。 太閤検地では、測量の基準と年貢の換算方法が全国で統一されたことに加え、土地の所有者と年貢を納める責任者が豊臣秀吉の指示で決められました。 これは、豊臣秀吉が全国の土地の支配者になったということを意味していたのです。 ・1585年(天正13年)7月 秀吉「関白」になる 秀吉は「関白」に任じられたことを機に、京都御所の近くに「聚楽第」を建て、天皇をお迎えするなど天下統一の地固めを行った。 そもそも「関白」とはどんな官位なのかというと、公家の最高位で地位としては、征夷大将軍より上で(江戸時代になると力関係が逆転)、「関白」という名称も、天皇の御言葉に対し「間(あずかり)白(もうす)」という意味があるのだそうです。 ・諸国平定に伴う惣無事令の制定 1585年(天正13年)10月、関白となった豊臣秀吉は、自身の地位を明確化させるため、天皇の権威と圧倒的な武力を背景に「惣無事令」(そうぶじれい:豊臣秀吉が全国統一をするため、天皇の権威を利用し、戦の停止を大名へ命じ、大名間の領地紛争を裁定し、解決を図る法令)を制定。 ・朝臣・豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第 1586年(天正14年)9月に、正親町天皇から「豊臣」姓を賜っていました。 そして、同年12月に太政大臣に任じられた豊臣秀吉は、朝廷の最高官職に就く自身の地位を示すように平安京大内裏(だいだいり:平安京の天皇住居)の跡地に「聚楽第」(じゅらくだい/じゅらくてい)と呼ばれ、朝臣である豊臣秀吉の政庁兼邸宅として1587年(天正15年)9月に完成しました。 九州平定のあと、それまで拠点を構えていた大坂から京都へ移り、豊臣秀吉はここで政務を執り行っていたと言われています。 また、1588年(天正16年)4月には、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の聚楽第行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)も成功させています。 豊臣秀吉は、この場で誓約を掲げ、天皇や公家の所領を守ること、関白である自身の命に背かないこと、といった文書を参列者に示しました。 こうして、豊臣秀吉は織田信雄(おだのぶかつ:織田信長の次男)や徳川家康など、参列していた諸大名と誓約書を交わし、朝廷と自分への忠誠を誓わせることで豊臣政権を確立していったのです。 ・刀狩り令 1588年(天正16年)7月、豊臣秀吉は3つの条例からなる刀狩り令を発布。 「刀狩り令条文現代語訳」 1条 百姓が、刀・脇差・弓・槍・鉄砲、その他武具類を所持することを固く禁ずる。武具を持つことで年貢を怠ったり、一揆を起こしたりして、役人に逆らう者は罰する。代官は武具を集め、進上すること。 2条 取り上げた武具は、建立する方広寺(ほうこうじ:現在の京都市東山区)の大仏の釘や鎹(かすがい)に利用する。そうすれば今世のみならず、来世まで百姓は安泰となる。 3条 百姓は農具さえ持ち耕作に励めば、子孫代々無事に過ごせる。百姓のためを思ってのことであるため、ありがたく思って耕作に精を出すように。 もともとこの刀狩り令は、「九州平定」における政策の一部で、九州の諸大名と、畿内や近江国(現在の滋賀県)の主要寺社に向けて発せられた条例でした。 しかし、「奥州仕置」以降、一度発布した法令は全国に適用されるものとして扱われたことから、刀狩り令も同様に全国に適用される条例となったのです。 ・東国を治めて天下統一 惣無事令の発令後、一度は豊臣秀吉に臣従した北条氏でしたが、1589年(天正17年)、真田氏の「名胡桃城」(なぐるみじょう:現在の群馬県利根郡みなかみ町)を奪取するという領地紛争を起こします。 これをきっかけに、豊臣秀吉は法令に背いた北条氏直(ほうじょううじなお)に宣戦布告を行い、翌年の1590年(天正18年)に「小田原征伐」を始めることとなりました。 豊臣秀吉は、徳川家康を先鋒とする200,000余の軍勢を率いて関東に入り、北条氏の本拠である「小田原城」を包囲すると、北条氏は籠城作戦を採ります。 約3ヵ月にわたる抗戦の結果、豊臣軍に次々と支城を攻略され、北条氏直は降伏しました。 そして豊臣秀吉は戦後処理の中で、徳川家康に北条氏の遺領である相模、伊豆、武蔵、下総、上野、下野に移封(いほう:大名などを他の領地へ移すこと)することを命じて、諸大名の配置を決めたのです。 この小田原征伐の際に最上義光(もがみよしあき)や伊達政宗などの奥羽大名も、豊臣秀吉からの参陣要請を受け入れており、残る奥羽の仕置(諸大名の処分)もすぐに進行するものと考えられていました。 小田原征伐後の1590年(天正18年)7月、豊臣秀吉は奥羽に入り、臣従しなかった大名らに対する仕置を行います。 しかし、この奥羽仕置から2ヵ月後、豊臣政権の仕置に反発した出羽(現在の山形県・秋田県)で「仙北一揆」が発生。 これに続き、陸奥(現在の青森県・岩手県・宮城県・福島県)では、領地を没収された葛西氏と大崎氏による一揆が巻き起こり、新領主である木村吉清(きむらよしきよ)の居城を占拠するといった事態になってしまったのです。 この陸奥での一揆拡大を鎮めるため、豊臣秀吉は再仕置を決行。豊臣秀次と徳川家康を筆頭に、伊達政宗、蒲生氏郷(がもううじさと)、佐竹義重(さたけよししげ)、上杉景勝が陸奥に出陣し、一揆勢の鎮圧にあたりました。 このとき、再仕置軍には蝦夷(現在の北海道)から蠣崎慶広(かきざきよしひろ)も従軍し、九戸軍との戦いでは毒矢を用いたアイヌ兵が活躍したと言われています。 1591年(天正19年)9月、豊臣秀吉は大軍を率いて「九戸城」(くのへじょう:現在の岩手県二戸市)を開城させ、約1年に及ぶ陸奥の抵抗を抑えて奥羽を平定。 こうして、豊臣秀吉は武力と政治力を駆使して全国を平定し、織田信長の死後わずか8年で天下統一を果たしました。

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  • gunsin
  • ベストアンサー率32% (391/1204)
回答No.4

関白は朝廷での最高位です。 朝廷の命に背けば朝敵となります。 幕府の命に背くのと次元が違うのです。 太閤検地で荘園制度を完全に無くしました、関白職だから 出来た事です。

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  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6343/18901)
回答No.3

刀狩りをして それ以降 自分のような下層の人間がトップを狙って勝ち取ることができないようにした。 関白就任 1585 刀狩り  1588

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  • takochann2
  • ベストアンサー率36% (2062/5690)
回答No.1

天皇に最も近い最高位の官職ですから、日本で最高の権力者であることを万人が認めたことになる。

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