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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:足利義満の太政大臣就任と辞任の意義)

足利義満の太政大臣就任と辞任の意義

このQ&Aのポイント
  • 足利義満がわずか半年ばかり太政大臣に就任した意義と目的、辞任した理由について考えてみましょう。また、義満が天皇になりたいという説との関係も探ります。
  • 義満が将軍職を譲り、太政大臣を辞めた後も権力を維持できた理由について考えてみましょう。また、義満と義持の関係を家康と秀忠のような関係と比較することも検討してみます。

質問者が選んだベストアンサー

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  • D-Gabacho
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回答No.3

1 太政大臣に就任したのは、位人臣を極めたという実績づくりのため、そして、それをわずか半年で辞任したのは、出家したかったためだと思います。 義満が太政大臣を辞任したのは応永2年(1395)6月3日、出家したのはその直後の6月20日です。しかも、その前の4月22日、義満の出家をやめさせようと後小松天皇が室町第に非常行幸し、義満は仁和寺等持院に隠れたという事件が記録されています。かなり早い段階で出家の意思表示をしていたことがわかります。 おそらく将軍職を義持に譲ったこと自体、近い将来の出家を予定しての行動でしょう。征夷大将軍などの公職についたまま出家することはできません。かといって将軍を辞してすぐ出家した場合、太政大臣になって位人臣を極める機会は失われます。官職を辞した後も「前太政大臣」など前職の肩書きはずっとついて回りますから、権威づけの意味で、頂点を極めたという実績のないまま出家するより、太政大臣をつとめてから出家したほうが得策と判断するのは、至極当然だと思います。 なお義満の出家の目的に関しては、Wikipediaに「寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたと考えられている」とあります。義満の出家以後にはじまった明や朝鮮との貿易では、京都五山の禅僧が中心的役割を担っています。貿易で禅僧を手足として使ううえでも、出家したほうが都合が良かったのだと思います。ただ、そうした政治的な目的はもちろんあったでしょうが、義満は若いときから仏事に異常なくらい熱心でしたから、情熱的な信仰心の表れという面もあると思います。 2 出家してからも権力を維持した前例には、院政をしいた法皇があります。Wikipediaによれば、義満には、これまで上皇・法皇にしか認められなかった先例が数多く適用されているそうです。公的地位を退いても権力を手放す意志はまったくなく、法皇的存在になろうとしていたといえるでしょう。 将軍を譲ったとき隠居してもおかしくない老齢だった家康と違って、義満はまだ37歳、義持は9歳です。足利幕府の安定を考えるなら、当然こういう幼少の将軍は避けるべきで、自己中心的な行動といわざるを得ません。義持の弟義嗣の元服を内裏の清涼殿で親王の儀に准じて行い、自らの死後、後継者をめぐる混乱を引き起こしてもいます。

noname#247736
質問者

お礼

詳しく説明していただきありがとうございました。 本郷和人氏は、たしか、「義満は、天皇になりたかった」説を否定する見解を、その著書で述べられていたと記憶していますが、私には分かりません。ただ、ご回答にある「法皇的存在になろうとしていたといえるでしょう。」の「的」という表現は、納得できるような気がします。

その他の回答 (2)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (817/3046)
回答No.2

この時期の義満の人生は まず武家として南北朝の争いを終結させる。明徳の和約1393年 1394年には将軍職を義持に継がせる。(実務面からの開放) 自分の夢の明との貿易へ。 だいたいこんな流れで、まず太政大臣就任というのは、義持に後を継がせる一環です。公家というのは階級社会で、上が減らないとなかなか出世できません。自分が太政大臣になると現太政大臣が退任し自分の左大臣職もあくわけで、息子の席を一つ簡単に引き立てることができます。自分が止めればまた一つ空きます。もちろんいったん自分が位人臣を極めるとか、急にすべてを失わず将軍を止める上での激変緩和措置的な意味もあるでしょう。ただ義持は将軍就任と同時に官位もうなぎ登りするわけですが、このとき上の席を二つ空けたことによる加速は大きいかと思われます。 あと太政大臣退任の理由は、明に対する自分の立ち居地でしょうね。 明に対し自分を国王と名乗っており、これは臣下としてはあるまじき称号です。対外的には自分が日本のトップとして外交をリードしたい、そのためには天皇と上下の関係がない立場に自分を置きたいということでしょう。 2権力が維持できた理由は、まずやはり義満の功績はずば抜けています。存命中は誰も逆らえないでしょう。 第二に義満は家督は譲っても荘園の多くは譲らなかったでしょう。 家督を譲った後も金閣を建てあれだけ豪華に暮らしたのです。幕府としての権利は譲っても、兵と財は自分で保持したでしょうね。 第三に、第二とかぶりますが義満は勘合貿易でがっつり儲けています。 第四に、義持は調整役として優秀な政治家であったと評されています。まあそこまで対立する意義もなかったのではないでしょうか? なお義満と義持が本当に私的な意味で晩年まで仲がよかったかどうかは両論あります。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 まず太政大臣就任というのは、義持に後を継がせる一環です。……???太政大臣にならなくても、将軍の地位は継がせることができたのではないか???と思いますし、現にそうしているのでは??? (実務面からの開放)……???どういうことでしょうか???そもそも義満にとっての「実務」とは??? 公家というのは階級社会で、上が減らないとなかなか出世できません。……公家に限らないような気がします、というか、世の中って、みぃ~~んな、そんなもんじゃないかと。 あと太政大臣退任の理由は、~~天皇と上下の関係がない立場に自分を置きたいということでしょう。……義満の国王というのは、「日本のトップとしての国王」ではなくて、「宋から認められた冊封体制としての国王」だったのではないのですか???貿易による利益を得るための??? なお義満と義持が本当に私的な意味で晩年まで仲がよかったかどうかは両論あります。……質問の趣旨ではありませんが、父親の義満は、あまり、「息子のことを考えていなかった」のではないかと思いますし、息子の義持は、焼かなくてもよい「焼き餅」を焼き過ぎたのではないかと、いかにも現代にもありそうな人間模様のような気がしているのですが???

  • fujic-1990
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回答No.1

 ま、義満の気持ちは彼に聞いて見るしかなく、我々としては想像するしかありませんが、 (1) > 「わずか半年ばかりの太政大臣就任」には、何の意義、目的が > あったのでしょうか?  太政大臣は最高位ですが実務を伴わない名誉職だったそうですので、貴族を超えて武家が「位人臣を極める」ことに意義がある、と考えたのではないでしょうか。 > 「義満は、天皇になりたかった」説もあるようですが  天皇になりたいなら、天皇から姓をもらったり、官職を貰ったりする(それを受け入れる)ことはできないと思います。  「足利(源)姓」も「将軍職」も、返上するのが筋だと思いますので、天皇になりたかったのなら太政大臣にも就任すべきではないと思います。  ちなみに姓は、令和の天皇でもお持ちでありませんから、足利を名乗るなんて言語道断、自己矛盾の極みです。 (2) > 将軍職を譲り、太政大臣を辞めてからも権力を維持していた、 > あるいは維持できていた理由  さまざまな戦いを経て天下を統一してきた義満とその配下には、ボンボン義持が頼りなく見えたから、ではないでしょうか。  「家康と秀忠みたいな関係だった」と言えば言えますが、家康と違って義満は、すでに室町幕府三代目なので、あえて将軍継承の実績を作る必要が無く、つまり権力を義持に委譲するポーズを見せる必要がなく、実際にそんなことをしなかったから、「家康の側近 対 秀忠側近」のような紛争を招くこともなく、死ぬまで権力を維持できたのだろうと思われます。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 ま、義満の気持ちは彼に聞いて見るしかなく、我々としては想像するしかありませんが、……ということは、私は、日本史に詳しい方にとっても、「永遠の謎のひとつに、疑問を持った」と理解してもよいのでしょうか??? 貴族を超えて武家が「位人臣を極める」ことに意義がある、と考えたのではないでしょうか。……義満は、「自分は武士だと認識していた」ということですね。理解できるような気がします。平清盛とは違う点ではないかと私も思いました。知識がないのでこのレベルにしか達しません。ただ、むしろ疑問なのは、「わずか半年ばかりでなんで辞めてしまったのか???」ということですが、どう思われますか??? 天皇になりたいなら、天皇から姓をもらったり、~~言語道断、自己矛盾の極みです。……ストレートに納得のいくご見解だと感じました。 家康と違って義満は、すでに室町幕府三代目なので、あえて将軍継承の実績を作る必要が無く、つまり権力を義持に委譲するポーズを見せる必要がなく、……ご回答の趣旨を理解するのにかなり苦労しました。すべてではないかもしれませんが、理解できたかもしれません。ただ、「家康の側近 対 秀忠側近のような紛争」については、まだ、まったく知識がありません、というか、江戸時代そのものを、まだ勉強していません。何なのでしょうかねぇ???戦国時代以降というのは、知りもしないくせに、何となく、わかっているような気がして、そんなことの理解のために残り少ない人生をつぶす必要がないのではないかと、無意識に感じているのかも。笑

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