• ベストアンサー

戊辰戦争時の官軍の行進曲?について

railwaysの回答

  • ベストアンサー
  • railways
  • ベストアンサー率50% (8/16)
回答No.3

1、2番の方がお答えになっている様に戊辰戦争時における官軍のテーマソングといえば「宮さん宮さん」が有名です。 しかし質問された場面を考えると、”ぴーひゃららったった”の「官軍マーチ」ではないでしょうか。 この2曲は混同されることもありますが、笛と太鼓のインストゥルメンタルならばこちらだと思われます。 長州藩が取り入れた西洋式の行進曲はヤッパンマルス(日本マーチ)と呼ばれ、当時の人々は慣れない洋風の音楽に自己流の楽譜を作って演奏したと聞いたことがあります。 おそらくそのようなヤッパンマルスのなかで最もメジャーなのが「官軍マーチ」だと思います。

参考URL:
http://www.yuda-onsen.jp/
ayagi65
質問者

お礼

ご返答、ありがとうございます。 なるほど、ネットで調べCDで聞いたら、「官軍マーチ」でした。こんな昔の曲もあるのですね。本当にありがとうございました。

関連するQ&A

  • 戊辰戦争の時の官軍行進曲

    戊辰戦争で官軍が用いた行進曲で、その後民衆にもひろまって、歌詞もつけられた曲の歌詞、または、ドレミファを教えてください。

  • 戊辰戦争のとき慶喜が大阪城から抜け出したのは何故ですか?

    戊辰戦争のとき徳川慶喜が大阪城から抜け出してしまいました。 敵前逃亡とも見えるこの行為で、薩長側を勢いづかせてしまったようです。 慶喜の意図はどこにあったのでしょうか? 4つ考えてみました。 1.あくまで和平にこだわった。 2.体制を整えるため。 3.朝敵となるのを恐れたため。 4.パニックに陥って。 よろしくお願いします。

  • 官軍の東征3ルート

    鳥羽・伏見の戦いの後、官軍は東海、東山、北陸の三つのルートで 江戸の徳川慶喜を討ちに行きますが、なぜ三つに分かれたのでしょう? 特に北陸は道も険しく距離も長いのに、このルートでいく必要があったのでしょうか? またこの時の主な指揮官(軍監)にはどのような人物がいてどんな活躍をしたのでしょうか? また笛や太鼓を鳴らしながら進軍したそうですが、どうしてでしょうか?今で言う軍歌のはしりみたいなものなのでしょうか? またそんな官軍の進軍を、各地の一般の人々はどの様に見て、どう思っていたのでしょうか? その他東征軍に関してご存知のことを教えてください

  • 戊辰戦争で、なぜ東海道では戦闘がなかったのか?

    こんにちは。 戊辰戦争といえば、鳥羽伏見に始まり、東山道での甲州勝沼、北陸~東北での長岡や会津、それに函館の戦いが有名なところです。 一方、東海道では、戦いがなく、いきなり江戸城開城に至ったかのような印象があります。 尾張は徳川御三家のひとつであり、駿府は駿府城代が治める幕府直轄領なのに、なぜ戦闘がなかったのか、不思議で仕方ありません。 いろいろ調べるうち、第一次長州征伐の総大将(参謀は西郷)であり、藩内佐幕派を処罰(青松葉事件)したりした、尾張藩主の徳川慶勝という人物がキーパーソンのように思えました。次の将軍を誰にするかのゴタゴタで幕府中央に嫌悪感があったのか、鳥羽伏見の直後に逃げた慶喜への怒りなのか・・・? それとも、東海道軍にいた西郷の外交手腕で戦闘が回避されたのか・・・? ・・・わかりません。 なぜ東海道では戦闘がなかったのか、ご存知の方おられましたら、ぜひご教示下さい。 また、参考になる書籍やウェブサイトを教えてくだされば幸いです。 どうぞよろしくお願いします。 *wikipedia 戊辰戦争 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89 *wikipedia 徳川慶勝 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D

  • 軍服姿の徳川慶喜の写真について質問

    次の写真をご覧下さい。徳川第15代将軍慶喜の写真です。 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6b/TokugawaYoshinobu.jpg この写真は、いつ撮影されたものでしょうか。鳥羽・伏見の戦い当時の写真なのでしょうか。それとも・・ (1)禁裏御守衛総督時代よりも前 (2)禁裏御守衛総督時代 (3)将軍時代 (4)戊辰戦争当時(鳥羽・伏見の戦を含む) (5)戊辰戦争後 (6)その他(……) ご存知の方、教えて下さい。

  • 鳥羽・伏見の戦い

    戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍はなぜ負けたのですか?グタイテキナ理由があるのですか?

  • 幕末

    「壬生義士伝」で初めて幕末をかじりました。壬生義士伝は新撰組の話なので他はあんまりでてこないのですが、あのあたりでの天皇というのはどういう位置付けだったのですか?流れ的には徳川幕府が大政奉還しますよね?(これって誰に奉還なのだろう?)でも、まだ薩長と会津系が戦っている。小説では薩長側は会津や新撰組に対して「錦の旗に弓をはなった」的ないいぐさをします。つーことは天皇は薩長側ってことになる。が、会津系も別に天皇にさからったつもりはなさそう。幕府も会津系も開国も大政奉還もOKで、だからといって薩長がなんで政権にぎんねん!の一点で戦いつづけたのでしょうか?とにかく徳川幕府終焉も開国もみなOKだったのになんで戦ってたのでしょうか?あと、天皇はどこにいたのでしょうか?江戸城?京都?あと、鳥羽伏見の戦いの時徳川慶喜は京都にいたらしいのですがなんででしょう?江戸城じゃないの? すいません、どしろうとむけにお願いします。

  • 鳥羽・伏見の戦いに敗れたというか、戦わずして江戸に逃げ帰った徳川慶喜は、その開陽丸の船中に「妾」を乗せていたそうです。まったく「あきれた奴」だけれど、明治になってから、徳川家の再興を密かに、願っていたのか?十男十女をもうけたそうです。 もちろん何人か「妾」がいたと思いますが、今の日本では、「妾」を囲ってはいけないですよね。 そのことが規定されている法律名と条文を教えて下さい。

  • 慶喜の本当の気持ち

     「家康の再来」とまで評された慶喜ですが、鳥羽・伏見の戦いでは、総大将でありながら、幕府軍を裏切り、江戸に逃げ帰りました。又、その後も、ひたすら恭順謹慎の態度をとり続け、江戸城の無血開城までしてしまいました。  慶喜は、「あの時は、ああするより他なかった。やっぱり、あれが一番よかったんだ」と語り、そして、『慶喜の頭にあったのは、幕府がどうとか薩長がどうとかいう問題ではなく、「日本の存立」ただ一念だったのです。そして、日本人同士が争うという愚かな行為だけは何が何でも避けたかったのです。』      http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/yosinobu1.htm と紹介されていますが、 質問のひとつは、それならば、それ以降の会津藩をはじめとして、奥羽越の諸藩の尊い犠牲を食い止めることができなかったのだろうか?食い止める努力はしたのだろうか?という疑問が湧いてきます。どのように思いますか?もっとも、松平容保でさえも、生き延びて従一位に、嫡男は華族に叙せられているので、慶喜にとっては、その他は雑魚であり、どうでもよい存在だったのかも知れませんが。 慶喜も、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員となり、大正2年まで人生を謳歌されたとか。  質問のふたつめは、鳥羽・伏見の戦いからの、彼をあのような行動にかりたてた本心というか、まさに、「心の中」はどうだったのでしょうか?ということです。歴史上の人物、ましてや他人の本心は分からないとは思いますが、想像でもかまいません。私には、政治的意図などはなく、単に「命が惜しかった。助かりたかった」ということではないか?彼は、そもそも将軍という器ではなかったのではないか?、と考えてしまうのですが。どうでしょうか?  慶喜の行動の結果に対する「政治的評価」はどうでも良いです。質問ではありません。

  • 徳川慶喜について

    徳川慶喜について皆さんはどう思いますか?例えば鳥羽伏見の敵前逃亡や長州征伐時旗本を率いて最後の1兵まで戦うとかいきなりの保身行動。。。会津は勝手にしろみたいな行動、これが先代の家茂だったらどうだと思いますか?