愛についての概念研究

このQ&Aのポイント
  • 愛についての概念研究の要約文1:愛という言葉の本質を探り、絆との関係について考察する。
  • 愛についての概念研究の要約文2:愛は絆を作るための触媒であり、他者との共鳴と相互理解が重要である。
  • 愛についての概念研究の要約文3:哲学的な視点から愛の目標は絆を築くことであり、深い理解が可能だ。
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愛についての概念研究

きわめてめんどくさい。 やる気ない。 しかし私は、人から欲動をもたらされて突き動かされたりしない。 君たちが到達していない意思が私を突き動かす欲動になるのだ。 さて、ここまで読んで私が何を研究しているのか承知できる人向けの話題を投稿するよ。 たいていが男性として打ちのめされた哲学者だ。 廃人の野戦病院みたいな気分だよ。 おっちゃんがメンソレータムを塗ってあげるね。 過去研究で「絆」という言葉が「愛」という言葉の本質であると匂わせた。 今回は愛は絆を結ぶための触媒であるという考察だ。 人が自覚できる知性というのは言語が中心だ。 しかし、いい気分嫌な気分そうした事柄は思考に反映する。 思考と判断は、知覚された各要素を総合していて、言語的な思考のみを反映していない。 そして、他者と相互に理解しあう人間の成立過程で、現時点最強概念が絆だ。 血を交わしたに等しい関係のものを裏切ることは少ないだろう。 絆とは思考の総体が言語以外に及ぶ突破口で、五感を震わせるように他者と共鳴したなら、言葉は極めて補足的な文房具に過ぎない。 こうした他者への深い理解が可能だ。 愛の概念自体も哲学での取り扱いは、相互理解を容易にする概念であることだ。 愛の目標は、絆を結ぶこと。 今回はここらへんでいいだろう。 ここは学問カテゴリーの哲学ジャンルで、研究について読書感想文を募集しています。 私がさらに研究するための助けになります。

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  • aiwa75
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回答No.2

相手を大事に出来たらそれはもう愛だと思います。

Flareon
質問者

お礼

その点は別に侮辱しないよ。ン、クン、クンと匂いを嗅いで「!」としたのであなたの履歴を調べたけど女性でしかもアイケ系ですね。その点は別に侮辱しないよ。 恒例のレッツちちをもげダンスで、変態ショープレイでもしようかと思ったけど、なぜならそれがここのお約束だ。 愛にまつわる思考実験にこれ以上体を張る気が失せた。 とにかく今更くどくどいうのはやる気が出ない。

Flareon
質問者

補足

無関係の研究メモ、考えてみればこれを質問の体裁で出しても「ローマの白い羽」に命を狙われるのが怖くて誰も回答するわけない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 少しページ下の神の存在証明その4では、神の存在証明に関して、日本の神々の存在証明をした。ローマ教会の神を否定した。そもそも、悪魔とまで転落する被害を出した旧神が産み落とした不屈の赤子たちは、不毛の神殺しの無法に耐えて、帝国領内でキリストなる役目をこなしづづけた。聖霊として未成立の子供たちを見て、「神」とたたえたくても、「あの存在はいったい何なのだ」そうとしかまだ言えない。 そもそも、キリスト教は、世界のすべてに所有を主張するので、キリスト教圏以外で神の存在証明がされることを好まない。 神の存在証明は莫大な懸賞金がかかっていたが、私に振り出されることはないだろう。 はっきり言って、私はキリストだという印象を持たれやすい。 バカにする人だけでなく、思い当たる人もいるだろう。 私がキリストでないという事は、キリスト教徒にとって私は殺害対象だという事だ。 ローマ系の白い羽をもつ殺人鬼が言った。 「我々はすべてに疑いを持つので、納得するまで疑いぬくのです」 私は答える。「私はキリストと疑われる必要がない。自ら君たちを寄せ付ける影武者だと公言している」 キリストと名指しされ、自ら認めたものは即座に即死。 それがローマのキリストだ。 したがって、天界にいながら地上に降りることはない。 強引に交霊行うなら、燃料として人の生命を使い捨てにするしかない。 ローマのキリストは、巧妙に神として成立して確認されることを阻まれる牢獄に封印されている。 だからこそ、不屈の赤子が頑張っていても誰もキリストを知らない。 それがキリストなる役目を常にこなす聖霊の宿命だ。 ローマの白い羽は、私がキリストを認めると歓喜して殺す。 否定すると憎悪して殺す。 しかし残念だね。 反撃できるんだよ。 さてこの質問で募集するのは、私の神の存在証明に関する論考の読書感想文ではなくて、キリスト教圏での過去の取り組みに関する見解です。 ちなみに私の過去の作文だと、神の存在する実像に関しては記述しても「存在証明」とは食い違うでしょう。でもそういう事は文脈からかぎ取る妖精の気配や、甘い水の匂いにどう判断を下すかだけの事でしょう。

その他の回答 (1)

  • aiwa75
  • ベストアンサー率25% (3/12)
回答No.1

愛とは絆を結ぶ事、確かにそうかもしれません。 相手を大切にする事が愛だと思います。

Flareon
質問者

お礼

ありがとうね。 まあ普通簡単なことがからそっけなくていいんだよ。 ただしこの関連の研究テーマは極めて評判が悪く、似たようなことを言い回しを変えてくどくどと垂れ流さなければいけないのにうんざりしているよ。

Flareon
質問者

補足

ローマは神学をぶつけようという他宗教の神学者に猥談を持ち掛けてからめとったカルトだよ。 伝統の必勝法だ。 国情が不安定な時に侵食しやすく、そして結果として狙われた土地は崩壊する。 カトリックの原型となる資質なので、韓国とかは戦後の国情不安で完全破壊されてキリスト教圏だよ。カトリックは公式には韓国の宗派に否定的だが、実際はカトリックそのもので最初の兵隊が撤退しても、その後破壊しつくしたのさ。 教会は結婚式場だけでなく同伴モーテルやラブホテルを経営するのが良く、教会内で発生するレイプは実質的に職業訓練で、熱心な牧師ほどついそういう教育をしたくなるものだ。 これらは体質的なことだよ。

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    初歩的な質問です。 科学全般に言えることですが、哲学的思考は言葉を定義できないと正確な議論ができません。 辞書をパラパラひも解くと、 【定義】ある概念の内包を構成する諸属性のうち、本質的な属性を挙げることによって、他の概念から区別しその内包を限定すること。 とあります。 では、とまた見ると、 【概念】事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容 【属性】それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質 【本質】存在者の何であるかを規定するもの これを一部乱暴に置き換えると、 【定義とは】「ある事物が思考によって捉えられたり表現される時の思考内容や表象、またその言語表現の意味内容」の内包を構成する諸々の「それを否定すれば事物の存在そのものも否定されてしまうような性質」のうち存在者の何であるかを規定するものの属性を挙げることによって、他の概念から区別しその内包を限定すること。 分かりやすいような呪文のような言葉になります。 さらにこの文章を緻密に「定義」していくと、さらにエンドレスです。 さらに「真理」だの「永遠」だの「存在」だのを定義しても同じようなジレンマに陥ると思います。 と言う事は、定義は重要でありつつも、どこかで「まあ、だいたいこう意味だと。」と妥協しないと、いつまで経っても肝心の思考が始まらず、言葉の定義作業だけで終わってしまいます。 とどのつまり、哲学にとって定義とは何なのでしょうか? 。

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    前置きが長くなるが読んでくれ。 昨晩全く同じ質問をして削除されてしまった。 この質問は哲学で言語が思考であるという定説からより総括的な知性的活動に関する質問であり。 そのほかにも内観するビジョンと言えば心理学では多分取り上げているからそうした事の情報収集であり、学問研究の範疇を超えたそれ以外の回答は差し控えてくれないか。 霊能力者なら私を霊視してくださいとか。 私幽霊好きですとか。 そう言うオカルトは特にやめてくれ。 それからこういう思考をする私は、社会で少数派だよね。 私は霊能力気質を周囲にひた隠しにしていて、思考法の性質から、 直感が優れている。 先見性が高い。 こういう風に目されていて、それだけでどうしてそんなに凄いんですかと驚かれる。 それは説明しにくいことだったんだが、今回の質問本文をプリンのアウトすると丁度A4、2ページになる。 ちょうどいい内容なので、少数者として周囲に理解してもらう目的での活用を考えていて、そのために作文した論理が、読みやすいか、判りやすいか、これも関心があり簡単な読後感の投稿だけでうれしい。 私には人生に関わって、そうした少数者としての人生相談でもあるんだ。 もう一つ私は普段棺桶に片足突っ込んだようなことは考えていなくて、哲学する時には必ず酒が入っている。その酒が悪酔いになる様な回答をしてくると私自身が質問を荒らして台無しになるんだ。また削除されたらいやだから少しは気を使ってくれ。 以下が本文だ。 霊能力というと単なる迷信という考え方があるが、自己の思考法としてここまで明晰に分析できていれば、内容に関して一定の理解が出来るのではないだろうか。 思考法と哲学は共通項が多いので、作文として引用する機会が多いから、内容をアップデートするため改めてかくよ。 自分を理解すると言うのはなかなか難しくて、何故なら自分自身に疑問を持つことは、それ自体が自己に対する否定的な考え方だからだ。 ろくな結果にならないんだ。 哲学と言えば自虐的な考えに挑戦した大先生も多い。 私は考える、これは自然なことでその思考を他者と比較することは言葉を通して断片的にしかできない。 そこで思考と言えば、いつの間にか言葉の事だと言う定説が出来ているがそれについては異論がある。 発想方や直感とかかわって、ビジョン、イメージ、こういう言葉が引用されているね。 だから多くの人にとって実際は、映像を心で内観することが思考に組み込まれているのだろう。 霊視というあやふやな表現の正体は、普通に日常語でビジョンと言われるこの映像の内観だ。 私はこのビジョンの達人で、言語で補足しなくても映像だけで思考が成立する。 たとえばメモが撮りたくてボールペンを探そうとするだろう。 ボールペンの映像が見える。 いつもの鉛筆立てが見える。 前回ボールペンを使った場所が見える。 どっちにしようかと思いながらも足が前回ボールペンを使った場所に向かう。 足を進める間、ボールペンを片づけておけばよかったなと、ボールペンを片づける映像が見える。 そしてボールペンをみつける。 ちょっとそこら辺をかたずける。 こうした行動の一連の流れに、私には言葉による認識がない。 無音のまま映像だけで意味のある思考の形態が成立している。 もちろん、言語的にも思考しないわけではないから、映像と言語を組み合わせたり、2チャンネル化して映像と言語でそれぞれ別に考えたりも出来る。 言葉で自己を確認していない私は、言葉も映像もない無の境地と言われる瞑想状態も可能だ。 霊視というのは、ボールペンを探す様なこの知性的行いの延長で、誰か他者を想起してその人物像を内観で鑑定することだ。 そもそも映像の内観を伴う思考法は、言語的思考より自由度が高くて、言葉で気がつかない様な異なる視点の新発想ができる。 これが、「当たってる」と驚かれるんだ。 これらは本来知性の働きの一部だ。 私は科学万能というほとんど宗教みたいな迷信を持ち合わせていないので、、他者の人物像を鑑定することは、心を見ることだととらえている。 精神世界という言い方も出来る観念世界を見ているんだ。 知性の一部である以上、本来は理性的事柄だ。 世の中の霊能力者は人物像を鑑定する際に、 貴方の守護霊様のお姿を拝見するに、、、 貴方のご先祖様は、、、、 こんな言い回しを前提にして始めるよね。 これは重大な矛盾点があって、精神世界という生きた心に死者を割り込ませることなんだ。 こうした死者を前提に論理とっかかりにして、内観した映像を言語的思考に翻訳するといった形態が一般的だ。 ボールペンの話のように、映像だけで思考が完結するほどの私は、こうした翻訳のプロセスがなく、より明晰に直視している。 内観した人物像を思ったまま口に出すだけで面倒なことはしない。 言葉ってのは、思考の全容ではなく一部だが、言葉にすることで思考は形になるとは言えるね。 霊視能力を言葉で分析したこの論理は果たして了解できることか意見してくれ。 質問としては私が独自に進めている哲学研究に関する助言だ。

  • 哲学と言葉

    哲学というのは言葉で表現するので哲学と言語は切っても切れないような存在ですよね? 頭で思考している間も言葉で思考していることがほとんどだと思います。 けれど言葉になかなか表現できないような、現在の言葉では補いきれない思考などが浮かぶこともあります。 私は哲学に関して専門的な勉強はしていないので是非哲学を専門に学んでいる方達に教えてもらいたいです。 歴代の哲学者達の本など(入門書に近いものですが)読んでみると、“言葉を数式のように扱い、答えを説いていく”と感じるような文章が予想以上に多くて、数学者に似たようなものを感じました。 数学者の方達も数式を解く時、提唱する時、数式はイメージ、ヴィジュアル、直感で浮かび、またそれを直感で解けるもの、解けないもの(存在し得ないもの)との区別感じとり、解けると感じたものを信じてその数式に挑んでいくと聞きます。でもなんとなく理解できますよね? 漠然としていて文章もめちゃくちゃなんですが哲学者と数学者は結局同じことをしているように感じます。 はっきりとした違い、境界は何かを教えて欲しいです。 どんなめんからでもいいので根本的な違いを教えてください。 酷い質問の仕方でスミマセン。よろしくお願い致します。