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日野富子と細川ガラシャの間
大雑把ですが、この二人の間は約百年離れているようですが、日野富子は結婚後も実家の姓を名乗っていたのに対し、細川ガラシャは実家の明智ではなく、婚家の姓を名乗っています。この間に何があったのでしょうか。また、嫁に入った女性が皆、婚家の姓を名乗るようになったのか、人それぞれだったのか知りたいです。
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- oska2
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>嫁に入った女性が皆、婚家の姓を名乗るようになったのか、人それぞれだったのか 鎌倉時代・室町時代は、「夫婦別姓」が一般的でした。 源頼朝の妻は、北条正子。 足利義政の妻は、日野富子。 意外に思えるかも知れませんが、江戸時代でも同様でした。 夫婦同姓を名乗ってもいいし、別々でも良い。 法的な解釈で言えば、1898年の法律で「夫婦同姓」となった次第。 明智珠は、明治以降に「細川ガラシャ」と呼ばれる様になったのです。 まぁ、明治政府としては「天皇に忠誠を誓え!」と国民を教育していましたよね。 信長を滅ぼした明智一族は、逆賊扱いなんです。 ※当時としては、何ら問題が無い行為。 当時の細川家としては、過去でも明智と繋がりがあるガラシャは「細川家」として扱いたかったのですね。 余談ですが・・・。 時代と共に、為政者によって色々な事が起きます。 足利家は、江戸時代を通じて「武家の名門扱い」でした。 が、明治維新から1945年までは「朝敵・国賊扱い」だったのです。 後醍醐天皇に弓を引いた事が、原因らしい。 武家の多くは爵位を受けましたが、「足利家は、却下」となりました。 1895年に始まった時代祭りでも、2006年までは「室町時代は、排除」されていました。 2007年に、時代祭り史上初めて室町時代が行列に参加したのです。 足利義昭系は断絶していますが、古河公方系・阿波公方系の子孫も喜んだ事でしようね。
- SPS700
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これは時代の差ではなく、結婚で結ばれた両家の事情によるのではないでしょうか。僕の知っている甲さん(妻)と乙さん(夫)の場合です。 乙さんは三人兄弟の次男で、甲さんはひとり娘でした。結婚前に長男が亡くなったので乙さんは事実上の長男となり、両家で苗字の存続を巡って交渉が続き やっと乙さんは三男の弟に家督を譲って、妻の苗字に変えました。こうして、甲さんは婚家の姓を名乗らず、結婚後も実家の姓を名乗ることになりました。 このように、昭和初期でも、かなりの交渉期間を要したということは、婚家の姓を名乗るのが「普通」で、実家の姓を名乗るのは「例外」であったと思われます。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
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細川ガラシャは通称です。 本名は正式には伝わっていませんが、明智珠子(たま、玉、珠、玉子)と明智姓を名乗っています。 明智珠子を細川ガラシャと呼ぶようになったのは明治期のキリスト教徒が呼ぶようになったそうです。 キリスト教では夫婦同姓ですから。 夫婦同姓になったもの明治31年、「明治民法」が成立してからです。 キリスト教系の国(フランスやドイツ)の民法を参考に作られました。 それまで日本は夫婦別姓でした。