• 締切済み

生まれてもすぐに死んでしまう命は何故生まれてくるのでしょうか?

alessandraの回答

回答No.14

#2です。ご質問にあったタレントさんとは、向井亜紀さんのことです。本当に母親の病を知らせるために生まれたかどうか私の知るところではありませんが、そのような使命を与えられた赤ん坊であったと考えることもできます。偶然と片付けられないような出来事のように思います。私はスピリチュアルな思想について勉強中ですので、このような発想になりがちというともあります。が、中原中也(詩人)も、赤ん坊を亡くしてからその詩作にも影響が出ているようですし、(奉仕の精神を学ぶ?)スピリチュアルな側面から見ますと、奉仕つまり利他愛が最高のものと考えるので、そのような意味からすると、その苦難が彼を成長させたと言う言い方もできます。私がそのように語るのもおこがましい限りではありますが。ある話を聞いたことがあります。ある一人の女が自分の赤ん坊を亡くし、嘆き暮らしていた。あまり悲しむので悲しみを忘れる方法はないかと釈迦(だったかな、、、)に聞くと、方法はあるが条件があると答えた。その条件は、その村を訪ね、子供を亡くしたことのない家を見つけること。女は辛抱強く子供を亡くしていない家を探し訪ねたが見つからなかった。そこで、どの家も子供を亡くしているということがわかり、悲しんでいるのは自分だけではないと悟った、、だいたいそのような内容の話でした。聞いたことがありましたか。私は初めて聞いて印象深く感じました。この話は、質問者さまの質問の趣旨と多少ずれていますが、母親が赤ん坊の死を通してひとつの悟りなりを得たことは事実だと思うのです。 ただ話として理解できたとしても、実際にこのような出来事に遭遇した場合の心痛は計り知れないものなのでしょう。今日、岡田真澄さんの三男の死についての報道を聞いて、共感とまでは行きませんが、耐え難い心痛であったということは想像できました。 また「僕は十三歳」という本を書いた(名前がはっきりしないのですが)少年の父親のコサミョン(?)さんも同じように、息子の自死を通して歎異抄の世界へと開かれていったことなども考えると何か共通したものを感じるのです。

frau
質問者

お礼

こんにちは。 やはり向井亜紀さんのことですか。 子どもは自分に親を選んで生まれてくるそうです。でも親から教えられるために教師としての親を選ぶと思っていたのですが、親に悟すために生まれてくることもあるということ、これは今回の質問によって学んだひとつの見解です。 ここでご質問させていただき、様々な貴重なご意見で学ばせていただきましたが、私も「無駄な命はない」という結論を出したいと思います。 ありがとうございました。

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